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19970715 田中康夫 『ペログリ日記 '94~'95 震災ボランティア篇』

田中康夫 『ペログリ日記 '94~'95 震災ボランティア篇』
 「ポルケ・ブック・レヴュー http://www.booxbox.com/porque/」より

 6月28日、『ペログリ日記 '94~'95 震災ボランティア篇』(田中康夫、幻冬舎文庫)を読みました。

   * [ペログリ日記 ’94~’95―震災ボランティア篇] 田中康夫

 くやしいけれど、「まけた・・・」と思いました。脱帽です。

 田中康夫といえば「なんクリ」こと『なんとなくクリスタル』、と記憶されている方も多いことと思います。田中氏が一橋大学在学中に書いた本で、文学賞をとり、単行本として出版するや大ベストセラーとなったものです。一方で、その作品をけなすヒステリックな批評が巷にあふれ、ちょっとした騒ぎになりました。
 私は田中氏より二歳年下で、たまたまそのとき関東圏の某私立大学に在学中、後輩から借りた本をガールフレンドと肩を並べて読んで、二人同時に最後まで読み終えた記憶があります。いまさらこんなことをいうのも何ですが、小説というものは一冊の本を複数の人間が、同じ場所で同じ時間に黙読できるようには作られていません。それができてしまう奇跡の本が「なんクリ」でした。早い話が、小説という形をかりたすぐれた雑誌だったのだ、というのが今その作品について私が思うところです。日常的に小説を買って読む人にしか売れない本はけっしてベストセラーにならないというのは、今も当時も変わりません。

 「ペログリ」は「ペロペログリグリ」の略で、性行為を意味します。
 「ペログリ」と「震災ボランティア」という、凡人には接続しがたい言葉が、田中康夫という人間のなかでは自然に結合されている! それだけでも驚きですが、その結合の細部が、本人の包み隠さぬ言葉で表現されているわけで、その人間のありように感動します。

 長くなりますが引用させて下さい。 

 雑誌連載時にはなかった追加注釈部分が面白いのです。

 「(1994/)11/9 書き割りの如きタイユヴァン・ロビュションとウェスティンホテル東京との間に設けられた道路には当初、横断歩道が適切な位置に存在せず、故に歩道との間の植栽を掻き分けて横断する人々が引きも切らず、結果"獣道"が生まれてしまった。「人に優しいアメニティ」が時代の潮流だと語られて久しい日本の建設省の歴代事務次官は、東京大学法学部と工学部の卒業者が順番に務める。然れど、工学部出身者の学科を眺むれば、建築学科でもなければ況して都市工学科でもなく、決まって土木工学科と記されている。それは、橋やトンネルに象徴される公共事業を担って来た省庁に相応しき人事ではある。「建築」なるクリエイションは、優れて社会性を帯びている。例えば文章は、ある作品を読みたくなければ、一生、目にせずに終えることが出来る。映画も芝居も、更には音楽も。建築は異なる。好むと好まざるとに拘わらず、街に出たなら必ず、人々は目にしてしまうのだ、であればこそ、建築家には社会性が求められる。身過ぎ世過ぎの妥協という意味ではない。正に「アメニティ」の何たるかに関して、哲学を持ち得ているや否や、が問われる。」(188p)

 「(1994/)12/25 ハウステンボスにも唯一つ、見るべき施設が存在する。「オランダの水」をビデオと水上劇場を用いて語る、吉田直哉氏が手掛けた施設が、だ。低湿地のオランダは昔から、洪水を始めとして"水"に悩まされて来た。が、徒に戦おうとはしなかった。運河を作り、水と共生するベクトルを探し求めた。冒頭、遊びにやって来た孫達に対して老人が語る。征服しようと企てるものに対しては水は悪魔と成る。水の尊厳を認めて接する者に対しては天使と成る、と。五月蝿い爺さんだぜ、と孫達は室内を走り回り、水瓶を割り、その晩、洪水に苦しむ夢を見る。秀逸なパビリオンだ。何故、アスファルトではなく煉瓦敷きなのか、石畳なのか。学ぶべき、又、教えるべき欧州の哲学は円内に一杯、有る筈だ。なのに、一杯二〇〇〇円近いチャンポンを始め、飲食・物販店での消費のみをハウステンボスは善男善女に強いる。」(204p)

 地震当日分への注釈。

 「(1995/)1/17 「自粛」なる二文字を、食事中に思い浮かべなかったと言えば、嘘になる。「果たしてこのまま、東京に居て何時もと変わらぬ日々を送り続けて良いものだろうか、という気持ちを抑え切れなくなる」と1/19の項で記した感慨の萌芽は、既にこの時から有ったのだと思う。が、一体、自分に何が出来るのか、皆目、思い浮かばず、故にイタリア料理をイタリアワインと共に摂る自分に嫌悪したのかも知れない。とはいえ、あらたに「スティル『神戸』」「オン・ボランティア」を書き加えて、二年後の'97年1月に『神戸震災日記』を文庫化した今の僕は、少なからず自信を持って述べることが出来る。「自粛」なる二文字は、百科全書派的智性は十分に有れど、透視力とも呼ぶべき勘性と、隣人愛とも呼ぶべき温性の指数が著しく低い手合いが、苦し紛れに何時でも決まって持ち出す免罪符に他ならぬ、と。要は、勘性と温性をハイブリッドさせて、何を見て何を行うか、なのだ。世上では富裕層なる範疇に属すると目されている妙齢の女性が、家族も自宅も無事だったればこそ、と自転車に乗って山の上の邸宅から被害甚大の地区へ毎日、某かの手伝いに出掛けたとして、それを偽善と呼ぶ向きが居たなら、逆にその人物こそは心寂しき存在であろう。人間主義と行為主義なる法律用語を援用して僕が兵庫県知事や神戸市長や筑紫哲也氏の営為を慨嘆し続ける心智も、此の点に在る。人間主義とは、例えば三つ揃いを着て名だたる企業に勤務する人物だから信用出来る、むさくるしい格好で定職も持たざる人物だから信用出来ない、斯くなる捉え方だ。が、官僚・銀行といった組織で相次ぐ"不祥事"は、人間主義に基づく評価が最早、絶対ではなく、崩壊しつつあることを示している。行為主義とは、是々非々の精神と説明し得よう。仮に、人間主義には否定されるであろう広域暴力団員なる存在の人物が、然れども偶然にも車で通り掛かった道路脇の民家からの出火に気付き、携帯電話で119番通報の後、クラクションを鳴らして近隣住民を喚起し、バケツ・リレーでの消化を率先して行ったなら、それは行為主義に照らせば称賛に値する。対して、改めて述べる迄もなく、人間主義的には高い評価を与えられるであろう前述の如き公職者の、地震発生当日の行動は、凡そ行為主義的には否定される。とまれ、些かの誤謬も無き人間主義も行為主義も存在しない。是々非々とは即ち、価値対応化である。実は、相対主義とは未だに効力を失ってはおらず、寧ろ今こそ傾聴すべき概念ではあるまいか。などと縷々、開陳するや、「東側」の雲散霧消、「西側」の絶対勝利を高らかに語る「新しい教科書」派の面々は、価値相対化の教育こそが現代日本を脆弱にしたのだ、と色を成すでありましょうが。」(232P)

 「(1995/)4/21 欧米の航空会社を利用した際、機内誌を捲くると気付く。キャセイパシフィックもアリタリアもノースウェストも、デューティフリーの頁のみ、日本語が併記されている。貴方の一ドルで一フランで一ポンドで発展途上国の子供達にワクチンを鉛筆を届けられるのです、と記されたユニセフの小銭袋が挟み込まれていることなど気付きもしないであろう日本発着便の搭乗客らは、日本円には両替不可能な一セント、一サンチーム、一シリングに至る迄、デューティフリーで使い切ろうと目の色を変える。思うに、日本・韓国・台湾、更にはロシアといった諸国からのショッピング客でミラノのモンテナポレオーニ通りもパリのフォーブルサントノーレ通りも賑わう。何れの国民も"半径一メートルの幸わせ"のみを、より深く深く追及する心智を誇る。その上で「プレタポルテ」が囁く"皮肉"へと戻れば、先般、岩波書店社長の座を引退した安江良介氏が数年前、愛する娘の誕生日にプレゼントした一品に纏わる逸話を思い出す。嘗て美膿部亮吉東京都知事の懐刀も務めし彼は娘に尋ねた。何か欲しい物は有るかい、と。彼女答えて曰く、フェラガモのバラが欲しいわ。妻と息子も伴ってブチックへと足を運んだ氏は、娘が選びしリボン形状のバックルが甲の部分に施されたローヒールのペチャ靴を眺めて、一言、呟いたこれがメディチ家の栄華を今に伝えるフィレンツェの銘品か、と。往時、京浜安保共闘の一員であった高橋源一郎なる競馬評論の雄と、その妻たる物書きを生業とするらしき女性が二人並んで、"ブランド物"自慢をオフセット印刷雑誌で行なっているのに接する度、思う。十数年前に「なんクリ」を嘲弄した慧眼の無さを、先ずは自己批判してから、グッチだのプラダだのを銘醸ワインのグラスを片手に語り給え、と。」(280p)

 「(1995/)7/3 世界で最も高収益・高利潤な航空会社として知られるブリティッシュ・エアウェイズの今日在るを築き上げたのは、サー・コリン・マーシャルなる人物だ。現在は非常勤取締役会長の座に在る彼は、英国の高校を卒業後、船会社のパーサーとして社会人のスタートを切る。次いで米国に渡り、レンタカー会社で頭角を現した彼は、民営化路線のサッチャー政権下で、当時、瀕死の重症だったBAの立て直しに取り掛かる。徹底したリストラを陣頭指揮、とどうもすれば冷酷な"再建屋"であるかの如く捉えられ勝ちだが、真実は異なる。誰もがプラスαのサーヴィスを口にする時代だからこそ基本に忠実たるべきだ、との哲学を浸透させるべく、異なる職場から年齢・性別・地位の別なく三〇名ずつ順次、自らも出席するブレイン・ストーミングに招いた。徒やにホテルだのケイタリングだのに多角化進出するのを潔しとせず、飽く迄も搭乗客に安全と快適を提供する航空会社の頂点に戻ってこそ、供し手たる現場社員にとっても使い手たる搭乗客にとっても営み手たる株主にとっても物心両面に亘る"利潤"は齎されると説いた彼は、自身の移動の際には一人で前日にエコノミークラスに予約を入れ、ファーストクラスに空席が、と乗務員が機内で気遣っても。微笑み乍ら首を横に振った、との逸話を僕は複数名の日英の社員から聞いた。仮令、同じ方策のリストラであろうと指揮者次第で楽団員は意欲を抱きもすれば疲弊に陥りもする。毎回、操縦席に入り込むや開口一番、ウチのファーストは世界一だな、と誇らし気に語った全日空の普勝某氏には、凡そ理解出来まいが。」(324p)

 最後に本文から。震災十日目の田中氏。

 「一月二六日(木)
午前四時に起きて原稿。コーヒーハウスのアマデウスでブッフェを三人前くらい食べ、出発。昼食抜きで一日一〇〇キロ近くもバイクで走るには、かなりのカロリー量を要する。自前の物資に加えて日本航空、小学館からのキット、漫画誌も加えて、東灘区の御影地区。一〇年以上も前に付き合っていた甲南女子大出身の女性の実家も損壊していた。
2号線沿いの住吉神社に参詣している人々を見掛けて、阿呆じゃなかろかと思う。年末年始に"大儲け"した神社本庁は、何ら組織だった動きをしていない。避難所として開放するようにと指示を出した形跡もない。被害者と傍観者の二種類しか存在しない日本人のメンタリティーを象徴している。それでも、全壊した生田神社には全国の神社から救援物資が続々到着しているそうだ。が、配る人が居ないから山積みされたまま。これまた、極めて日本的だ。思えば湾岸戦争時に、金だけでなく血も汗も流さねば大人の国じゃない、と叫んでいた政治家や評論家の諸兄は何故、沈黙なさって居られるのか。些かもイデオロギーに関係なく、優れてドメスティックな問題で、よしんば血を流したとしても瓦礫の片付けで指を切る程度だと言うのに。小沢一郎先生に於かれては、惜しい事をした。新進党の同志と共に数少なき支持者の下へと駆け付けて、倒壊家屋の片付けでもしている最中に心筋梗塞でも起こされれば、平成の板垣退助と成り得たのに。
夕方、西宮にある朝日新聞の阪神支局へ立ち寄り、明日には東京社会部へと戻るS記者に会う。バイクの荷台に括り付けたプラスティック製に衣装ケースの中身を覗き、企業からせしめた物資の方が多いじゃないか、総会屋みたいなもんだね、と言われる。そこで、僕も伝える。マスコミがシンポジウムを開く時には決まって協賛企業を何社も募って、会場の費用もパネラーのギャラも聴衆への土産も、文化事業なるお題目の下に負担させているじゃないの。出版部への移管を画策したカラオケ好きの中江社長とは違って、朝日の良心だと少なくとも僕は高く評価している「AREA」だって、ゼネコン疑惑以前はイベントの度に大成建設の名前がクレジットされてたんだぜ、と。無論、気心の知れた間柄なればこそのジャブ。
引き続き国道43号線南側の香櫨園地区、飛んで東灘区の深江地区、灘区の六甲道地区を回り、夜十一時過ぎに大阪へと戻る。終日、風が強く、Tシャツ、シャツ、セーター、ジャンパーと重ね着しても寒かった。」(226p)

  日記によれば、この「震災の月」、田中氏は東京-大阪間を飛行機で往復すること、五回半。うち、震災前の二回は、関西での人妻とのデート。
 この当時私は、飛行機で移動する必要もなくボランティアできるはずの大阪に住んでいながら、何の行動も起さなかった。起したとしても、とても朝四時から夜の十一時まで動き回る体力も、田中氏より年齢的には若いのだが、あったと思えない。浮気をする甲斐性もない。
 田中氏に「まけた・・・」と思ったのはそんなわけです。

 言うは易し、行うは難し。
 できない理由を見つけるのは簡単。
 言い訳を取り繕うために、言葉を磨くことのないように。

 勉強になりました。


 『ペログリ日記 '94~'95 震災ボランティア篇』 田中康夫(1956-  ) 幻冬舎文庫 1997

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