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19911010 ダイジョウブ・ダイジョウブ・ダイジョウブ

自転車にも乗らず村上読書 作中に「ケラワックおじさん」という名前が出てくるがこれは「路上」のジャック・ケルワックのことだろうか 『ダンス・ダンス・ダンス』は村上春樹の「ロード・ノヴェル」なんだろうか 村上春樹は彼の教養小説『ノルウェイの森』でその種本とでもいうべき『魔の山』を主人公に読ませてもいた 「CREA」「中島花代」から1年余り。毎日踊りや三味線、小唄の稽古に加えて花柳界の作法やしきたりなどを修行しながらお座敷にも出る。/小学生の頃から、花柳界を舞台にした泉鏡花や永井荷風の小説を読んでは、ひそかにあこがれを抱いていた。/「ゲームウォッチを片手に、ローラースケートで通学している自分とはまるで別世界。前世紀時代の写真集や当時

   * [村上春樹全作品 1979~1989〈7〉 ダンス・ダンス・ダンス]

 『村上春樹全作品 1979~1989 7 ダンス・ダンス・ダンス』 おまけの『「自作を語る」羊男の物語を求めて』から「そういう思いはとくに『ノルウェイの森』を書き終えたあとで急速に高まっていった。僕は何はともあれ彼のことを書かないわけにはいかなかったのだ。僕は羊男を描くことによって、羊男というものの存在をなんとかもっと明確に規定したかったのだ。そしてそれはある意味では、僕が僕自身を発見することでもあったのだ。『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公の「僕」がことあるごとに、いわば宿命的に、羊男とドルフィン・ホテルというデフォルメされた自己核に引き戻されていくように、作家としての僕もいつも何かの節目にさしかかるたびに、宿命的に羊男という存在に、そして羊男の住んでいる場所に、引き寄せられていった。それは僕ひとりのために特別にこしらえられた場所であるように――実際それをこしらえたのはこの僕自身なのだが!――僕には感じられたのだ。そういう気持ちを正確に他人に説明するのはとても難しい。僕は昔、自分で描いた架空の女性に恋をしてしまい、そのせいで数奇な運命をたどる画家の出てくる話を読んだことがあるけれど、あるいはそれに状況は似ているかもしれない。ある場合には、虚構が現実以上の現実的吸引力を身につけてしまうのだ。でも、僕は思うのだけれど、そういう新しいフェイズ上の現実を自分の手で作りあげられる、そして戻りたいと思ったときにそこに自由に戻っていけるというのはとても素晴らしいことだ。小説にはたしかにそういう力があるのだ。想像すべきものをピンポイントで捜し当て、それを正しいタイミングで結像させる能力、それこそが物語りを作る力である。しち面倒くさい文学理論やら、うつろいやすい世間的評価やら、そんなこととは無関係に、作家には――もちろんうまくいけばということだが――そういう種類のマジックを取り扱うことが可能なのだ。そしてそれをどの程度自在に扱えるかという力量の差こそあれ、そのマジックこそは、太古の時代の洞窟の奥に初めて仄かな輝きを発し、そしてそれ以降何千年にもわたって、無数の作家たちの手によって脈々と受け継がれてきた、物語という名の想像力の炎が作り出す影なのだ。」

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