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19961220 清水博 『生命知としての場の論理』

清水博 『生命知としての場の論理』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

 12月12日、清水博(1932- )著『生命知としての場の論理 柳生新陰流に見る共創の理』(中公新書1333 1996)を読みました。

 生物学者による柳生新陰流の本。まあ例がないでしょう。

 カバーの惹句には「生命とは、刻々の創造の連続である。複雑な環境の中でリアルタイムに創出される知、即ち生命知がなければ生命を維持することはできない。著者は生命的創出知という新しい観点から「場」の文化を深く捉える方法を発見し、今日まで四百余年の命脈を保つ柳生新陰流の術と理にその知を見出した。本書は生命システムの普遍的な性質を追求しつづける著者による「創作的場所論」の確立と、それによる近代文明超克に向けてのテーゼである。」と書かれています。
 うまいことまとめはりますな。

 印象に残った言葉を適宜抽出します。

 「リアルタイムの創出」。

「このような試行錯誤に基づく知、「バクテリアの知」だけでは、先ほど述べたような、複雑な社会に生きる「動物の知」は解けません。(中略)つまり、少なくとも哺乳動物以上の動物は、知のあり方を進化させ、これとは別のタイプの知を併せ持つようになったと考えられるのです。それを私は「リアルタイムの創出(原理による)知」と言っています。」
 「さらに、一口に試行錯誤と言っても、何から何まで試行することはできませんし、何を試行するかということがあらかじめすべて決まっているわけでもありません。そこで「当たり」の確率を上げようとすれば、試行の仕方自体も新しく創意工夫したものでなければならないことが多いと思います。つまり、人間やその集まりを考えるときには、試行錯誤でさえも、リアルタイムの知の創出とは無関係ではないのです。」

 殺人刀(せつにんとう)と活人剣(かつにんけん)。
「『五輪書』からうかがい知れる武蔵の剣は「巌の身」の剣である。(中略)それは自分が相手を追いつめて打ち振るう剣であり、常に相手に向かい、一方的に相手を斬る技、すなわち殺人刀である。
 これに対して兵庫助の本質は威圧する剣ではない。むしろ斬ろうとすれば相手を斬ることができるように見えたり、身近に打ち込まれて思わず斬らされてしまう。相手は兵庫助を十分斬ったと思いながら、その瞬間に斬られているのである。柳生新陰流の剣の理は活人剣である。」

 場所的な創造。
「たとえば剣士は(役者は)自分ばかりでなく、その内部に真剣勝負の相手も包摂することができる場所、それが「自他非分離の場所」という意味ですが、この場所に立って場所を全体的に見ることがまず要求されます。そして自分の心(状態)の中に常に場所全体を映しつづけるように、自己の状態を規定していくのです。自己を規定するこの条件が拘束条件になります。そしてそのときの自己の状態を自己表現していくことが適切な「演劇表現」に相当します。
 また、素晴しい絵画はそれを見る人々を引きつけて止みません。そのわけは、その絵画が画家の心の自己表現であるばかりでなく、またそれと同時に、その絵画を見る人の心の表現にもなっているからです。その絵を描くときの画家は、すでに画家個人の自己中心的な観点を抜け出て、場所の働きに内面から衝き動かされて絵を描いているのです。これが場所の働きかけを内に受けるということです。自己を超越したものに内面から衝き動かされて表現するということがなければ、場所の一部である個人が自己を超越したもの(場所)を表現することはできません。
 剣士が無心に振る刀の一振りが自己の内部の表現であることは当然ですが、それと同時に相手の心の動き、つまり相手の内部の状態と整合している(したがって相手の自己表現と整合している)ことが保証できるからこそ、後は相手を斬り倒す技術をいわば理詰めで工夫してその技術を活用することができるのです。同様に、すぐれた絵画に魅せられている鑑賞者は、無意識のうちに画家に斬られているといえるのです。

 まだまだ紹介したい部分はあるのですが、大きな事件が起きていて、どうしても気がそっち(TVのほう)に行ってしまって・・・・。
 「危機管理」というのは、その「場に立って場所を全体的に見る」技術や論理なのかなと、引用しながら思いました。残念ながら今のところゲリラの手法のほうが、「活人剣」になってますね。



私の読んだ清水博さんの本

 『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か 増補版』 中公新書503 1990
 『生命知としての場の論理 柳生新陰流に見る共創の理』 中公新書1333 1996

「フィードフォワード」という清水さんの造語はすばらしいと思います。「過去、現在そしてすぐ先の未来にかけてのドラマの筋(ストーリー)がまったく見当がつかなければ、現在何をなすべきかもわからない。このすぐ先の未来の状況の現在への回帰のことをフィードフォワードと呼」ぶ、のだそうです。



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