19990415 司馬遼太郎 『故郷忘じがたく候』 / アトリエが使えない!
司馬遼太郎 『故郷忘じがたく候』
「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より
1999年04月02日、『故郷忘じがたく候』司馬遼太郎
を読みました。
カバー: 「十六世紀末、朝鮮の役で、薩摩軍に日本へ拉致された、数十人の朝鮮の民があった。以来四百年、やみがたい望郷の念を抱きながら異国薩摩の地に生き続けた、その子孫たちの痛こくの詩「故郷忘じがたく候」」
司馬遼太郎さんは1923年大阪生まれ。1996年に亡くなりました。
今世界に通用する有名・有能な日本人といえば、中田英寿
世界最高峰といわれるイタリアのプロサッカーリーグで活躍中であります。日本が世界に誇れるいまどきの「顔」。
そんな中田君も一部「日本大好き」系の人に嫌われているらしい。
その理由というのが、サッカーの国際試合でゲーム前に行われる国歌演奏の際、下を向いて歌おうという態度が見えなかったから、だとか。
おいおい、昨年、世界中の国のあらゆる場所で、この国の国歌が何度もかかる試合をすることができたのは、加茂さんの力より岡田
さんの力より、その二十歳そこそこの青年の「知性」の力ではなかったのか、と私なんかは思ってしまうのですが。彼、日本一の国歌大好き青年かもよ。
日本の隣に、人口、面積、経済力、どれをとっても日本にまさることのできない国があるのですが、ことサッカーになると、その立場が逆転してしまう。
ただ一点、日本がその韓国にまさるサッカー部門の存在が、中田英寿。
うまく国歌歌ったらワールドカップにいけるというのなら、パバロッティやドミンゴ
でも帰化させるか? いいぞ、大音響で。
サッカー選手としてワールドカップのピッチに立てるとなれば、彼らも嫌とはいわないかも。
少し前、中央アジアはトルクメニスタンの方と会う機会があって、一つ驚いたことがありました。
友人宅に食べ物を持ち寄り、小パーティーをしていたのですが、食卓のキムチを見て、トルクメニスタンの人が喜んで食べ始めたのです。
聞けば、トルクメニスタンには多数の朝鮮系の人々が住んでおり、その文化的影響で、イスラム系の人もキムチを食べているのだとか。
地図を見ていただければわかりますが、トルクメニスタンはカスピ海沿岸にある国です。朝鮮民族の故地からは相当の距離。
旧ソ連、スターリン時代の少数民族政策で、故郷から遠く離れた土地に強制移住させられたのでしょうか。
ご存じの方も多いと思いますが、北海道の北、サハリン島にも多くの朝鮮系ロシア人が存在します。第二次大戦時、「日本人」として強制移住強制労働させられ、終戦後は「おまえら日本人じゃねえ」と棄民され、そのままになってしまった人達です。
そして当然のことながら、彼等も、サハリン島でキムチを作って生き延びてきました。
中国内に住む朝鮮族、極東ロシアで安い労働力として出稼ぎを続ける「北」の人々、移住先で事業に成功し暴動の時には略奪されるまでになっ(てしまっ)た韓国系アメリカ人、秋葉原や日本橋で日本の電化製品を買うのみならず、西欧でブランド品を漁り始めた若い韓国人。金大中大統領!
小国に住む民族であるがゆえ、鋭く磨かざるを得なかった国際感覚。
残念ながら、「故郷忘じがたく候」にはキムチに関する言及はないようですが、薩摩の故国に似た土地で、彼等がそれを作らないはずがない。
なぜなら彼等にとっては、どこの国にいってもキムチを作り続けることが「国際感覚」であったから。
そして、その手の「国際感覚」に、日本代表は欠けてるんだよな、と一サッカーファンの話は落ちつくわけです。
司馬さんによる、鹿児島に住む朝鮮系日本人陶芸家の話は、圧倒的。
まず、その十四代にわたるという陶芸家一族の存在。
その歴史の中で育まれたのか、十四代沈寿官氏の人間性の豊かさ。
あらゆる差別的精神を解毒する、司馬遼太郎の「知性」。
「四十を過ぎ、わたし自身も子をもつようになって」、染みました。
INTERMISSION
■ http://smallbiz.nikkeibp.co.jp/free/rashinban/yomoyama/ [経営よもやま話]コーナー
久米信行さんの「縁尋奇妙」メールがWebで読めてしまう!
その昨年9月22日分「鹿児島雑記」中に「故郷忘じがたく候」を発見。
ずいぶん前に久米さんから転載許可いただいておりました。
ここに紹介させていただきます。
■ ■ ■ ■ 久米さんの「縁尋奇妙」メール転載 ■ ■ ■ ■
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4.沈 壽官窯
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今秋、薩摩焼発祥400周年を迎えることを、往路の機内誌で知り、ぜひともと足を運んだのが、美山の里でした。
しかしながら、指宿から車を飛ばして着いた時には、既に夕刻を回っており、目的である沈壽官窯の門は閉められておりました。
なんとも名残りおしく、裏の路地に回ると、通用口が空いておりました。
誰かいらっしゃればと思い、掃き清められた登り窯の脇を通り、庭へとおりました。
なんとも清浄な士族屋敷のたたずまい、居心地の良い中庭でした。
幸い、声がしたので、あいさつをすると、十四代目沈先生の奥様でした。
あいにく先生はご不在で、作品も展覧会に運ばれて無いとのことでしたが、親切な奥様にも見立ててもらって、いくつか日常使えるささやかなお土産を求めました。
その時、一緒に目に留まりましたのが、司馬遼太郎氏の「故郷忘じがたく候」という文庫本でありました。不勉強な私は存じ上げませんでしたが、この本こそ、400年前に朝鮮から島津家に連れてこられて以来、血脈と技とを守ってきた沈家の人々の心が書かれている本でした。帰りの飛行機の中で、この短編を一気に読んで、この旅の印象が一層深く胸に刻まれたのでした。短いお話ですが、民族や家族の血を、伝統や技を守っていくとはどういうことか、そんなことを意識せずに暮らす自分でも、考える良い機会になりました。
もし、機会があれば、あの凛とした風格を守る美山の里を訪ねてみてください。
■ ■ ■ 久米さんの「縁尋奇妙」メール転載 終わり ■ ■ ■
例によって引用を。
あえて民族色の少ない部分を。
「沈氏は十四代を継ぐべく訓練された。沈氏自身も、右のように伝統にあやうく絶えようとするものを守ったが、かといってそのような、継承と護持ということだけには充足しきれぬ心情をもつこともあった。十三代翁は昭和三十九年四月一日七十五歳で他界したが、それよりすこし前、思いを決し、この父に願い出た。
他の陶芸家のような、いま流行の展覧会作品を作りたい、ということである。ちなみに十三代翁はそのようなことはすくなくとも沈家の家風としては浮華であるとし、かれ自身もそれらを作らなかったし、息子にもそれをゆるさなかった。
--芸術家になりたいか。
すでに体が衰えている十三代翁は、小さな声で、しかし明瞭にいった。自分も若いころそのような場所で個人の名を華やかにしたいと思ったことがある。しかしながら何ほどのことがあるだろう。沈家十数代の芸風はくだらぬというなら論外である。わしからみればこの十数代は山脈(やまなみ)のようなものであり、先祖のものを伝承しているだけのようにみえてひとりひとりの遺作をみるとみな個性があり、ちょうどその一人々々は山脈を起伏させている峰々のようなものだ。山容はみな異なる。その峰の一つになろうとするだけで、非常な生涯を送れるではないか、という意味のことをいった。
が、たまたま現当主はある展覧会から出品の誘いを受けており、その誘いの魅力もあり、かれ自身、このあたらしい作品活動について野心のうずいていたときだったから、この父親の言葉が不服であった。「それではいったい」と現当主は泣くようにいった。
「自分というものは何のために生きているのでしょう」 沈氏は、いった、哀れすぎるではないか。あなたもおそらく若いころこの家とこの家芸を継がねばならぬことで悩まれたと思うが、いったい自分はなにを目標に生きてゆけばよいのか、それを聞かせてほしい、といった。現当主は少年のころ、この父親から英語も数学も教わり、さらに少年のころから作陶の技術を教わった。つねに師であった。三十を過ぎ、かれ自身も子をもつようになってからこの父親の偉さが一年ごとにすこしずつわかりはじめている。現当主は、
「教えてたもし」
と懇願した。
十三代翁は、ひとことだけ言った。このひとことに、十三代翁自身の生涯の哀歓が煮つまっていたであろう。
「息子を、ちゃわん屋にせえや」
わしの役目はそれだけしかなかったし、お前の役目もそれだけしかない、といった。」
司馬遼太郎(しば・りょうたろう1923-1996) 文春文庫1976/07/25---ISBN4-16-710521-7
タルバガン@Kitara(7月9日)とレコーディングに備えて、各所に電話。
録音場所に予定していた芸術の森アトリエはPMF(パシフィック・ミュージック・フェス)の練習場所として使用されるため7月の空きほとんどまったくなし。ショック。
レコーディングエンジニアをお願いする高橋卓二さんと連絡。善後策を協議。
Kitaraでのライブレコーディングの可能性も。
右目の周辺に腫れ物。
インフルエンザの余韻か、疲労か、ビタミン不足か。
よせばいいのに、モニターに向かう毎日。
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