« 19981019 転居先の電話番号で遊んで | トップページ | 19981021 三十代、最後の一日 »

19981020 アレックス・ヘイリー 『プレイボーイ・インタビューズ』

アレックス・ヘイリー 『プレイボーイ・インタビューズ』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

 10月15日、『プレイボーイ・インタビューズ』(アレックス・ヘイリー マレー・フィッシャー編 住友進訳 中央アート社)を読みました。

 生き生きとした言葉に満ち、人間とは何かを考えさせられ、かつ歴史的価値もある、素晴しい本でした。

  帯には:
 「『ルーツ』の作者であり『マルコムX自伝』の共著者であるアレックス・ヘイリーが、アメリカ『プレイボーイ』でインタビュアーを務めた、歴史的インタビューの数々。60年代を中心に90年代に至るまで、黒人問題を焦点に絞りつつ多彩なゲストに鋭くアプローチする。」
 「『ルーツ』出版以前の1960年代、アレックス・ヘイリーは「プレイボーイ・インタビュー」のインタビュアーとして様々な分野の人たちと会話した。黒人差別に対してストレートに怒りをぶつける「プレイボーイ・インタビュー」初のゲスト、マイルス・デイヴィス(1962)に始まり、マルコムX(1963)、世界チャンピオンとなり "モハメド・アリ" 改名を宣言した当時の若きカシアス・クレイ(1964)、ノーベル平和賞受賞後のマーチン・ルーサー・キング(1965)、当時のアメリカ・ネオ・ナチの党首ジョージ・リンカーン・ロックウェル(1966)etc.・・・がそれぞれの立場からレイシズムに対する視点を明かにしていく。他に『ルーツ』出版以前に『プレイボーイ』に掲載されたその抜粋「血の交わり」(1976)、『ルーツ』出版後のヘイリー自身へのインタビュー(1977)、クインシー・ジョーンズへのインタビュー(1990)、そして生前最後のエッセイ「回想のマルコムX」(1992)etc.・・・を収録。」

 カバーには。
 「アレックス・ヘイリー
 1921年ニューヨーク州イサカ生まれ。テネシー州ヘニングで育つ。20年間の沿岸警備隊勤務の後、フリージャーナリストとして本書に収められている「プレイボーイ・インタビュー」等、数々の仕事を手がける。1963年のマルコムXへの自伝の共著者となる。1976年、自らの一家の歴史をアフリカまで遡り、現代に至るまでを描いた『ルーツ』でピュリッツアー賞を受賞。この作品はテレビ映画化され大反響を巻き起こした。1992年に他界。」


 アレックス・ヘイリーを抜擢し、信頼し、サポートすることで、アレックス・ヘイリーの優れた作品を世に出していく共同作業者となった、編者マレー・フィッシャーの「イントロダクション」から。
 「それは彼のインタビューのやり方や人柄によるところが大きかった。スターがジャーナリストに警戒心を抱くのも無理のないことだ。しかし、アレックスの相手をした人物は例外なく今までで(もっとも完璧で、公平で、意義のある)最高のインタビューを受けたと話し、多くがアレックスと終生の友となった。メルヴィン・ベリー(一九六五年六月インタビュー)は、「とても優れた人物だ。これまで出会った人物の中でも指折りの物腰が柔らかく、親切で、まっとうな人物だった」と今でも評している。アレックスはサミー・デイヴィス・ジュニア(一九六六年一二月インタビュー)ともとても親しかった。一九九〇年サミーが亡くなって、つらい数カ月を過ごしていた未亡人のアルトヴァイズと息子マニーは、アレックスに一緒にいて、慰めてほしいと頼んできた。マスコミ嫌いのジョニー・カーソンでさえ、アレックスの飾り気のない暖かな人柄に心を開いた。インタビューを受けてかなりの歳月が経った時、ジョニーが司会をしていた『トゥナイト・ショー』に、『ルーツ』を出版したアレックスがゲスト出演することになった。その夜、アレックスは何も知らせず、一七七〇年代まで遡るカーソン家の家系図をプレゼントすると、あのクールな司会者は感動し、涙を零した。去年の秋、カーソンは私にこう打ち明けてくれた。「決して忘れはしないよ。書斎で座っている時、ちょうど私の背中のところに、今もあの家系図を置いてあるんだ」」

 「家族の記憶の中に残る "最も古い祖先" であるアフリカンは、太鼓の材料となる木を切りに、村からさほど離れていない森に出かけた時、四人の男に襲われ、殴られ、鎖に縛られ、誘拐されて奴隷になったのだ、と娘キッジーに話したことがあった。彼は大西洋を横断し、 "ナプリス" という土地に連れてこられた。最初の主人から、四度逃げ出そうとしたが失敗し、結局、罰として足を切り取られてしまった。主人にはトビーという名で呼ばれていたが、アフリカンは奴隷としてつけられたこの名前を拒み、本当の名前で呼ぶよう皆に訴えていた。「キンテイ」がその名だった。キッジーが成長していく時、彼はアフリカで喋っていた母国語をいくつか教えていった。その言葉はキッジーからジョージ、ジョージからトム、トムからシンシア、そしてシンシアからアレックスへと伝えられた。
 アレックスは、この途切れることのない記憶の鎖が、自分たちの過去を教えてくれる大変大事な歴史の保管庫であり、この宝を所有している黒人の数はそれほどいないだろう、と私に話してくれたことがあった。彼の知る限り、一族の過去をこれほど古い時代まで遡ることができる黒人家族はアメリカにはいないということだった。祖先から伝えられてきた言葉のいみを解読する手がかりを見つけ出せたなら、 "キン・テイ" の足跡をアフリカ時代の生活にまで遡り、閉ざされていた過去の扉を開くことができるかもしれない。そして、この課題を見事成し遂げることに成功したなら、二千五百万のアメリカ黒人たちは自分たちの過去と再び巡り会うことができるだろう。自分たちの本当の名前や素姓だけでなく、奴隷制度のため奪われてしまった豊かな文化的遺産も取り戻すことができるかもしれないのだ。」

 「アレックスが残した作品はさほど多くはない。二冊の本と一連の雑誌記事だけだ。しかし、その作品は人類にとってなんと素晴しい遺産なのだろう。三十年前に特集記事として始まった「プレイボーイ・インタビュー」は、今までアメリカで出版されてきた書物の中でも指折りの最高傑作であり、歴史的にも価値ある内容が含まれている。アレックスの本はアメリカの出版物の中で、最も重要な作品として今後も読み継がれていくことだろう。
 作品はもちろん、アレックスに対する私の友情も永久に変わることはない。今、彼と一緒に仕事に携わってきた「プレイボーイ・インタビュー」のイントロダクションを書きながら、この思いを新たにしているところだ。「次のような個人的見解を述べれば、私はジャーナリストとしての信頼を損なってしまうかもしれない。しかし、本心を言わせてもらえば、私が何らかの価値のある人間だとするなら、それはジャーナリストとしてではなく、アレックス・ヘイリーと友人になれたおかげだ。彼は今まで出会ってきた人物の中で最も優秀で、しかも慎しみ深い人間だった」」


 アレックス・ヘイリーの遺稿となった「回想のマルコムX」から。
 「これはまさに神の摂理というべきだろうが、マルコムは異なる人種間の平和的共存というヴィジョンを抱いて、メッカから戻ってくるまで、命を落とさずにいられた。このヴィジョンは、結局のところ、非暴力主義を唱えるマーチン・ルーサー・キング牧師と同じものとなった。この理想は実現されることなく終わったが、マルコムXとキング牧師が示してくれた強いプライド、何者にもひるまない勇気、不正から自由を勝ち取ろうとする決意は、ふたりが生きていた時と同じように、人々に影響を与えている。
 そして今、かつてジョン・F・ケネディが大統領就任演説で言ったように、松明の光は新しい世代へと引き継がれている。マルコムの娘アッタラは、キング牧師の娘ヨランダと協力して、「ニュークレアス」という組織を作り、アメリカ全土を回り黒人社会内を統一するための様々なプログラムを紹介している。このふたりの協力関係はまさに象徴的なものであり、共生とは何かを示してくれるものだ。マルコムは反体制の最大の闘士であり、キング牧師は平和の使徒だった。どちらの生涯も、突然襲ってきた悲劇で幕を閉じてしまったが、現在、黒人たちの胸の中に、このふたりは分かちがたく結びつき、永遠に生き続けているのである。」


 人間=言葉、ですね。

 アフリカの無文字社会の「語り部」たちの言葉、差別を生む言葉とその言葉に対抗する言葉、かつて生きていたその人を目前に蘇らせる言葉、生きているもの同士が共生していくための言葉。


 再び、マレー・フィッシャーの「イントロダクション」から。
 「白人」マレー・フィッシャーが、アレックス・ヘイリーとマルコムXの共同作業である「マルコムX自伝」に協力することになった時期前後のエピソード。
 「私は喜んでアレックスの本の編集に協力することにした。しかし、マルコムは原稿の余白に私の手書きの文字があるのを見て、こいつはどんな人物で、何を報酬として望んでいるのか、アレックスに問い質してきた。「こいつにいくら払ってるんだ?」「なにも。友人として協力してもらってるのさ」「それじゃ、こいつは検閲官っていうことか?」「読んでごらんよ」マルコムは私の編集した原稿を数ページ読んでから、「こいつは文章を当たり障りのない亡いように訂正しようとせず、俺の言いたいことをもっとはっきりした表現に変えてくれている」と口にした。アレックスは「その通りさ」と答えた。マルコムは、一瞬、頭の中にあらゆる疑惑を思い浮かべてから、最後に「こいつの名前をどこに載せるんだい、表紙に印刷されるお前の名前の上か、それとも俺の名前の上か」と尋ねてきた。アレックスは「そんなこと望んじゃいないよ」と答えた。ふたりが私のことでもめたのはこれが最後だった。この出来事があってから一年ほど経った時のことだ。今までとは違う新しい自分を見つけ出そうと、中近東を旅していたマルコムは、メッカから私宛に絵ハガキを送ってきてくれたのだ。そこには「あなたのような人物から友情を示してもらったおかげで、黒人と白人が平和に暮らせる日がやがてくるだろうという、希望が湧いてきました」と記されていた。彼が凶弾に倒れるのは、それから十カ月後のことだった。」

 『プレイボーイ・インタビューズ』 アレックス・ヘイリー マレー・フィッシャー編 住友進訳 中央アート出版社 1998/07/31 ISBN4-88639-861-8




 午後、大麻のジム。

 夜、千歳市の文化センターで、Hard to Findのライブ。プラネタリウムの中で、星空の模様を見ながらという演奏会。嵯峨治彦さんが、ナモーンサルヒとして、ゲスト出演。
 二日前、J寺にも来てくれた女性に出会う。うれしい。由仁町のMさん。

|

« 19981019 転居先の電話番号で遊んで | トップページ | 19981021 三十代、最後の一日 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 19981020 アレックス・ヘイリー 『プレイボーイ・インタビューズ』:

« 19981019 転居先の電話番号で遊んで | トップページ | 19981021 三十代、最後の一日 »