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19970127 関川夏央 『知識的大衆諸君、これもマンガだ』

関川夏央 『知識的大衆諸君、これもマンガだ』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

   *

 1月22日、『知識的大衆諸君、これもマンガだ関川夏央(文春文庫)を読みました。

 まえがき「この本は誰に読まれたいか」によれば、「知識的大衆」とは、

「戦後、必要以上に高学歴化した日本社会には、いわゆる知識人はもはや絶えた。そして、およそ印刷物を定期的に読む習慣がある限り、彼らは古典的な意味での大衆ともいえない。高度大衆化社会とは上下の尖端を切り捨てるかたちで成熟し、かつてよりは底あげなったとはいっても、きわめて平準化した社会のことである。その巨大な核心が「知識的大衆」だといいたいのである。(中略)そして、高度大衆化社会の有力な表現手段、あるいは娯楽がマンガなのである。ゆえにマンガの質と志をはかることは、日本社会の質を検証することにつながると、わたしは考えている。」
 読まれたい誰かに対する、関川さんの思いは、
「再度いう。この本はマンガ嫌いのための本である。そして彼らがマンガを愛するようになることを目的とはしていない。好まぬなら一冊も読む必要はない。ただ日本語世界にはマンガという表現の大陸がすでに存在している、その事実をこの本によって認識してもらえたら、とのみ思う。」

 1月7日、午後八時から教育テレビ、韓国の漫画事情を取材した番組が放映されました。
 韓国の漫画家二人にインタヴューするのは関川さん。韓国通・スポーツ通であることは知っていたが、マンガにも詳しいとはしらなんだ。マンガ先進国日本に対する複雑な心情を語る韓国人漫画家、ジャンルの開拓者的なお二人でした、の話は大変面白いものでした。(日本マンガの吹き出しハングル化された本が大変多いようです。『スラムダンク』が人気と言ってました)
 次の日、西日本書店で買ったのが『知識的・・・』。

 まず最初に紹介されるのが、内田春菊南くんの恋人』(青林堂)。
 「わたしはこの物語を何度も読んだ。そしてそのたびに最終章に至って泣いた。」とあります。以前この同報で、私も、これを読むと泣く、と書いた覚えがあるのですが、関川さんの「告白」を読んでほっとしました。泣いていいんだ。
 私にとっては禁断の書物で、いいのはわかっているから古本屋送りにも出来ず(十数冊はあった内田さんの作品で、唯一書棚に残っている本なのです)、かといってうかつに読んで妻子の前で泣くわけにもいかず、開かれることのない本になってしまいました。

 最後は、かわぐちかいじ沈黙の艦隊』(講談社)。私は読んでいない。
 弘兼憲史課長島耕作』について書かれた「会社とはそんなにつらいところか」と、『沈黙の艦隊』「自己嫌悪の日本」の二編は、読みごたえがあります。(小川和久さんの名前も出てきます)

「世界が十九世紀に退行しないために日本はどうするべきか、という設問に『沈黙の艦隊』は、すこぶる不十分なかたちではあるが回答をかきこもうとした。「政軍分離」はともかくとして、誰もが虚構のフィールドとして選ぶことを勇気と表現力の両面からためらう日本の防衛と安保を、ここまでつぶさに構成し、自分の考えを展開しようと試みた作家としての栄誉は、すべてのジャンルを横断して、やはりかわぐちかいじのものではないか、ということだけは最後に記しておきたい。」

 当然手塚治虫の話も。「手塚のほかに神はなし」という文章。
「「日本人は、なぜこんなにも漫画が好きなのか。電車のなかで漫画週刊誌を読みふける姿は、外国人の目には異様に映るらしい」
 このあつらえたような紋切型はご多分に漏れず『朝日新聞』である。なんとその「社説」である。ところがこの一文の書き手は、私の負の予測を裏切った。
 私たちがなぜ漫画を好きなのか思い悩む必要はない、と彼は書きつぎ、なぜ外国人は漫画をこれほどまでに読まないのか、と反問してもいる。
 「答えの一つは、彼らの国に手塚治虫がいなかったからだ」
 まことに至言である。」

 ではなぜ、この国に手塚治虫が生まれたのか。
 24日に読んだ養老孟司考えるヒト』によれば、脳の一部が壊れ、字が読めなくある失読症で日本人だけに現われる症状がある。それはカナ失読と漢字失読で、ある人はそれぞれカナか漢字が読めなくなる。それは字を読むために、日本語では脳の二カ所を使っていることを意味し、「このことから理解できるのは、日本の漫画とは、実は漢字の音訓読みの能力を利用したものだということである」とのこと。

「なぜ文化現象として、日本で漫画が流行するか、こう考えてみれば、よく理解できる。それを外国人が理解できないのは、むしろ当然であろう。脳というモノサシを置くことによって、われわれはこうして、いわゆる文化の違いに一定の基準を見つけだすことができる。それなしに、ただ漫画の功罪を社会的に論じ、外国語教育を論じてみても、あまり有効ではないはずである。それを脳に基礎づけることで、われわれは必要なら、そうした現象に対する原因療法を発見できるはずである。もっとも私は、右のようなわけで、日本における漫画の流行や、日本人のいわゆる外国語下手を、病的現象だなどとは夢にも思っていない。国粋主義的に言うなら、言語については、外国人のほうがまさに「頭が足りない」のである。」

 韓国向けに限らず、日本のこれからのより伸びていくであろう輸出産業は、ゲームについで、マンガ・アニメであることは間違いないでしょう。
 世界は一家、人類はみなオタク。



 『知識的大衆諸君、これもマンガだ』関川夏央(1949- ) 文春文庫1996 510円 ISBN4-16-751903-8
 『考えるヒト』養老孟司(1937- ) 筑摩書房(ちくまプリマーブックス)1996 1100円 ISBN4-480-04201-6

  余談。
 某メーリングリストの情報によりますと、某古漫画屋さんでは、手塚治虫の命日(2月9日)を国民の休日にすべく、示威行為として、当日店員すべて手塚漫画のコスプレをするそうです。
 ・・・・・・・。



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