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20040130 白洲正子『かくれ里』

 白洲正子『かくれ里』(講談社文芸文庫 底本は1971年新潮社刊)を読みました。

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 「世を避けて隠れ忍ぶ村里---かくれ里。吉野・葛城・伊賀・越前・滋賀・美濃などの山河風物を訪ね、美と神秘の漲溢した深い木立に分け入り、自然が語りかける言葉を聞き、日本の古い歴史、伝承、習俗を伝える。閑寂な山里、村人たちに守られ続ける美術品との邂逅。能・絵画・陶器等に造詣深い著者が名文で迫る紀行エッセイ。」(とブックカバーに書いてある)。

 文庫巻末の年譜によれば、「芸術新潮」に1969年から二年間連載された「かくれ里」という文章をまとめたのが本書らしい。著者は1970年に還暦を迎える。
 題材が題材だからと無理矢理説明づけてしまえばそれまでなんだけど、とても三十年以上も前に書かれた文章とは思えない。文中に、当時開催中の大阪万博の話や「ゲバ学生」という言葉がでてきて、そのとき初めて「ああこれは『昔』の本なんだ」と思う。
 1958年に生れた自分でも、1970年万博の年となれば、随分昔のような気がする。今これを読んでくれている人の中にも、物心ついていなかったりまだ生れていない人もいるに違いない。そういう人たちにとっては、1970年の大阪万博は、19世紀のパリ万博と、知らない・実感できないということでは大差ないだろう。
 ところが、畿内には30数年前まで、遥か昔からの(ところによっては1000年を越える)伝統を受け継ぐ土地が、見る人が見歩く人が歩けば、本にできるほど存在していたわけである。そしておそらくその多くが、文章が書かれてから30数年を経た今も、ある程度は白洲さんが見た風物を保持しているに違いない。
 ときの流れはところによってまったく違う。ものすごく当たり前のことなんだけど、どこか一ヵ所にいて、ひとつのときの流れだけしか体験できない生活を続けていると、そのことを簡単に忘れてしまう。
 そういう「物忘れ」防止するのために、旅をしたり歴史を学んだりするんだろう。そして白洲さんは、その達人だったということ。

 そして、考える。この30年。気違いじみた土地投機とその果てのバブル景気とさらにその果ての失われた10年、そして今このとき。それも確かに日本なんだけど、多くの、土地としての「かくれ里」・歴史としての「かくれ里」を内に秘めているのも日本なわけで。
 さらに言えば、その日本に住む我々の精神の中にも、「かくれ里」はひっそりと生きている。まずはそれを発見すること。その上で、決して「都市化」してしまわないこと。とても難しい。
 白洲さんの文章によく出てくる、「うぶ」「初心」「無心」「わび」「さび」というような言葉、それらはおそらく見つけ難い「かくれ里」を見つけつつ、見つかったなら「俗化」しやすいその「かくれ里」を「かくれ里」のまま生き生かすという、そんな心の働きを表したものなのではないか。
 そんな心の働きを持つ人は古びない。新しくもならない。



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