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19961118 吉村昭 『間宮林蔵』

吉村昭 『間宮林蔵』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

 10日、吉村昭間宮林蔵』を読みました。

 吉村昭さん(1927- )の文章に初めて接したのは、文芸春秋社の女性雑誌「CREA」ででした。
 今考えると、女性誌にこれほどふさわしくない作家もいないと思われます。まあそういう方の連載が長く続くような雑誌ですから、男の私にも読めたのでしょう、何年間か毎月楽しみにして購入していたのでした(藤原新也中村紘子両氏の文章も印象的でした)。
 『間宮林蔵』を読んでどう同報メールで紹介しようか考えていたら、昨日の朝日新聞読書欄に、吉村昭さんの『街のはなし』という新刊を評した関川夏央さんの文章を発見しました。さすがプロの書き手、私の言いたいようなことはすべて書いてありますので、ちょっと引用を。

「地味で謙虚で苦労人 不朽の名作生む素顔『街のはなし』吉村昭著(文芸春秋)」
「「エッセイは、作者の素顔である」という吉村昭は、まず保守的な人である。
 冠婚葬祭にはつとめて出席するように、と父にいわれた。見知らぬ人からタダでものをもらってはいけない、と母にしつけられた。そんな遠い昔の教えを守って、縁薄い人の葬儀にも忙中を縫って参列し、駅前で差し出されるティッシュは決して受け取らない。
 つぎに、吉村昭は地味な人である。
 古い顔見知りのたばこ屋の老女に「本を書いているんだってね、ペンネームは?」ときかれ、「本名でやっているんですけど・・・」と低い声で答えた。
 <「そうお。頑張るんだね。今になんとかなるよ」とはげまされ、そうだ頑張らなければ、とあらためて思った>
 吉村昭はまた、必敗の信念の人である。
 あるとき夫婦げんかをして「出てゆけ」と叫ぶつもりが、「出てゆく」とつい口に出た。「それを境に、私は家内の顔色をうかがいながら日々を過ごすことになった」。奥さんはやはり高名な作家である。こういう人だから、ふたりの作家の平和な共棲などという"奇跡"をつづがなく永続できる。(中略)
 苦労人で、市井の知恵や「仕来り」を軽んじない吉村昭は、同時に「一度見た顔はほとんど忘れぬという」記憶の魔である。「過去三十年間に長崎に九十五回」行ったと書く記録の鬼である。そして、この会社員よりも規則正しい生活態度と謙虚さこそが、『長英逃亡』『冬の鷹』『水の葬列』『ポーツマスの旗』のごとき、綿密きわまりない調査と、周到な推論で構築した不朽の名作群の原点なのである。(後略)」

 子供のころ口にしたものの、それほどうまいとも感じなかったものを、大人になって久しぶりに食べてみて「あっ」と思う瞬間、ありませんか? なぜこの味があのときわからなかったのだろう。
 吉村さんは、私が二十代の頃すでにご活躍なさっておられたわけですが、その当時の私にはその名前がまったく眼に入りませんでした。誰かに「読め」と言われても拒否していたでしょう。(私の二十代を通じてのアイドルは、あの村上春樹さんでした)
 人間の嗜好というものは、歳とともに変わっていくもののようです。
 「保守的」で「地味」なものを素直に受け入れられるようになった自分を、成熟したと見るべきか老化が始まったとみるべきか。
 私の父親はほとんど料理などしない人間なのですが、イカの塩辛だけは別で、よく自分で釣ってきたイカを何かのあきビンに漬けていました。今も利尻のわが家の食卓にはイカの塩辛が上がります。子供のころも嫌いではなかったのですが、里帰りしてそいつを食べると、これが滅茶苦茶うまい。
 「保守的」だろうが「地味」だろうが、とりあえず自分の生活があって、塩辛がうまい、そういう幸せもある、というようなことなのでしょうか。




 10日、吉村昭著『間宮林蔵』を読みました。つづき。

 間宮林蔵といえば、やはり間宮海峡。
 『世界大地図館』(小学館)を開いてサハリン島を探します。028日本の周縁/オホーツク海周辺のページ。サハリンはとてもでかい島です。本州との比較図が載っているのですが、サハリン南端から北端までは、南紀潮岬から青森下北半島ぐらいまであります。その位置関係でいくと、間宮海峡は山形県沖あたりになりますか。
 私も北海道に生まれ育った人間です。北緯42°以北の気候について少しは経験してます。雪降ってからそのへんうろうろしてたら、死にます。いくら先住民の手を借りたとはいえ、その時代にサハリンの南端から間宮海峡のあたり(そのうえユーラシア大陸に渡り清国の役人とまで会っている!)まで旅行する、できてしまうというのは、はっきり言って超人です。肉体的・精神的によっぽど強い人間だったとしかいいようがない。
 そういう特殊な個性ですから、当然その人を仕えさせる側は重宝に使う。シーボルト事件の密告者(これは事実の曲解のようです)・幕府の隠密等々の悪名も残ったわけですが、私は林蔵に同情的です。少年のとき、その才能を見込まれ武士の家に養子に入り、自分の能力を究めたようとした人間が、時代の制約の中で、せいいっぱいその個性を生きたまでのことではないのか、そんなふうに感じます。
 鎖国外国船打ち払い派だった林蔵もやがて、開国することが日本の進むべき道であると考えるようになります。幕末を生きた開国派幕臣川路聖謨(としあきら)も林蔵に教えを請い、その知識を高くかっていたことを初めて知りました(私は川路聖謨という人物が好きなのです。この人のことを悪く書いてある本にいままで出会ったことがありません。理知的で人間味があって、仕事にも有能であったようです)。
 読後、改めて間宮正孝さんの「間宮林蔵ホームページ」にアクセスしてみました。いやすばらしいページだ。
 林蔵は、幕府役人として天保15(1844)年2月江戸の自宅で永眠、享年65。だったそうです。

 吉村昭さんが『間宮林蔵』をどのへんまで史実に沿って書いたものか、私にはわかりません。以前ちょっと触れました『東韃地方紀行』などをベースに書かれたものなのでしょうか。
 間宮正孝さんから、林蔵は利尻山にも登った記録があるとうかがっていたのですが、『間宮林蔵』中に利尻山に登る林蔵を発見できませんでした(利尻島は出てきます)。

 知りたいことがどんどん増える嬉しい読書でした。





 川路聖謨の本は平凡社東洋文庫の中に何冊か収められています。今手元にあるのは、『長崎日記・下田日記』。聖謨は、開国をせまるロシアからの使者プチャーチンに接し、その秘書ゴンチャロフをして「かれはひじょうに賢明であった」と評させたそうです。
 印象に残っているのは、子母沢寛勝海舟』の川路聖謨に関するエピソードで、聖謨自害の報を聞いた海舟が深く嘆くという場面。
 『大地動乱の時代―地震学者は警告する』(石橋克彦著・岩波新書)の冒頭では、下田で地震に遭う川路聖謨(例によって外国使節と交渉中)が登場します。

 間宮正孝さんの「間宮林蔵ホームページ」
 http://www.asahi-net.or.jp/~XC8M-MMY/


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