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19990218 ポール・ヴァレリー 『ドガに就て 造形美論』 / 「すばらしい新世界」世界

ポール・ヴァレリー 『ドガに就て 造形美論』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

  

 1999年01月27日、『ドガに就て 造形美論』、ヴァレリー・訳者吉田健一を読みました。

 1940年初版。手元にあるのは、開戦直前1941年8月発行の12版。
 私は、吹田市在住時代に、関西大学前の古本屋でこの本を買いました。現在も入手可能なのでしょうか?
 大学堂書店http://www2.big.or.jp/~izumi7/daigakudo/という古本屋さんのホームページで調べてみたなら、ありました。

 「ドガに就て
 5982 明治・大正・昭和文献・和本 大正・昭和文献 98/10/22
 ヴァレリイ ドガに就て 造形美論(初版・函)
 吉田建一 譯筑摩書房 昭15年 1冊 4800円 」
 ちなみに私が買った本は、500円。

  

 訳者吉田健一が、二十八歳のときに出版された本。
 吉田健一の父であり、やがて首相となる吉田茂が、「現実的平和主義者」として軍部の動きをこころよく思っていなかった時代。
 吉田健一は、父親が外交官だった関係で、六歳で中国、七歳でパリ、八歳でロンドンで生活。十八歳でケンブリッジ大学受験のため英国へ向かう、という人。
 イギリス・フランスの詩の多くを原語で暗唱できたそう。

  

 ということで、まずこの本は、日本語で書かれている以上、ヴァレリーの本というよりは、吉田健一の本になっています。
 踊り手としての水母(くらげ)について書かれた文章。(なんでわざわざそんなとこを引用するんだか):

「それは女ではなく、透明で然も感覚を有する無類な物質で出来た生物、刺戟に対して極度に敏感な硝子状の肉体であり、それは又水に運ばれて行く絹の円蓋、碧色の王冠、又絶えず震動する細長い帯であつて、水母は自分達の縁や皺を伸ばしたり縮めたりし、その間にも引つくり返つたり、自己の形を変じたりして、水母は彼等に鈍重な圧力を加えて居る水と同様に、自在に泳ぎ廻つて居た。そして水は彼等と一体となり、彼等をあらゆる方面から支へ、彼等の微動に応じて立退き、今まで彼等が占めて居た所を満した。即ち水母達は、彼等に少しも抵抗して居るとは思はれない充満した水の中で、運動の完全な自由を与へられ、其処で彼等の均斉の取れた煌めく肉体を拡げたり、収縮したりして居るのだつた。これ等の絶対的な踊り子達にとつては足場といふものがなく、何等の固体もなく、舞台がなく、あるのはただ、彼等をあらゆる点に於て支へ、然も彼等が進まうと欲する方向に後退する、単一の環境だけなのである。そして彼等の、伸縮自在の水晶の肉体にも固体はなく、骨もなく、関節もなく、不変の結合や、教へることの出来る体節は何一つとしてないのである。・・・」

 さすが詩人、クラゲ一匹で、引っ張る、引っ張る。

 そのヴァレリーさんについて。
 「広辞苑」によれば:

「フランスの詩人・文明批評家。マラルメに師事して象徴派の伝統をつぎ、純粋詩の理論を確立。詩「若きパルク」「海辺の墓」、評論「ヴァリエテ」、対話作品「わがファウスト」など(1871-1945)」

 12Pに、『超常現象をなぜ信じるのか』本を思い起こさせる文章。

「それで私はルアール氏の家で始めてドガに会つた。私は既に彼に対して存る概念を持つて居たのだが、それは私が見たことがある幾つかの彼の作品や、人から復聞きした彼の言葉によつて得られたものだつた。私は常に存る人間とか物とかと、それ等を見る前に私がそれ等に就て抱いて居た概念とを比較して見ることに非常な興味を感じる。そしてさういふ概念が明確なものであれば、それとその対象との比較によつて我々は何ものかを教へられる筈なのである。
 さういふ比較をすることによつて、我々は不完全にしか知られて居ない事実から我々が想像するその事実の総体といふものが、どの程度まで正確なものであるかを験して見ることが出来る。それから又斯かる比較は、所謂伝記とか、延いては一般に歴史と言はれて居る種類の著作とかが如何に空しいものであるかを我々に指示するのである。併しさういふ比較は更に重要なることを我々に教へるのであつて、それは、我々が実物に接した場合、我々の観察が概して非常に不正確であるということであり、又我々の眼がそれ自身捏造したことをしか見ようとしないといふことなのである。即ちその意味で観察するといふことは、多くの場合、単に観察の対象が我々には斯くの如く見えるだらうという期待に従つて想像することに過ぎない。その証拠に、何年か前に私の知人で相当有名な婦人がベルリンに講演に行つて、その地の多くの新聞が彼女に関する記事を掲載したのだつたが、それ等の記事には例外なく、彼女が黒い眼の持主であると書いてあつた。所が彼女の眼の色が青いことは一見して解ることなのである。そしてどうしてさういふことになつたかと言ふと、彼女はフランスの南部の生れで、記者達も皆それを知つて居た為に、その結果として彼女も南方のフランス人らしく見えたのである。」

 日本にも、優れた「文明批評家」がいたぞ、ということで、また『徒然草』を引用してしまう私。

「「山深い里には、猫またという怪物がいて、人を食い殺すそうだ」とある人が言ったところ、「山でなくとも、この都の近辺でも、猫が年齢を重ねて、猫またになって、人の命を取ることがあるということだよ」という者があったのを、何阿弥陀仏とかいう、賭け連歌をする法師で、行願寺のあたりに住んでいるものが聞いて、独りで歩く自分は気をつけなくてはならないなと思っていたおり、ある場所で夜遅くまで賭け連歌をして、たった独りで帰る道すがら、小川(こがわ)の川べりで、噂に聞いた猫またが、狙いはずさず、足もとへツイと寄ってきて、すぐ飛びつくやいなや、首のへんに噛みつこうとした。正気を失い、防ごうにも力が出ず、足腰も立たず、小川に転がり落ちて、「助けてくれー、猫また、猫まただー」と叫べば、そこらの家という家から、松明に火をつけて走り寄って様子を見にきたところ、その近辺では顔の知れたその僧である。「これは一体どうしたことだ」と、川の中から抱き起こしたところ、賭け連歌の賞品の、扇やら小箱などを懐に入れて持っていたものも、水に濡れてしまった。やっとのことで、命が助かった風にして、這うようにして家に帰っていった。
 飼っていた犬が、暗い中でも、主人と知って、飛びついていったものだったそうだ。」

 題名の「ドガ」はあの「踊り子」をよく描いた画家のドガ。
 「広辞苑」によれば:

「Edgar Degas フランス印象派の画家。好んで踊子・競馬などを描く。パステル画も多い。(1834-1917)」

 ヴァレリーが描くドガ。
 「デッサンに魅せられたドガ」という文章から引用:

「デッサンに魅せられたドガは、真実に対する烈しい懸念と、絵画に於る新しい方法や物の見方に対する、貪 な好奇心とによつて、自分の裡に統一の出来ない相剋を来した、現代芸術の悲喜劇の代表的な人物であつた。併しながら彼は同時に厳正に古典的な天才であつて、古典芸術の特質である優美さとか簡潔さとか、気品とかいふことを究めるのに、その一生を費したのである。そしてさういふドガは私には純粋な芸術家、即ち、人生に於て作品の材料になり得ず、作品の制作に直接に役立たない凡てのものに対して、驚く程無智である為に子供臭くもあり、又偶にはさういふ全くの無垢さによつて叡智の閃きを見せることもある。真の芸術家といふものの見本なのだった。--
 仕事、殊にデッサンは、彼に於ては一つの情熱、修行となり、それ以外の何物をも必要としない或る形而上学、或る倫理学の対象にまでなつて居た。それは彼の関心を独占し、彼にはそれ以外の何物も意味を持たなかつた。それは彼に種々の明確な問題を絶間なく供給して、彼は他のことに対して好奇心を起す必要を感じなかつた。彼は専門家であり、又さうあることを欲して居た。そしてそれは専門であつても、彼の専門はその究極の形に於て、或る一種の普遍性を備へて居た。
 彼は七十歳の時にエルネスト・ルアールにかう言った。
 「我々は、現在我々が遣つて居ることよりも、何時かは為し得るだろうことに就て、自信を持たなければならない。でなければ仕事なんて意味がない。」
 七十歳の時にである。--」

 さらに。
 簡単には出会えない、宝石のような文章。
 「倫理学」全文:

「精神活動のあらゆる分野に於て、真に優秀な人間とは常に何事もただでは与へられず、凡ては代償を払つて築き上げなければならぬことを、一番よく知つて居るもののことをいふのである。彼等は仕事をするのに当つて障碍のないことを恐れ、自分でそれを設けさへするのである。
 かういふ人間にあつては、形式(フォルム)とは仕事をする時の、意図せられた決意に他ならない。」

 巻末、吉田健一さんの「跋」。

「優れた文学者の作品には、必ず彼の仕事の全部を貫いて居る根柢の思想ともいふべきものが認められる。そしてそれは勿論一つの作品によつて尽さるべきものではなく、凡て本質的なことの難解さを次第に偶然の曖昧さから切離しつつ、一つの造形物として作品毎にその輪廓を明らかにして行く。これはヴァレリイの場合でも同じであつて、「テスト氏」や「ユーパリノス」や、或は四つの「ヴァリエテ」に語られて居ることは更に新しい意味付けを得て「ドガに就て」の至る所に名句を連ねて居る。併し此の作品で我々がヴァレリイを殊に親しく感じるのは、老境に入つた彼の散文の無比な冴えと相俟つて、彼が其処で一人の友達の思ひ出を語つて居るからであるやうに思はれる。ヴァレリイがドガに最初に会つた時、ドガは既に六十を越して居た。そしてその頃の記憶を辿るヴァレリイの言葉を読みながら、我々はドガという人物の強烈な性格に引附けられるのと同時に、ドガとの交渉があつてから五十年の後に、彼と略同年輩となつたヴァレリイが我々に語つて居るのだといふ事実に一層の懐しさを感じるのである。」

 19世紀中盤からの一世紀の、優れた精神の働きを、優れた書き手が書いた本を、簡単には入手できないなんて!
 ドガの絵と、ヴァレリーの原文と、吉田健一の訳文、フランス印象派の音楽をリンクさせた、電子本「ドガに就て」を作ろうと誓う田原でした。

『ドガに就て 造形美論』 ポール・ヴァレリー(Paul Valery 1871-1945) 吉田健一(1912-1977)訳---1940/10/20





 「PORQUE? Book Review」「ドガに就て」配信。

 近々立ち上げ予定の「「すばらしい新世界」世界」ホームページ(田原による仮名)ウェブマスターG-Whoさんから、池澤夏樹さんの読売新聞での連載小説に関する資料が郵送で、新ページのマニュフェストが電子メールで送られてくる。

   *

 まずは読売新聞の引用から:

 「新連載小説 すばらしい新世界 池澤夏樹さんに聞く/「環境問題」読者と共に探究 主人公夫婦は"迷える現代人"代表」
 池澤夏樹さんの連載小説「すばらしい新世界」が、今月十六日から本紙朝刊で始まる。
 一九四五年生まれの池澤さんは、八八年「スティル・ライフ」で芥川賞を受賞して文壇に登場。谷崎潤一郎賞を受賞した「マシアス・ギリの失脚」、読売文学賞を受賞した「母なる自然のおっぱい」などの作品で知られ、現代の日本文学を代表する小説家であると同時に、屈指の紀行作家でもある。
 これまで小説と紀行は別のものとして書き分けてきた池澤さんだが、「小説が現実を映す力を失ったなどと言われる今、両方の視点をフルに使って、多くの人に"大きな物語"を語りかけてみたくなった」。初めて新聞の連載小説に取り組む動機をそう語る。
 テーマは、現代人に最も重くのしかかる「環境問題」だ。
 地球の温暖化、酸性雨、オゾン層破壊、環境ホルモン・・・。地球を覆う環境問題の実情を、小説の流れの名かで提示していく。未来につながる手段があれば、それも積極的に紹介し、「二十一世紀に向けて、われわれにはどんな選択が残されているのか。読者と共に考えつつ、書き進めるつもりです。」
 昨年五月には約一か月にわたって、「現代の物質文明からはるかに遠い場所」として選んだネパール奥地への取材旅行も行われた。連載中にも日々更新される先端技術、国際情勢も即座に取り込まれる予定で、新聞はこのテーマには絶好のメディアといえるだろう。七〇年代半ばに「公害問題」の全容を描き、社会に波紋を広げた有吉佐和子作「複合汚染」も、やはり新聞連載小説だった。
 だが、四半世紀を経た今、地球環境も社会のシステムも、それを映し出す小説という器も、すっかり様変わりした。今回の連載で、登場人物は情報の受け手であるばかりでなく、パソコンを携えた発言者であり行動者。「だれもがこの世界の運命を動かせる、ささやかながら能動的な"主役"の時代」なのである。
 物語は東京に住む三十代半ばの技術系サラリーマン、天野林太郎と、その妻アユミを軸に進む。
 林太郎は原子力発電にもかかわる大企業で、風力発電機の開発に携わっているものの、社会的な意識は薄い。むしろ、環境問題に鋭敏なのはアユミの方。途上国へのボランティア活動の中枢にいる彼女は、折にふれて夫の思考に揺さぶりをかける。十歳になる息子の森介も、絶えず「どうして?」と、根源的な疑問を投げかけてくる。
 ある日、林太郎はヒマラヤの山中に旅立つ。妻からの提案がきっかけとなって、現地に新種の発電施設を設置することになったのだ。そこで彼は中世にさかのぼったような、人間の暮らし方の原型を見る。同時に日本からのODAの実態、アジアの農業が直面する困難を知る。林太郎はデジタルカメラで現地の様子を撮影して、携帯するパソコンから東京へ送信。アユミからもさまざまなニュースと意見がEメールで送られてくる。果たして遠距離でも夫婦の関係は揺らがないか。林太郎は次第に宗教的な世界へも入っていきそうな気配だ。
 「この夫婦は迷える現代人の代表として、それぞれの場所で奮闘することになるでしょう。彼らの直面する出来事は、個人的な体験を超え、われわれ人類全体にかかわる普遍的な問題だということが伝われば、うれしいですね」
 ユーモアと詩情も、作品の大切な要素。文学作品としての味わいもたっぷり含みながら、回は重ねられるはずだ。
 (後略)
     (尾崎 真理子記者 読売新聞夕刊1999年1月12日付け紙面より) 
 G-Whoさんの「檄文」:
             「すばらしい新世界」の誘惑
池澤夏樹さんの小説、エッセイの愛読者の方、あるいはまだ読んだことはないけれど興味のある方たちへの呼びかけです。
池澤さんは詩、紀行エッセイ、書評そしてもちろん小説などの創作活動を通じて多くのファンをもつ著述家です。地球の各地を旅した見聞や、世界文学から理科年表に至るまで、膨大な読書量を背景に、理科系的感性と地球上のヒトの営みへの鋭い批評をもりこんだ、平易かつ味わい深い文章を私たちに発信しつづけてくれています。
88年の芥川賞受賞作「スティルライフ」の、まるで結晶のような静謐な言語空間が放つ輝きに魅了された読者も多いことでしょう。私も、その一人です。

ここ数年の間ホームグラウンドとされてきた「週刊朝日」の連載エッセイ「むくどり通信」が、98年いっぱいで終了。93年のスタート以来、沖縄への移住にともなう基地問題への積極的な発言や、「同志」であった故・星野道夫さんの急死とそれにまつわる顛末、そしてさまざまな国々からの興味深い、また美味しい話題の数々が記憶に残ります。この6年の歳月、世界、日本、そして自分には何があっただろうか?・・・そんな感傷に浸る間もなく、池澤さんからのメッセージは、さらに日刊の全国紙への初の連載小説へと舞台を移します。

99年1月16日朝刊からはじまった「すばらしい新世界」が、それです。

世の多くの池澤夏樹作品の愛好家にとって、新聞連載小説というスタイルは馴染みがなかったり、少なからず意外だったりしたのではないでしょうか?
作品テクストの完成度への強いこだわりからか、月刊文芸誌への連載すらしない小説家・池澤夏樹がなぜ今、新聞連載なのか?

読者にとっても年々歳々さらにいや増す繁忙感が募る世紀末、新聞連載の小説を日々フォローして読みつづけるのは、いかな大好きな池澤さんの小説でもカンベンしてほしいついては単行本化の暁に買い求めてしっかり池澤ワールドに浸るとしよう・・・、そう思われる向きも多いことでしょう。
でもちょっと待ってほしいのです。

池澤夏樹と新聞連載。
この一見似つかわしくない関係に、メディア=媒体への見識を人一倍もっている池澤さんの戦略が潜んでいないわけはない・・・。
正直なところ、私も連載開始を知ったときには、何故?・・・と思いました。
あの人のことだから連載開始一回目で、すでに実は最終稿まで入稿済みなのではないかと冗談で勘ぐるほどに不可解でした。

しかし連載開始とともに疑問は氷解。
まず開始に際して掲載されたインタビュー構成の囲み記事(尾崎真理子記者による)で環境問題や国際情勢、インターネットによるコミュニケーションの変容などジャーナルな関心を、これまでになく構えのない(・・・かに見える)文体で綴るとともに、1999年の日々更新されてゆく最新の時事やデータを積極的に盛り込んで、環境問題を読者とともに(!)考えていきたいという意図が語られていたのです。

作家というシェフが薦める食べ方。
すなわち日々の朝刊を開いて揺れ動く国際情勢や、環境問題をめぐる新たな報告、資本主義のたくましさを感じさせる雑多な広告などを眺めながら、一回一回の連載を楽しむが最も美味しい味わい方・・・というわけです。
実際、掲載が始まってみて日々のコピーをスクラップしていると、週刊誌のドギツイ見出し、宗教の祭典の告知、パチモン臭い通信販売の広告などと並んでイケザワ・ワールドが細長い長方形に収まっているさまは、なかなか面白い奇観と言っていいでしょう。

そうしてよく考えてみれば、池澤夏樹さんは「ジャーナル」な関心をふんだんに持ちあわせた著述家であったことを思い出します。「スティルライフ」の株投機、「タマリンドの木」のNGO、そして沖縄移住直後に勃発した基地問題の再燃・・・。いずれも決して時事を泥縄で追いかけたのではない、「予言的」ともいえるタイミングではなかったか?・・・それはとりもなおさず「正しい情報を正しいやり方で処理する」明晰さと賢明さの証明に他なりません。その彼が、長年関心を抱きつづけてきた環境問題について、いよいよ正面切って私たちの生活レベルの話題から説き起こした小説を書きはじめたのです。

環境について、うすぼんやりとでも関心を持たない人が珍しいような世の中になってすでに久しいにも関わらず、たとえば自然保護運動の現場の方々と、文明の果実を享受する生活者との間の谷間に落ち込んでしまうことのない、説得力のある思想、コトバ、実践の試みを、私たち哀れで無知な羊たちの多くは未だ知ることができないでいます。

思想、コトバと実践の現場との間にある、気の遠くなるような距離・・・、池澤さんが大田前沖縄知事の応援演説までされたと「むくどり通信」で読んだ時、97年の初春に北海道・鹿追町へ聴きに行った、星野道夫さんについての講演会での彼の肉声を想い起しました。
御自身を「所詮は机上でものを考える人間」と、自嘲と覚悟と誇りを綯い交ぜにしたような言い方で「フィールド」の人・星野さんと引き比べた池澤さんは、星野さんが自然について、そして宇宙の中のヒトの居場所について教えてくれようとしていたことを、コトバでとことん考えている・・・、星野さんの生と死の意味も。
冷静な理知の人・池澤夏樹さんが、目の前で畏友の喪失に声を詰まらせている・・・。

「星野道夫の仕事」という、簡潔な講演の題が、その「仕事」という語感が、炎のような覚悟を伝えていました。池澤さんも若いころから悩み、考えつづけ、真摯に生を楽しみながら世界を見つめ、コトバの力をたくわえ、友人を沢山つくり、自分の居場所を築いて、そうして今にいたって社会への「反撃」に出られたのだろう、御自身の「仕事」をまた一歩進められるのだろう・・・。

「地球環境問題」という、ヒトが抱えてしまった最大の矛盾・・・。
それはもしかすると最高の賢者にも解くことのできない難問なのかもしれません。
でも世界がこんなザマに至っているのには、それなりの理由とシステムがあるはずです。
そのシステムに抗する・・・、少なくとも理解するには、慎重かつ粘り強い理性の力が必要でしょう。小さくとも自分の目の前にある「フィールド」を闘いつづけること、そしてそれが誰かと遠くで交わるなら、ヒトはまったく孤独ではない・・・、少なくとも甘えないで闘う覚悟をするフリくらいは、たとえヤセ我慢でもしたいものです、

・・・たとえば星をみるとかして、ね。(あ、盗作だ。)

ささやかな実践として「すばらしい新世界」に触発されてみよう・・・、地方紙のベタ記事の中に、近所の犬のたたずまいの中に、海外へのヴァカンスで見た朝焼けの中に、大好きな本や音楽や食べ物の中に、愛する人の視線の彼方に、ヒトが必要とする「精神の食べ物」の断片が沢山みつかるかもしれない、それが互いに触媒になって錬金術のように素敵な知恵のアラカルトに化けるかもしれない、日常生活そのものが詩と冗談と音楽の歓びに満ちたユートピアに一歩近づくかもしれない、そんな理想が少しずつ夢物語ではなくなっていくことを願いつつ・・・。

というわけでこのHPは、池澤夏樹さんの巨大メディアを舞台にした果敢な試みを「補完」しつつ時には愛をもって茶化し、茶化しつつ「補完」することを目指します。読売新聞紙や池澤夏樹さん御本人とはまったく無関係に、管理人の責任で運営されます。趣旨に賛同される方のご参加をお待ちしています。特定の思想、運動団体の宣伝や布教活動は、そのままだと歓迎されません。
読売新聞さんの販売促進活動にも与しないかわりに、好き勝手に立場を越えて楽しめる場を作りたいと思っています。そこにいつしか本当の「力」が宿ればメッケもんということで・・・。

何より類まれなる知のエンターテイナー池澤夏樹さんと、その作品につながる世界を愛する方々、そしてまだ読んだことはないけれど、「すばらしい新世界」的な「フィールド」をお持ちの方々と、二度とない1999年をライブ感覚で楽しもう、という場所です。

そこのあなた、美味しい「精神の食べ物」を持ちよってライブ・パーティーに参加しませんか?
もしかすると大世紀末のポトラッチの狂宴になるかもしれないのですぞ!
これは結構あなどれません。  
 ウェブマスターG-Whoさん「「すばらしい新世界」世界」ホームページ(田原による仮名)。
 待て、しばし!

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