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19990126 村上春樹 『辺境・近境』 / 朝、父親を札幌厚生病院に車で送る

村上春樹 『辺境・近境』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

   *

 昨年末、『辺境・近境』(村上春樹 新潮社)を読みました。

 いまや現代日本を代表する作家になった村上春樹さんの、1990年から1997年にかけて書かれた旅行記集(発売は1998年)。

 カバー(表)には:
 「人間はカンガルー脚だ! 考える葦もいいですが、 ここはひとつ元気に 外へ飛び出しましょう。 ノモンハンの鉄の墓場から メキシコ大紀行 香川の超ディープうどん屋まで 村上の旅は続きます」

 カバー(裏)には:
 「1. 村上春樹は瀬戸内海の無人島にたった一晩泊まっただけで、音を上げて引き揚げてきました。さて、その原因は?
 a) エルヴィスの復活 b) 人生の無常 c) 大量の虫の襲撃
  2. モンゴル人チョグマントラは荒野をドライブしている途中で、突然自動小銃に実弾をセットしました。
 さて、彼は何を(誰を)撃ったのでしょう?
 a) ステッペンウルフ b) 兼好法師 c) 荒野の狼
  3. 村上春樹がメキシコの長いバス旅行でいちばんめげたのは、いったい何だったのでしょうか?
 a) 山賊の襲撃 b) メキシコ歌謡曲 c) 射殺死体
  4. アメリカのミネソタ州に「ウェルカム」という町があります。
 さて、ここの町の住民はみんな親切で愛想がいいでしょうか?
 a) イエス b) ノー c) どちらとも言えない」


 若作りな村上春樹さんも今年で50歳。
 「猿岩石」「ドロンズ」「パンヤオ」系の旅はもう望むべくもない。
 ヨーロッパ滞在経験をもとに書かれた『遠い太鼓』やアメリカ滞在経験をもとに書かれた『やがて哀しき外国語』に比較すると、いささかパワーダウンの感はいなめません。

 自身の旅行の変質について語る、ホロ苦い文章を引用しますと。

 「学生時代はいつもこういう旅行をしていた。結婚してからも、女房と二人でよくリュックをかついで旅行した。でもある日、女房は僕に宣言した。もう私もトシだし、もうこれ以上こういう旅行はできないし、したくない。私はこれからはきちんとしたホテル(シャワーのお湯が出て、ちゃんとトイレの水が流れて、ノミやシラミのいないまともな毛布が敷いてあるホテルのこと)に泊まりたいし、十キロのリュックを背負ってバスの停留所から鉄道駅まで歩くのは嫌だ、なにしろ私の体重は四十二キロしかないのだから、と。まあたしかに彼女の言うことはもっともである。僕らはそういう旅行をするにはいささか年をとりすぎた。そして貧乏旅行をする意味もなくなってしまった。昔と違って、何も金がないわけではないのだから。
 それ以来、我々はリュックではなくサムソナイトのスーツケースを持ち、ミッドサイズのレンタカーを借り、悪くないホテルに泊まって、悪くないレストランで食事をして、ポーターやウェイトレスには多めのチップを払う、という世間一般の旅行をするようになった。トラヴェル・ガイドもスパルタンな学生向きの『レッツゴー』シリーズをお払い箱にして、たとえばミシュランのようなもう少し一般的な本を手にするようになった。こういうのは人生の大転換と言えなくもない。堕落、とあなたは言うかもしれない。でもいずれにせよ四十歳を越えて、少なくとも旅行をする様式に関していえば、我々はいちおう成熟した大人になったのだ。

 しかし今回、僕は初めの十日間だけはリュックをかついだ昔ながらの貧乏旅行をすることになった。プエルト・バルタヤの空港に下りたって、リュックを肩にかけたときには、正直に言って「うん、これだよ、この感じなんだ」と思った。そこにはたしかに自由の感覚があった。それは自分というひとつの立場からの自由であり、ひとつの役割からの自由であり、クロノロジカルに成立している僕自身からの自由である。そういった自由の感覚が、肩にかついだリュックの重みの中にこめられている。見渡すかぎり、ここには僕を知っている人は誰もいない。僕が知っている人もいない。僕の持っているものはみんなリュックの中に収まっているし、僕が自分の所有物と呼べるのは、ただそれだけだ。」
(44-46P)


 「讃岐・超ディープうどん紀行」は笑いました。

 私の妻は、生後まもなく香川県に越して、高校卒業までそこに住んでいました。
 私は、妻との結婚が決まるまで四国を訪れたことがなかったのですが、初めて高松を訪れて思ったことは、やはり、「うどん屋ばっかり!」ということでした。
 うどん屋さんを全部ラーメン屋に入れ替えた感じが札幌、喫茶店に入れ替えた(そのうちの二割五分の店はタコ焼きのテイクアウトをやっている)大阪、というところでしょうか。

 なにせ、タウンマガジン編集者が究極のうどんを求め、麺通団なる集団を作り、県内のうどん屋を食べ歩きしまくるという土地です。
 それをまた『恐るべきさぬきうどん』という本(一冊ではおさまらず、続刊・続々刊が発売されている・・・)にしてしまうという土地です。
 しかもその本が、地元のどの書店にも置かれてあるという・・・。

 讃岐人のうどん好きは香川県専用の小麦をブレンド・精麦させるところまで行っているのです。麺そのものからして他県とは違うわけです。
 「うどんファシズム県」とでも申しましょうか。

 以上、文責は田原にあります。
 村上春樹さんの文章を引用しますと。

 「しかしそれはそれとして、香川県のうどんはあらゆる疑いや留保を超越して美味しかったし、この旅行を終えたあとでは、うどんというものに対する僕の考え方もがらっと変わってしまったような気がする。僕のうどん観にとっての「革命的転換があった」と言っても過言ではない。僕は以前イタリアに住んでいたころ、トスカナのキャンティ地方を何度となく旅行し、ワイナリーを訪ねてまわって、その結果ワインというものに対する考え方ががらっと変わってしまった経験があるけれど、このうどん体験はそれに匹敵するものであったと思う。
 香川県のディープサイドで食べたうどんはしっかりと腰の座った生活の匂いがした。ああ、ここの人たちはこういうものをこういう風に食べて暮らしているんだなあというしみじみとした実感があった。香川県の人々がうどんについて話をすることには、まるで家族の一員について話しているときのような温もりがあった。誰もがうどんについての思い出を持っていて、それを懐かしそうに話してくれた。そういうのってなかなかいいものだし、またそういう温もりが美味みを生むのだと僕は思う。」
(132-133P)


 「ノモンハンの鉄の墓場」。
 『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハンと満州のことを書いた村上さんが、実際にノモンハンに行ってみたときの文章。
 私は、モンゴル好きの人々が集まる「SHAGAA」のメーリングリストに参加しているのですが(http://www.NetLaputa.ne.jp/~SHAGAA)、この「ノモンハンの鉄の墓場」に対する批判の文章がけっこう載っていました。

 その「SHAGAA」の主宰者西村幹也さん(ニックネーム「ゴビ熊」。フィールドワークを得意とする学者さんです)に、「この「こてこて」の農耕民族と、あの遊牧の民族が、人種的(生物学上)にはたいへん近いというのは、本当に面白いですね。」とメールしたところ、「まったくもってそう思います。」とお返事いただきました。

 建築物・交通網はもちろん農耕地も、固定されるインフラを作ってはいけない、つくらないで歴史を刻んできた人々に対し、「農耕民族」村上さんの視線が多少酷薄に見える部分は確かにあります。


 それは村上さんが、生粋の都市生活者だから、と思わせるのが、「神戸まで歩く」という文章です。
 「97年5月。一人で西宮から神戸まで歩いた。とにかく一度歩いてみたかったのだ。これはその少しあとにどこに掲載するというあてもなくいわば自分のために書いた文章で、結局発表する場所も思いつかないまま、本書に収録することになった。故郷について書くのはとてもむずかしい。傷を負った故郷について書くのは、もっとむずかしい。」

 芦屋出身の村上さんが、震災の傷跡の残る西宮から神戸・三宮まで歩くというお話。「酒鬼薔薇」少年が透明な殺人者として中学生をしていたころのお話。
 誰もが「世間一般の旅行」ができるようになった世間の姿を、功なり名遂げた作家が「歩いて」描いた文章。
 「西宮から神戸までの道のりをひとりで、二日がかりで黙々と歩きながら、僕はそのような命題についてずっと考えていた。地震の影の中に歩を運びながら、「地下鉄サリン事件とはいったい何だったのだろう?」と考え続けた。あるいは地下鉄サリン事件の影を引きずりながら、「阪神大震災とはいったい何だったのだろう?」と考え続けた。それら二つの出来事は、別々のものじゃない。ひとつを解くことはおそらく、もうひとつをより明快に解くことになるはずだ。僕はそう思う。それは物理的であると同時に心的なことなのだ。というか、心的であるということはそのまま物理的なことなのだ。僕はそこに自分なりの回廊をつけなくてはならない。
 そしてさらにつけ加えるなら、「僕に今、いったい何ができるのか」という、より重大な命題がそこにはある。

 残念ながら、それらの命題についたの明確な論理的結論を、僕はまだ持ち合わせてはいない。僕は具体的にどこにもたどり着いてはいない。今の僕にできるのは、僕の思考の(あるいは視線の、あるいは両足の)たどった現実的な道のりをこのように不確かな散文として、アンチ・クライマックスな器に盛って示すことだけだ。しかしもしできることなら、理解していただきたいと思う、結局のところ僕という人間は、自分の両足を動かし、身体を動かし、そのような過程をいちいち物理的に不細工に経過することによってしか、前に進むことができないのだ。そしてそれには時間がかかる。惨めなほど時間がかかる。間に合えばいいのだけれど。」
(239-240P)


 村上さんのみならず誰しも、「自分の両足を動かし、身体を動かし、そのような過程をいちいち物理的に不細工に経過することによってしか、前に進むことができない」のではないでしょうか。
 それが端的に現われるのが、「旅の時間」というやつでしょう。

 よい旅をしたいものです。


 村上 春樹(むらかみ・はるき 1949-  ) 新潮社---1998/04/23---ISBN4-10-144121-9




 朝、父親を札幌厚生病院に車で送る。
 現地で小樽市銭函に住む弟夫妻と落ち合う。
 いったん野幌に帰り、正午家族を連れ、病院に迎えに。
 義理の妹を交え、南郷通りのサンマルクで昼食。

 午後三時帰宅。
 以降、ずっとモニターの前。

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