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19910928 カザノヴァ大丈夫録(二)

体調悪い 頭に靄がかかったみたいで右の耳のあたりで低い周波数のうなり音が聞こえる 「CREA」私の好きな言葉に "独慎"――ひとりを慎む、というのがあります。誰も見ていない所でこそその人の本当の姿が出るから、自分を厳しく律するべし。/究極のノーブルさとは、外からは見えない本質の部分にあるのです。」 続いて北野武氏の発言から「「腹立ってるわけ。好きじゃないの、ああいうの。みんな、いかに生きるかとか、いかに幸せになるかとか、生きることばっかりやってる。でも、死のことも考えなきゃいけないと思うのね。いつ死ぬかわからないから、やることだけはやるさ。でも、その過程で明日死のうが、しょうがないだろうって。明日も生きようなんて思うのは未練たらしくて

   * [フェデリコ・フェリーニ セレクション カサノバ]

 『カザノヴァ回想録(二)』 岸田国士訳 「世には人生を不幸の集積に過ぎぬとなす者がある。これは言ひ換へれば生存は不幸といふことだ。しかし、もし生が不幸であるといふのなら、それなら死はまつたくその反対である。死は生とまつたく相反するものであるから死は幸福であるわけだ。かういふ推理は厳正なものとも見られよう。しかし、かかる言説をなす者は、たしかに病人か貧者である。その理由は、彼らが健康を享有し、充満した財布を持ち、心中爽快にして、セシル、マリインヌの徒を擁し、更になほよき希望を合せ持つならば、然り、彼らは断然その説を変へるであらうからだ。私は彼らの厭世家の仲間に入れる。彼らは貧窮な哲学者か、狡猾な乃至は憂鬱な神学者のうちにしか存在しない。快楽が存在し、われわれがそれを享有し得るのはただ生きてゐるあひだだけのことであるとすれば、生は正に幸福である。不幸といふものはたしかにある。私もそれについていささか知るところがある。しかし、さういふさまざまの不幸が存在するといふそのこと自体が、幸福の総和が不幸の存在に勝ることを証明してゐる。叢り咲く薔薇のなかに若干の刺があつたからといつて、その美しい花の存在を無視せねばならないだらうか! 否、生が善であることを否定するのは生を誣ふものである。私は暗き部屋にある時、窓を通して私の前に展開する渺茫たる地平線を眺めることに無限の喜びを感ずるものである。』

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