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19981027 伊東信宏 『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』

伊東信宏 『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』
 「ポルケ・ブック・レビュー www.booxbox.com/porque/」より

 10月16日、『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』(伊東信宏 中公新書1370)を読みました。

   * [バルトーク―民謡を「発見」した辺境の作曲家] 伊東信宏

 カバーには:
「二十世紀最大の作曲家の一人、バルトーク・ベーラ(一八八一-一九四五)は、ハンガリーをはじめとする各地の民俗音楽の収集でも名高い。しかし、その活動は、ともすれば作曲の余技や下準備のように思われてきた。本書は、ハンガリーが戦後の政治的混乱を脱して、ようやく明かになり始めたバルトークの思索と行動を辿りながら、ヨーロッパの周縁文化の中で、彼がもうひとつのライフワークとして心血を注いだ民俗音楽研究を再評価する。」


 バルトークという「クラシック音楽」作曲家の名前をはっきりと意識するようになったのは、長田弘さんの『私の二十世紀書店』(中公新書646 1982)を読んでからでした。
 アガサ・ファセット『バルトーク晩年の悲劇』 (みすず書房 1973)を紹介する長田さんの一文が、たいへん印象深いものだったのです。
 「一九四五年、ニューヨークで一人の亡命ハンガリー人が死んだ。五年まえナチス・ドイツの母国への侵攻を避けて、北米に亡命した作曲家バルトークである。二十世紀でその名にあたいする数すくない天才の一人であるバルトークの死は、しかし、どんな栄光にもかざられなかった。バルトークは亡命した芸術家であることのくるしみの傷口のうえに、一人うつぶすようにして死んでいった。
 バルトークの場合、亡命は、ユダヤ人でなかったから、強制されたものではなかった。バルトークの亡命は、おそらく芸術家の倫理とはおのれの苦痛を活用することだとする、きびしい自律にしたがったものだったろう。亡命とは「渾身の力をこめてそこにいた土地から、測りもしれぬ絶望的に遠いところにはこばれ、しかもその道すがらふたたびは故郷にかえれぬと知っている」苦痛に、身をさらすことである。
 バルトークはこの苦痛をみずから択ぶことによって、そこにじぶんの「事実上の力の源泉」をみいだそうとした。それは、母国への愛の代償としての受苦にほかならないとかんがえられたからだ。けれども、「音楽もまた生まれ故郷を脱けでるときは、その国本来の香が失せてしまう」と知りつつなお、亡命者であることを自己の内部で和解させようとする狷介なこころみは、ついに不可能なこころみに終わる。
 北米でバルトークは、バルトーク・ベラ(ハンガリー名)としてではなく、ベラ・バルトークとして生きることをまず果たさねばならなかったのだ。『コシュート交響曲』でハンガリー人であることを宣明し、さらに東欧民謡の底にひそむ「飾り気のない、抑圧された裸の人生」に音楽の源泉をもとめつづけたバルトークにとって、バルトーク・ベラでなく、バラ・バルトークであることはこころにつらいことだったにちがいない。
 亡命者の孤独をなぐさめたのは、わずかに「トランシツヴァニアの森の匂い」をもつヴァーモントの森だ。森の奥を歩く、かがみこんで、足下につもったマツの葉を掘る。「膝ぐらいまでつもっている。何百年もかかって堆積されたんだ。太陽、雨、霜、雪、風がわたしたちの頭上にあるこの木々にふりそそぎ、季節がめまぐるしく変わるごとに葉や針葉は落ちて死に、それにかわって生まれるべき無数の新しいもの、こうした生命のために場をととのえる。それに昆虫や鳥、毛虫なんかもわすれられないよ。それぞれのやりかたでこの過程をたすけているのだから。それらがみな、生と死のあいなかばしてできているこの匂いをもった絨毯の生成にかかわっているんだ」。あらゆるものの表層の下に匿された音と動きを聴くことができなければならない、とバルトークはいった。
 「わたしはこころのなかにさまざまな風景をえがくのが好きだ。歌が生きつづけている土地の風景の色彩を、私の音楽に着せようといつも努めてきた。地図上で後退したり前進したりして変わる国境線が新しいものだろうと古いものだろうと、夏には緑に、冬には白いひろい土地に花粉や種子をらくらくとはこびつづけ、何世紀にもわたって歌をおくりつづけている風にたいする防御柵をうちたてることは、誰にもできないのだ。」
 わたしたちが国境のさだめる内がわに住みつく以前からはじまっていた人間の風景の生きかたを、音楽にはげしくたずねつづけた作曲家は呟く。わたしがこの北米で音楽家として生きられるようになるまでには「何十代もあとまで」かかるだろう。
 亡命に芸術家として生きるのこされた唯一の道をみつけたと信じたそのとき、亡命こそが、芸術家として生きる唯一の道をバルトークに断った。亡命とは、おそらく、革命とおなじように十九世紀から二十世紀へ手わたされてきたおおいなる夢の一つである。十九世紀の夢の終わりの時代に生き、亡命を信じたバルトークの死が、亡命が亡命の不可能性をしか意味しない時代のはじまりを意味しているのは、歴史の逆説だろう。
 バルトークの死は、象徴的にいえば、十九世紀の夢が次々に消えてしまった二十世紀後半のわたしたちの時代への一つの入口だった。そのような感想をしいるアガサ・ファセットの『バルトーク晩年の悲劇』は、おのれの敗北から一歩も退くまいとした、一人の誠実な芸術家の自己破砕へのくるしい歩みを、身ぢかにいたものの曇りない目でとらえて、つらい感銘を読むものにのこす。」
(『私の二十世紀書店』「18 バルトーク」)。


 私は、バルトークのCDを二枚持っています。

 「ピアノ協奏曲」第1番と第2番(マウリツィオ・ポリーニのピアノ、クラウディオ・アバド指揮のシカゴ交響楽団)F35G 20037と、「管弦楽のための協奏曲」(ピエール・ブーレーズ指揮のシカゴ交響楽団)POCG-1720。
 私は凡人なので、その作品が「二十世紀でその名にあたいする数すくない天才の」手になるもの、と確心することもないまま、年に何回か聴いてみるという状況ですが。

 そんな私ですから、今回の読書で、一層、民俗音楽研究家としてのバルトークに興味を抱きました。
 『バルトーク』著者の伊東信宏さんは、「音楽学」を専攻する学者さん。読後に受けるバルトークその人の印象は、長田さんの描く「苦悩の芸術家」よりか、「マニアックな研究者」なのです。

 インテリでスタイリッシュ(民謡収集旅行時のバルトークはおそろしくお洒落です)な学者さんが、来る日も来る日も、より古いより土着の民謡をもとめて、辺境ハンガリー帝国のさらなる辺境を行きます。(かつてのハンガリーの領土は、現ルーマニア、クロアチア、スロバキアにまたがるものでした)。

 その収集ぶり以上に、データの分析・分類の仕事は、パラノイアぎみといっていい情熱と厳格さをもってします。
 データ分類当時の女性助手の証言には笑いました。ほとんど「作曲する時計」状態。仕事を開始する時間から休憩時間、はてはその間何を口にするかまで厳格に定まり、仕事中は私語を慎むこと・・・。

 長田さんの文章では、バルトークの「芸術家の倫理」が強調されていますが、それよりもむしろ、民俗音楽の研究が妨げられることを恐れて欧州を離れ、亡命先でもまた音楽学者として生計をたてようとしていた、「研究者の事情」がかったというのが事実のようです。

 「彼の「創作」は、彼の「研究」が辿った運命に比べれば、まだしも幸運だったといえる」(191P)と伊東さんが書いておられるように、なんと総数約二万曲(!)にのぼるバルトークの民俗音楽コレクションの研究成果は、死後五十年を経た今も、完全な形では公表されていないとか。


 長田さんの文章から推察できるように、バルトークはまた、自然愛好家でした。『バルトーク』中には、バルトークの「鉱石コレクション」と「ヴァーモント山でハンミョウを採るバルトーク(1941年のもの)」の写真が掲載されています。

  田舎の人々から、より古いより地域限定された原初的な民謡を、完全な形で収集しようというバルトークの姿は、「自然科学者」を思わせます。
 研究は、「精緻」で「厳格」なものにならざるを得なかったのでしょう。

 『バルトーク晩年の悲劇』は『バルトーク』にも引用されています。189P。
 バルトーク「自然科学者」説の裏付けになりそうな一文。

 「この書物は、厳密な意味での史料として扱えるものではないが、しかしどんな伝記よりも雄弁にバルトークという人物を語っている。著者ファセットは、自分をあまり熱心ではないピアノ教師として描いているが、しかし彼女のあまりにも克明な記憶、極めて詳細な状況把握、そして正確な表現力はほとんど謎めいてさえいる。そして民俗音楽研究に打ち込むバルトークの姿は、この書物のそこここに書き留められている。
「バルトークはこの家での仕事の時間割を速やかに定めていった。それは長い期間ほとんど変わることはなかった。彼の部屋の灯は、暁の重い灰色の靄の時まで夜をこめて輝いていた。朝食は遅くベッドの中で摂った。彼が昼食に下りてきて、私たちとともに落ちついた真昼の食事を楽しくすませるような恵まれた日は、最後の一口を終えるとすぐに起ってテーブルを離れた。それはあまりに唐突な去り方なので、ときには椅子が空になっているのを見てはじめて彼が去ったことを知るほどであった。長い午後の間を自分の部屋のドアを閉めきってこもり、もう書きものの紙片が端から端まで小山をなしている、例の収穫のテーブル [バルトークが愛用した大きな古い机にはそんな名がついていた] に向かうのである。それぞれ数行の楽譜がきちんと書かれた白いたくさんの紙片を、どこにでもひろげてはまた集めている彼の姿を、幾度見たことだろう。大きなテーブル、小さなテーブルに屈みこんで、あるいはベッドの上掛けの上で(ときには自分の華奢な膝の上にバランスよくのせて)、ところ構わずではあったが、いつも変わらぬ集中した瞳が並べた紙片の上を走り、分類するためにこちらの一枚をつまみ上げては、残りを新しい山に積み重ね、結局はまた広げるのであった。彼が倦むことを知らぬ忍耐ももって仕事するさまは、複雑な列に静謐を集中させて覆いかぶさるように見入り、カードを切ってはまた切り直して未来を測ろうとする占い師のようであった。」」
 『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』 伊東信宏 中公新書1370 1997/07/25 ISBN4-12-101370-0




 終日、家を出ず。

 ポルケ『バルトーク』。

 興に乗り、深夜までBooxBox Year Box。

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