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19980928 アルセーニエフ 『デルスウ・ウザーラ』

アルセーニエフ 『デルスウ・ウザーラ』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

 9月18日、『デルスウ・ウザーラ 沿海州探検行』(アルセーニエフ 長谷川四郎訳 平凡社東洋文庫)を読みました。

   * [デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行] アルセーニエフ 長谷川四郎訳

 先日お亡くなりになった黒澤明監督の、1975年に公開された作品『デルス・ウザーラ』の原作。監督はもちろん日本人ですが、その映画の撮影場所・資金・キャストはソ連によるものらしく、「外国映画」として上映されたようです。かの北野武監督が、黒澤作品中随一の映像美と、どこかに書いておられました。

 訳者の長谷川四郎さんは、1909年函館生まれで、1987年没。
 第二次大戦時、南満州鉄道会社調査部につとめ、アルセーニエフの著作を読み、まだ日本語訳されていなかった『デルスウ・ウザーラ』を翻訳。
 終戦後、ソ連での抑留生活を終え帰国。その体験を踏まえた小説を発表。
 「天幕生活者」を名乗った人。

 アルセーニエフは、1872年ペテルブルグ生まれ、1930年ウラジヴォストクのおいて死去。冒険家気質の人だったらしく、アジアに心ひかれ、1899年より陸軍軍人として極東に赴き、1906年から四半世紀にわたり極東ロシアを調査。動物学・植物学・地理学・地質学の知識は、並外れたもので、さらに『デルスウ・ウザーラ』で、文筆家としての名前も後世に残すことに。

 そのアルセーニエフの1906年の調査旅行途上で出会ったのが、ゴリド族の男デルスウ・ウザーラ。多くの兵士と現地の案内人を率いてウスリー地区を行く「カピタン」に心ひかれたのか、1907年の調査行に同行を約束したデルスウ・ウザーラとの短くも深い交流を描いたのが、この『デルスウ・ウザーラ』。


 黒澤さんの『デルス・ウザーラ』中で、主役のゴリド人(今はエスキモー-イヌイット方式で「ナナイ人」と呼ばれているそうです)デルスウ・ウザーラを演じていたのが、トゥバ人のマキシム・ムンズクさん。

 等々力政彦:http://tarbagan.net/ さんのCD-ROM「TUVA-トゥバ」には、等々力氏とムンズク氏のツーショット写真もあり、紀行文中で黒澤さんとムンズクさんの間でメッセンジャーボーイを務める等々力氏の話もあります。

 そんなわけで、長くその映画その本に接することを願っていた私は、たまたま、9月3日から15日までの大阪行に『デルスウ・ウザーラ』を携帯していたのでした。行き帰りとも、日本海上を航行するカーフェリーを利用したのですが、当然帰りの船では、追悼読書になりました。

 ほとんど手付かずの自然が残る、極東ロシア、シホテ・アリニ山脈の自然描写の美しさ、厳しい自然条件の中での困難な探検行、そしておよそ人種差別の精神とは無縁の「カピタン」と知恵のある現地人デルスウ・ウザーラとの交流。
 素晴しい!


 
 『デルスウ・ウザーラ 沿海州探検行』 アルセーニエフ 長谷川四郎訳 平凡社東洋文庫55 1965/11/10 ISBN4-582-80055-6 


 
付記:
 私の実家は、北海道に利尻島にあり、緯度的にはアルセーニエフの調査地とほとんど変わらない土地です。その間、直線距離にして、四五百キロ。
 また、1993年には、今世紀初頭アルセーニエフが船でその沖合いを通ったであろう、ボストーチイというナホトカにほど近い土地に、一週間ほどステイしたこともあり、そういう意味でも、『デルスウ・ウザーラ』読書は興味深いものでした。

 さて。

 黒澤さん死去の報道に接した大阪での滞在中、実家から連絡が入りました。
 昨年来体調を崩していた祖父が、再入院したということ。そして、それが最後の入院になるであろうということ。
 いつ訃報が届くとも知れぬまま、大阪での滞在を終え、北海道に帰ったのが15日。昨年まで70年(!)間、利尻島で漁師を続けてきた「デルスウ・ウザーラ」的祖父を思いながら、本の中でデルスウ・ウザーラの死を体験したのが18日。

 20日朝、生きている間に一目と思い、車を飛ばし一人利尻島に向かいました。
 前日朝までは、意識もあったということで、まだ間に合うだろうと思ったのですが・・・。
 稚内3時半発のカーフェリーに乗り、五時半入院先の病院に辿り着いたときには、すでになきがらは実家に帰っていました。
 四時過ぎ、絶命したとのこと。

 それから五日間利尻に留まり、葬儀も終え、25日夜江別市に帰ってきました。
 帰り道、一人っきりの車中で、家を離れてすぐ、久しぶりに本格的に泣きました。
 これで良かったのだろうか(何もしてあげられなかった)という思いと、これで良かったのだ(70年間自分の仕事を愛し続け、子供孫に送られ85年の生涯を終えられたのだから)という思いが、交錯しました。


 さらに付記:
 昨年9月に同報しました文章を再送させていただきます(既読の方、ごめんなさい)。
 本当に「いい仕事」したいものです。

SUB:うだ話「祖父の引退」
FROM:田原「ポルケの人」ひろあき

 皆様、いかがお過ごしでしょうか? 09月02日、江別市野幌は曇りです。

 先月21日から29日まで、実家のある利尻島に里帰りをしていました。
 ノートパソコンは持っていったのですが、近頃体調が特に悪くなった祖父母を病院に送り迎えしたり、昆布干しの手伝いをしたりで、私信メールはなんとかお返事できたものの、「ポルケ」まで手が回りませんでした。読書もしなかったなあ。

 利尻(リシリ)の語源はそもそも、アイヌの人たちの高い山を意味する「リイシリ」という言葉からとられたものだそうで、その言葉通り、周囲六十余キロの島の中央に利尻山という海抜1721メートルの美しい山がそびえています。
 深田久弥さんの『日本百名山』の最初に紹介されているのが利尻富士で、登山の好きな人はどんな山かよくご存じと思います。

 田原家の祖先は、明治三十八年、利尻島にやってきました。曾祖父初吉さんは石工家さんで、当時北海道の日本海側でおおいにふるっていた鰊漁場の石組なんかを作っていたらしいのです。
 その息子、私が直接血のつながっている祖父、は、昭和九年十一月、海難事故にあい帰らぬ人となります。来年が五十回忌です。私の父は昭和六年生まれですから、三歳になったばかり、おそらく実の父の姿はほとんど記憶に残っていないのではないでしょうか。
 私の祖母、私の直接血のつながっている祖母、は、山形県出身の人で、嫁ぎ先や結婚相手がどんな人間かも知らぬまま、利尻にやってきた人で、数年後子供を抱えたまま未亡人になってしまうわけです。

 祖母と、祖母の義理の弟である祖父、私とは直接血のつながっていない祖父、が結婚したのは昭和十二年のことでした。
 以後、祖父は、私の父に「かまどをゆずる」までは田原家の当主として暮らし、戦争中しばらく兵隊をやっていた以外は、七十年近くも利尻で漁師を続けてきました。

 今月はじめ、いつものように漁に出た祖父は、心臓発作を起こし、そのまま検査のため二週間近く病院に入院しました。
 私と妻と娘が利尻に着いた翌日、退院。
 医者からはきつい運動をかたく止められ、この夏でその長いキャリアに終止符を打つことになりました。漁に出ることが生きがいの祖父も、さすがに今回は観念したらしく、家に戻るやいなや、「ひろ、舟陸(おか)さ上げるの手伝ってけれや」と私に言ってきました。

 利尻あたりでは、海に出て漁をすることを「沖(おき)さ出る」、また陸に戻ることを「陸(おか)さ帰る」、というふうに言います。

 22日退院、23・24日と雨天。気が急いて、雨中の作業をしたがる祖父を家族全員で諭して止め、25日。好天、早朝から昆布漁が始まった日の昼食後、祖父とともに浜に降ります。

 祖父が、私に手伝いを頼んだのは、波打ち際に近いところに置いてあった磯舟を、陸(おか)の冬の低気圧が起こす大波にも流されない場所まで、引っ張り上げることでした。磯舟は、その言葉通りごくごく近くの浜での漁に使われる舟で、小さなものですから、その下にころさえ敷いておけば数人の大人である程度移動可能なのです。
 磯舟から綱を張り、軽トラ4駆の後ろに結びつけ、私の運転祖父がへさきを操作し、陸(おか)深くまで引っ張りました。すでに廃舟にされた二隻の舟に並ぶように配置します。
 巻き上げに使う鉄製にウィンチを、これが結構重く「じいちゃん、大丈夫なのかな」と心配しました、二人で昆布干し場の脇に移動しました。おそらく二度ど使われることはないでしょう。

 七十余年に及ぶキャリアが、ほんの数十分の「儀式」で、幕を閉じました。幕引きを手伝ったのが、家業を継ぐこともなく、年に十日も里帰りすればいい方という不肖の長男だったというのも、不思議な因縁です。
 近年は、耳が遠くなったせいもあり、父親とうまく意思疎通ができなくなり、近親で長く一緒に暮らすとどうしても感情的に敏感になるようで、「大役」が私のところに回ってきたのでした。

  祖父のリタイアに関して、私の父親が言った言葉が印象的でした。
 それは、「俺は、陸(おか)に上がる瞬間を、二代にわたって見た」というものでした。
 初吉さんと祖父。
 父によれば、初吉さんは所詮石工あがりで漁師としては二流だったそうです。それに対して、祖父は腕の良い漁師であり、手先も器用で大工仕事をよくこなし、山に生える笹を使っての竹細工の名手でもありました。これは父も認めるところです。
 父の頭の中には、自分の海を離れる日、それは田原家が海を離れる日でもあるのですが、のとこがちらりとよぎったのではないでしょうか。

 祖父は、ほとんど自分を語るということのない人です。
 私には、結局どんな人だったのか、わからずじまいかもしれません。
 それにしても、職業選択の自由も恋愛の自由もあってないような一生で、それでも不平もいわず、与えられた自分の仕事を半世紀以上続け、しかもそれを深く愛しているなんて!
 私のように「我」が強いばかりの似非近代人には、真似のできないところです。

 仕事をするって、どういうことなのでしょうか?

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