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19981130 椎名誠 『活字博物誌』

椎名誠 『活字博物誌』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

 11月14日、『活字博物誌』(椎名誠 岩波新書)を読みました。

 カバーには:
 「陸海空の超怪物乗物、最高最強のサバイバル術、山の高さのヒミツ、生物界のトイレ事情、そして摩訶不思議なニンゲンの習性・・・。「面白本」を小脇にかかえ、日本全国津々浦々、はたまた広大無辺の宇宙的空想世界を軽妙自在に飛びまわる、体験的博物誌。読書名人シーナが感動をこめて拾う、活字の海からの贈り物。」

 著者あとがきによれば、「一応前作『活字のサーカス』(岩波新書)の続編ということになる」ということです。95年から96年にかけての雑誌『頓智』と97年から98年にかけての雑誌『図書』に連載されていたものをまとめたもの。
 たいへん読みやすい文章です。一気に読めてしまうと同時に、何かの都合で読書中断されても再開後すぐ文中に入っていける。
 たとえば私は、近所の南幌温泉で連れが上がってくるのを待つ休憩所のざぶとんの上で、この本の何分の一かを読みました。

 というわけで、椎名さんの最高傑作とはいかないでしょうが、椎名さんでなくては書けない文章群であることは確かです。
 小林よしのりさんの『戦争論』を読んだあとだったので、よいリハビリになりました(『戦争論』についてはまた後日)。


 例によって引用を。
 「しゃがんで何をする」という文章から。
 「『しぐさの日本文化』(多田道太郎、角川文庫)を読むと、近頃の日本人が日本古来からの伝統的なしぐさをどんどんしなくなっていることに気づく。
 たとえば「はにかみ」のしぐさの中に含まれる「目を伏せる」「目をそらす」などという動作にはもう何年も出会っていないような気がする。外に出ると若い娘の大口あけたガハハハ笑いは毎日のように見るけれど、「微笑」というものとの遭遇はたえて久しいような気がする。

 その本の中で、日本人の女性が電車の中で眠っているしぐさについてラフカディオ・ハーンが書いた一文が紹介されている。

 「彼女らは左の袂で顔をかくし、こくりこくりと居眠りしている、それはまるで流れのゆるい小川に咲いている蓮の花のようだ」--と。

 ごく最近日本にはじめてやってきたアメリカ人の女性ジャーナリストと話をした。彼女は女子便所に入って、日本人女性が例外なく小用をする時に小用と同時に水をながしていることについて「何故だ?」と聞いた。

 「それは小用の水をあの洗水の音でカモフラージュしているのである」と答えると、彼女はびっくりして目を丸くし、
 「何でそんなものが恥ずかしいのか?」と叫ぶようにして言った。

 なるほど小便の音など人間ならば皆同じだ。個人差として音の大小高低があるくらいで、人類みな同じ小便の音、その音の何が恥ずかしいのだ、と強い調子で言った。言われてみれば答えようがない。さらに言えば日本の公衆便所は世界でも類を見ないくらい密閉され、個人のプライバシーが守られている。そうまでしてあって何が恥ずかしいのか。

 「むしろ私には電車の中で若い娘が大口をあけて寝呆けている姿のほうがよほど恥ずかしいと思うのだが・・・」とその女性ジャーナリストはつづけて言うのだった。

 「しゃがむ」はアジア民族独特のしぐさらしい。さらにアジアの用便スタイルにはしゃがむ式のものが多い。しゃがんで排便する姿は恥ずかしいのか。

 中国との国交回復後間もない頃、中国へ行き、開放便所に入った。個室というものがなく、大便もしきりのないところで行う。

 長い旅だったので慣れなければと思い、つとめてヒトの大勢いるところでそれを行なった。はじめはすさまじい羞恥心に襲われるが、しかし人間は結局同じ姿勢をして同じことをしているのである。すぐにどうということもなくなった。

 それから数年おきに何度も中国に行き、あるとき砂漠へ行く探検隊の一員として長い旅をした。砂漠を進み、時おりオアシスにたどりつく。オアシスで宿泊し、食事をとり、翌日朝に出発する。便所に人が沢山集まっている。小さい招待所(旅館)だったので便所はひとつしかない。当然そこも開放便所で戸がない。大勢のせっぱつまった行列の前で、大便をするのである。しかも行列の先頭の人と向きあう恰好になる。

 開放便所ですることについてはもう平気になっていたが、行列の前でする、ということにはまだ慣れていなかった。

 その時気づいたのだが、しゃがんでの排泄行為のさなかはそれほどどうということはない。問題は終わって尻を紙で拭くときなのであった。これがとてつもなく恥ずかしいのである。何よりもあのしぐさが恥ずかしい。消え入りたい気分とはこのことか、と思った。

 どうしてなのだろう、ということをあとでしばらく考えた。

 推論でしかないが、ひとつの思考に行きあたった。

 それは、紙で尻を拭く、という行為は人間しかしていない、ということと何か関係がありそうだった。この地球上に生きる生物のうち人間だけが唯一子細に手や紙で尻の残存物を除かなければならないのである。他の生物、たとえば人間と近いところにいる犬や猫などと較べても、排泄の自己完結性という点で人間はいちじるしく劣っていると言わざるを得ない。

 馬や兎など走りながら糞をしてしまう。縦列隊形で馬を走らせているとき、すぐ前をいく馬が尾をあげた。ハテサテと眺めていると尻の穴が見る見る大きくなってタドンのようなまっ黒な穴になり、やがていきなりバスン! とちょっとした大砲のように糞が発射された。危ないところでよけ、直撃はくらわなかったが、その時もつくづく「見事だ!」と思った。カッコいいとも思った。

 人間が不恰好に紙で尻を拭くのとくらべたら雲泥の差である。「くやしい!」とも思った。

 人間が尻を拭くのに紙をつかうようになったのはたかだかこの一世紀ぐらいのことである。人類五百万年の歴史からいったらこの一世紀などごくごく最近のことでしかない。そしてこの百年間、人間はすなわち木を原料とする紙でせっせと尻を拭いてきたのだ。

 このことはもしかするととてつもなく地球にやさしくないことだったのかもしれない。来世紀の中ごろまでに、このままいけば地球の地下資源はついに枯渇するらしい。地球が生き永らえて、たとえば二十三世紀あたりの歴史学者が二十世紀の後半に世界中の人々が紙で尻を拭いていた、ということを知って、この時代の人々はなんという無知蒙昧なことをしていたのだ? と絶句するかもしれない。

 消えた焚火を囲むようにして我々のテントは張られている。明け方はマイナス一〇度だった。あついコーヒーをのむとすぐにモヨオしてきた。ぼくはきわめて消化器内臓の性能がいい。ロールペーパーをもって近くの雑木林の中に入っていく。思えばこのロールペーパーこそ人類五百万年文明の誤った発達のシンボルであるのかもしれないのだなあ、などと思いながら小さな滝を見おろすところでしゃがんだ。人類の基本姿勢のひとつであるこのしゃがむスタイルは精神が安定する。気持ちがひきしまり、体の内側が開放される。つかのまの黄金の時間である。ゆったりとした気持ちのもとに、人類は実際のところあと何年ぐらいこの地球上に生きるのだろうか--ということを静かに考える。」

 『活字博物誌』 椎名誠(1944- ) 岩波新書1998/10/20

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