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19990401 須賀敦子 『コルシア書店の仲間たち』 / 故郷忘じがたき入園式

須賀敦子 『コルシア書店の仲間たち』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

 1999年03月31日、『コルシア書店の仲間たち須賀敦子を読みました。

   *

 著者の須賀敦子さんは、1929年兵庫県生まれ。昨年の3月20日、亡くなられました。

 1950~60年代イタリアに在住し、イタリア文学研究のかたわら、日本の文学作品の翻訳を続けていた須賀さんは、1960年代、ミラノのコルシア・デイ・セルヴィ書店という本屋・出版社とその周辺の仲間たちと出会います。

 書店経営者の一人と結婚するものの、その夫は病死。
 1970年代に帰国し、翻訳家、上智大学比較文化学部教授として活躍していた須賀さんが、文章家としてデビューしたのが、1990年。

 『ミラノ 霧の風景』(白水社、講談社エッセー賞 / 女流文学賞 同時受賞)がその第一作で、「コルシア書店の仲間たち」はそれに続く作品。

 「旬」「盛り」「絶頂期」というようなものがどんなものにもあるように思います。

 須賀さんの30歳代はまさに、ヨーロッパの学生たちの政治運動の「盛り」の時期に重なります。その動きの一翼を担った場所に、はからずも立ち合い関わったこと。これは大いなる幸運であったでしょう。

 私たちの幸運は、須賀さんが70年代の日本帰国直後、彼女のミラノの生活を文章にしなかったことです。
 須賀さんの本を初めて読んだ私には想像で書くしかないのですが、彼女にはその体験が鮮烈すぎて、たやすく文章化できなかったのかもしれません。

 その「時代」「場所」は、そこに立ち合った女性が初老を迎えて初めて、私たちの前に蘇りました。一人の成熟した人間が、四半世紀前の異国での生活を、自分の言葉で綴る。
 こんな時代にこの国でどれほど多くの人々が、須賀さんのおかげで「幸福な読書」を体験したことか。

 さて。
 須賀敦子さんの文章家としての「盛り」はこの1990年代の、しかも十年間に満たないものであったことになります。
 それもあるいは「幸運」であったかもしれません。自分自身のかけがえのない経験を水増ししながら文章化する必要もなく、美しい時代・場所を美しいまま定着し得たのですから。

 近作『イタリアの詩人たち』(青土社)には、下記のような文章があるそうです。

 「おおよそ死ほど、イタリアの芸術で重要な位置を占めるテーマは他にないだろう。この土地において、死は、単なる観念的な生の終点でもなければ、やせ細った生の衰弱などではさらない。生の歓喜に満ち溢れれば溢れるほど、イタリア人は、自分たちの足につけられた重い枷---- 死 ---- を深く意識する。彼らにとって、死は生と同様に肥えた土壌であり、肉体を持った現実なのである。」

 例によって引用を。
 本当は「全文引用」したいところ。つまみ食いできない種類の文章!
 「ツィア・テレーサのことは、その年の六月に、私がいよいよローマをひきはらって、ミラノに住むようになってから、すこしずつ、ほんとうにすこしずつ、友人たちから、耳にはいってきた。
 彼女が大株主のひとりであるP家の会社は、二十世紀の初頭に、イギリスのダンロップ社から学んだゴム工業を徐々に拡張したもので、その先頭にたったのが、まず彼女のお父さん、そして兄弟たちだった。それは、イタリアでタイヤといえば、その会社を思いうかべるような大企業だったのだが、書店で彼女がまるで親類のように、テレーサおばさまなどと呼ばれていたのは、たぶん、彼女が未婚だということをことさら目立たせる「お嬢さん(シニヨリーナ)」という呼称を避けたこともあったにちがいないけれど、なによりも、その会社の名をいちいち口することのわずらわしさが理由だったのだろう。

 そうはいっても、そんな大企業の大株主である彼女が、トゥロルド神父のひきいる、カトリックとはいえ、左派のグループといわれたコルシア・デイ・セルヴィ書店のパトロンであるというのは、なにをするにも資本家の鼻息をうかがわねばならないミラノの社会では、なんともへんな具合なのだった。ほとんどくるぶしにとどくような長いすその、まるで未亡人のような黒っぽい服を着て、あまりヒールの高くない、ひもで結ぶ、かたい感じだけれど見るからに仕立てのいい靴をはいた(どこかイギリス映画の小柄で機嫌のいい老女を思わせる)彼女が、うやうやしく荷物をもつ運転手のルイジをしたがえて、活動家や学生や左派のインテリがたむろしている書店に入ってくる様子は、どうみても不釣合いだった。

 ツィア・テレーサにたいする、トゥロルド神父をはじめ、書店の仲間や友人たちの態度は、まるで中世の騎士たちが、忠節を誓った貴婦人にかしずくようなところがあった。彼女が店にはいってくると、たちまちだれかが、どこからか椅子をもってきて、入口のそばのカウンターのまえにおいた。本屋に入ってきて、すぐに椅子にすわってしまう、あるいはすわらされてしまうツィア・テレーサが、やっぱり変なお客だった。

 コルシア・デイ・セルヴィ書店は都心の目抜き通りにあるサン・カルロ教会の、いわば軒を借りたかたちだった。もともと物置だった場所を改造した狭い空間だったから、いろいろと無理があった。入口から五、六メートルほどの部分は、両側の壁がガラス張りの陳列棚になった通路で、店はそれを通って奥に行かなければならない。

 しかし、ツィア・テレーサが奥のほうまで、じぶんで本を探しに行くことはめったにない。入口の椅子にすわったままで、書名をいうか、こういう人にあげたいのだけれど、なにかいい本を見つくろってちょうだい、という。それだけで、店にいるルチアかペッピーノが、ときにはそのどちらかに命令された店員のロッコが、すっとんで店の奥にいき、まもなく、いわれたとおりの本をもって現われた。もちろん、彼女のハンドバッグから、現金は出てこない。小切手帖を、カウンターの机のすみにおいて、それにサインするだけだった(現金をもってこないお客は、むろんツィア・テレーサだけではなかったけれど、彼女にはほんとうに小切手帖が似合った)。入口の椅子にすわって、彼女は、あとから入ってくる客の通路を少々ふさぎ、少々みなの邪魔になりながら、まるでそこが彼女の居間かなんぞのように落着いて、だれかれのあいさつをにこやかに受けていた。」(11P、「入口そばの椅子」)


 「一九七〇年の秋ごろから、過激化した学生運動が泥沼にはまり、社会は不穏な状態がつづいた。そのなかでも若者たちの側に立ちつづけたコルシア・デイ・セルヴィ書店を教会当局がマークしはじめ、ある日突然、一方的な通告がとどいた。政治活動をいっさいあきらめるか、立ち退くか。どちらかを早急に選ぶように。集会に集会を重ね、はてしない議論がつづいた、仲間たちは、二十年の活動の場を去って、立退くことをえらんだ。しかし、それだけでは済まなかった。立ち退くのなら、と教会は追討ちをかけてきた。書店の名称も棄ててほしい。コルシア・デイ・セルヴィ書店は、名実ともに教会が引き継いで、つづける。人間だけが立ち退いてほしい。彼らの出方は、どう考えても横暴だったし、仲間たちにとっては、がまんのできない屈辱的な条件でもあった。こんな一方的な申し出に、どうして法的な反対ができなかったのか、私は知らない。もうそのころは、ガッティも私も、過激な書店の方向にはとてもついていけないと半分あきらめていたし、おなじ思いの友人たちは多かった。結局、書店の移転先を交渉して決めてきたのは、新参の実力者ミネッティだった。
 戦後の混乱のなかで、ダヴィデの発想で出発し、彼の仲間たちが引き継いだコルシア・デイ・セルヴィ書店は、こうして思いがけない終焉をむかえることになったのだったが、私にはこれが、ルチアだけでなく、書店の仲間みんなが、晩い青春の日に没頭した愉しい「ごっこ」の終りだったように思えてならない。タディーノ街に移転した当初は、ルチアもカミッロも、まだまだ書店を存続させる使命感に支えられていた。みんなでつくりあげた書店を、無に帰してはならないと、彼らはいっしょうけんめいだった。しかし、理論だけが先行するミネッティの生き方は、究極的には、ふたりには受け入れられない底なし沼だった。毎日の小さな身振り、小さな考えの相違が、そのことを、だんだんと明確にしていった。移転したときにスーパーマーケット系のデパートでそろえた、にわかづくりの書店の本棚は、何年経ってもよそよそしいままで、店になじむことがなかった。「文化革命」のころ、ブルジョワとは訣別するという、彼らのいさましい宣言で、いったんは締め出された愉快で鷹揚な友人たちも、社会がもういちど落着いてくると、つぎつぎと書店にもどってきた。ルチアもカミッロも、その連中と会うときには、ミネッティがいない時間をえらぶことをおぼえた。」(213P、「ふつうの重荷」)

須賀敦子(すが・あつこ1929-1998) 文藝春秋1992/04/30---ISBN4-16-313190-6




 娘緑の江別市あかしや保育園入園式。
 世間の噂に聞き、マスコミ報道を見る限りでは、いまどきの学園生活は楽じゃなさそうなので、ちょっと心配。
 言われるところの「個性豊か」は、いじめの対象になりそうな「エキセントリック」さと表裏一体であろうし。この国では、その人が凡庸であり続けていることに対して、それなりの経済的保証を与える(誰が与えているのだろう? おそれくわれわれ自身が)システムになっている、という印象を私は持つ。
 中途半端な「個性」は、世間的には、ただの「変わり者」にしかうつらない。一生、経済的に恵まれず、周囲からは白い目で見られ、という可能性がないでもない。そして悲しいかな、そんな中途半端な個性の持ち主ほど、必要以上に自意識過剰であったりする。
 とまあここまで書いて、これは自己分析ではないか、と気づく。
 そして、娘はそんな私のDNAをしっかり受け継いでいる。
 「がんばってくれ」と、祈るしかない。
 「金持ちになりたい」と切実に思う。

 司馬遼太郎 さんの 『故郷忘じがたく候』 をたまたま読んでいて、沈寿官 氏の中学校入学の思い出話叙述に出会う。

 「沈寿官氏はよほどの上戸である。が、それでも多少は酔いがまわったらしく、声が先刻にもまして陽気になった。「どうしても悲しめぬ性が如る。そいどん、悲しかこつもごわした」と、少年のころ他の日本人にいじめられた話をしてくれたが、終始笑顔を絶やさない。
 鹿児島の少年仲間には終戦まで喧嘩は公然という風があり、戦国島津家いらいの強兵策によるものらしい。中学に入ると強弱の順序がきまるまでのあいだ、あちこちで連日喧嘩沙汰があり、やがて一学期のおわりごろになると学級の強弱序列もきまり、学年全体がしずかになる。
 沈寿官氏は、苗代川小学校を出て六里むこうの鹿児島市内にある旧制二中に入学した。
 入学早々、教室にすぐ上級の者が数人入ってきて、
 「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。手をあげい」
 と、わめいた。沈少年が手をあげなかったのは、かれは自分が日本人でないなど夢にもおもったことがなかったからである。」
 続いての感動シーンは、各自お読みになっていただくということで。

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