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19990311 内田百閒 『東京日記 他六篇』 / ボーリンゲンのホームページ

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内田百閒 『東京日記 他六篇』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

 1999年03月09日、『東京日記 他六篇内田百閒を読みました。

 カバーの宣伝コピー:
 「日常の中に突然ひらける怪異な世界を描いて余人の追随を許さない百閒文学、後期の傑作七篇を収録。東京幻想紀行とでもいうべき「東京日記」をはじめ、「白猫」「長春香「柳検校の小閑」「青炎抄」「南山寿」「サラサーテの盤」を収録。(解説=川村二郎)」

 「東京日記」といえば荒木経惟さんにも同名の本があります。
 1981年02月16日から昭和の最後の日までのアラーキーさんの生活を克明に綴ったもので、こちらも傑作。

 ほかにも同名の本がありそうだと思って、「本をさがす」ホームページ(http://www.books.or.jp/)で検索してみたら、やっぱりありました。

 リチャード・ブローティガン福間健二訳 「東京日記」1992 思潮社。

 リチャード・ブローティガン! あの「アメリカの鱒釣り」の?
 でまたYahooで検索。
 15件ヒット。

 S木N理子さんという方の、いかにも「Asahiネット」の個人ホームページ的なページ(http://www.asahi-net.or.jp/~IF2N-SZK/rb.html)の紹介文。

「リチャード・ブローティガン。(1935-84)
 ワシントン州タコマ生まれ。50年代後半から10冊あまりの小説と数冊の詩集を出し、'84年10月に自殺。後期ビート ・ジェネレーション(latter-day Beat writers of 60's) に位置する。
 70年代後半、カウンターカルチャーの騎手?として(特に日本において)あのように有名になったことが、果たして彼には幸福だったのかどうか。敬愛する作家はヘミングウェイだった。
 写真は DELL " Trout Fishing in America" 1967」
 あの池澤夏樹さんも何冊かブローティガンの訳詩集を出しておられるようです。
 村上春樹さんの村上朝日堂のページもヒットしてしまいました。
http://opendoors.asahi-np.co.jp/span/asahido/forum/forum119.htm

 村上さんいわく:

「こんにちは。お元気ですか? 僕は学生時代リチャード・ブローティガン(とカート・ヴォネガット・ジュニア)の熱烈なファンでした。僕の初期の作品はその二人のアメリカ作家の雰囲気をいくぶん引きずっているかもしれません。彼らの素敵なところは「お文学」していないところですね。
                  村上春樹拝」

 どの「東京日記」文章家(荒木さんもあえてその中に入れてしまう)どの作品も、いっとき熱病にうかされたかのように固め読みした記憶が私にはあります。

 しかし、揃いも揃って「東京日記」とは。



 内田「東京日記」中の「サラサーテの盤」を読んで、大昔入手した「ツィゴイネルワイゼン」(鈴木清順監督)の映画パンフレットを本棚から引っ張りしました。

 その映画は「サラサーテの盤」を一応の原作としています。でき上がった作品は、また小説とは違う、優れた小宇宙を形作っていました。

 パンフレット制作年号が入っていないので、いつのものか定かではないのですが、おそらく1981年、東京は渋谷のシネマプラセットでのアンコールロードショー時に入手したもの。

 私の「日記癖」が本格的に始まったのが1981年ではなかったかと思い、本棚の古い日記で確認。
 当時の「大中赤黒日記」(渋谷スペイン坂の「大中」で買った赤と黒の装丁の安いノートに書かれている)を開いてみると・・・。

 まさしく、「大中赤黒日記」は1981年10月04日に始まっているではありませんか。
 で、さらに、それをパラ読みすると、「ツィゴイネルワイゼン」を見に行ったのは1981年10月24日。
 しかし、同行した女性の体調が悪く、途中で館を抜け出した模様。

 で、私はいつその映画を最後まで見通したのだろう?
 私の「東京近郊日記」時代は、すでに曖昧な記憶のなかにあるのだった。ってか。

 1981年10月24日の荒木さんは:

「一〇月一日~二四日 『月刊プレイボーイ』の私事でニューヨーク、レノ、メヒカリ、メキシコシティ、リオ、LAへ。<迫真(ファックシーン)のルポルノ、指想挿入の旅>世界の娼婦を挿入写。」

 昭和は遠くになりにけり? って、当時のバブルの後遺症をまだ引きずってたりするのかな。1989年01月07日の荒木さん:
 「一月七日 高梨豊よりTeLで起される、危篤だとゆー。TVをつけると七時五七分、六時三三分天皇陛下崩御のニュース。カーテンをあけて雨空を日付けを入れて写す。ゆっくりと歯をみがき髭を剃り、熱いシャワーをあびて、絹の黒いシャツを来て、一階のRestrant、LAURAEE DESBOIS、食卓を片づけるウェイトレス越しにシャッターをおす、モーツアルトレクイエム。倉敷にゆくTとマリヤが信号待ちしている。トマトジュース、フライエッグ&ベーコン、トースト、サラダ、紅茶。広島へ行くという内藤正敏を見送り、部屋にもどりTVと窓景を眺めながらベッドで喪にふし(実は三日酔い)、時たまシャッターをおす。明仁親王そく即位。新元号は、平成。へたな字。夕五時にチェックアウトし、地階の樹樹で深瀬昌久と天ぷら肴に山頭火。バーをのぞいたらママがきてたのでちょっと一杯、若き頃のママの裸体画を背景に一枚。飛行場へ、高速道路、窓をあけ、雨風の音を、聴く。喪章のスチュワデスと空洞音。モノレール、山手線、F前座席の黒人を凝写し産院へ。井ノ頭線、小田急、さしたる変りなけれど話し声いつもより小さくきこゆ。夜の路にストロボ、一一時に帰宅。チロと昭和最後の記念にヨーコに写してもらい、バルコニーに出て夜空にむけてシャッターをおす、'88・1・7日。バスタブで平成元年を迎える。」
 うーん、内田百閒さんの本の紹介だったはずが・・・(笑)。


 例によって引用を。
 「東京日記」から。
 大震災から大戦までの間の東京の風景、なのでしょうか。
 「その十七
  神田の須田町は区画整理の後、道幅が広くなりすぎて、夜遅くなど歩道を向う側へ渡ろうとすると曠夜を歩いている様な気がする。

 それだから、成る可く終電車にならぬ内に帰ろうとしたのだが、矢っ張り遅くなって、宵の口から急に冷たくなった空っ風に吹かれながら、九段方面へ行く市電の安全地帯に立って待っていたけれど、中中電車は来なかった。もう時間を過ぎているので、流しの自動車も通らず、道を歩いている人は一人もなかった。

 風が強くなって、舗道の隅隅にたまっている砂塵を吹き上げ、薄暗い町角を生き物の様に走って行った。

 その内に風の工合で、裏道の方から砂埃を持ち出して来る様で、そこいらの広っ場一面が濛濛と煙り立ち、向う側の街灯の光が赤茶けた色に変わって来た。

 寒いので身ぶるいしながら、安全地帯の上に足踏みをして、ぐるりと一廻りした時、町裏になった広瀬中佐の銅像のある辺りから、一群の狼が出て来て、向う側の歩道と車道の境目を伝いながら、静かに九段の方へ走って行った。

 狼である事は一目で解ったが、別に恐ろしい気持もしなかったので、ただ気づかれない様にと思って身動きせずに眺めていると、薄暗い町角を吹き過ぎる砂風の中から、次ぎ次ぎに後の狼が現われて来て、先頭はもう淡路町の停留場の方へ行っているらしい。

 そうして足音もなく、多少付かれた様な足取りで、とっとと全体が揺れながら、何処へ行くのであろう。私は終電車の事は忘れて、狼に気を取られながら、一心に眺めていると、辺りが明るくなって、車掌が昇降口から顔を出した。

 「乗るんじゃないんですか、お早くお早く」と云った。」


内田百閒(うちだ・ひゃけん1889-1971) 岩波文庫1992/07/16---ISBN4-00-311272-5




 午後、札幌市平岸の「北海道モンゴル親善協会」事務局長のSHさんを訪ね、リポー/嵯峨広報チラシの、会員さんへの配布をお願いする。

 その足で、旭ヶ丘「のどうたの会」事務局。
 掲示板に一心にレスをつける嵯峨治彦氏。
 札幌在住の歌い手三浦明美さん(ベラ・ヴォーチェ!)の自主制作CD「さくらそう」を借りる。

 このホームページの名前を「日記癖・全」に変更。

 ユングがボーリンゲンという土地に自らの手で建てた塔は、彼の心の変化とともに、彼の精神像の全体像を表現すべく、おそらくはユングが描く自らの精神マンダラのように、建て増しが加えられたとか。
 「人間は一生をかけてその人間になる」みたいな言葉を残しているのもそのユングさん。まあこのホームページも、そのホームページの「一生」をかけて本来あるべき姿になっていただきたいと思うわけです。(名前を変えただけなのにたいそうな・・・)
 ホームページの「本来あるべき姿」をイメージ/シュミレートするのが、ウェブマスターの仕事かもね。
 で、例によって、それは、「箱」の姿ではなく、「中身」の姿であろう、という結論に達する私。

 「ボーリンゲンの塔のなかでは、幾世紀かを同時に生きているようであった。その塔は私よりも生き延びるであろうし、位置とか様式とかでは、塔はずっと昔の過去を示している。現在を思わせるものはなにもない。もし十六世紀の人間がこの塔に入ってくるとしたら、彼にとって新しいのは石油ランプとマッチだけであろう。その他のものについては、難なくよく心得ているであろう。電灯とか電話など、死者を煩わすものはなにもない。さらに、私のなかの先祖の魂が、この家の雰囲気によって支えられたのは、私が、彼らの命が後日に託した問題に答えたからである。私は最善を尽して、率直に解答を刻んだ。それらを壁面に描きさえした。それはあたかも、幾世紀にもわたった、静かな大家族がこの家に住んでいるようである。そこで、私は第二の人格を生き、絶えず去来する人生を、あらゆる角度から眺めるのである。」(「ユング自伝 2」53ページ)
 「ユング自伝」A・ヤッフェ編 みすず書房1973/05/10 ISBN4-622-02330-X


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