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20050901 ゴーマニズム宣言2・東大オタク学講座・村崎百郎

   * [いつまでもデブと思うなよ] 岡田斗司夫

 自分では、差別とか偏見とか思い込みとかその手の感情をあまり持ち合わせていないと思っていたんだけど、それも「思い込み」だった・・・。どうも、岡田斗司夫さんの「体型」に偏見を持っていたみたい(笑)で、こういう体型の人が書いた本は読まないでおこう、と思っていたきらいがある。同年(1958年)生まれであることを知って初めてその著作のなかの一冊(『東大オタク講座』 岡田斗司夫 講談社 19970926)を手にとり、その結果、その精神の「マッチョ体型」に恐れ入り、自分自身の精神の狭量を恥じているところ。「オタキング」が統治する王国があるなら、家来でも家臣でも下僕でもホームレスでもやります(ちょっと大袈裟か)、ははーーっ。

「つまり、「ファン」や「マニア」と「オタク」との差は、対象と自分との関係を振り返れるかどうかなんです。一方的に愛情を注いだり闇雲にデータを集めたりするだけでなく、それらが自分にとってどういうものなのかを考えて再配列しなければなりません。
 司馬遼太郎的な言葉でいえば、独自の視点、「歴史観」とでもいうようなものが必要なわけですね」
8P

 その1996年東大で行われた講義にゲストの一人として呼ばれたのが、よしりんこと小林よしのりさん。
「岡田 そうなってくると、今の従軍慰安婦の問題にしても、これを取り上げることによって、今の日本の中でくすぶっている問題を浮上させ、ガーッと表に出させるというのが目的の第一であって、その結果教科書は改定されなくてもいいなっていうのはあるんですか。
小林 あ、それは、べつに、いいんですよ。
岡田 わあー(爆笑)
小林 そんなにこだわってるわけじゃないんだけど。
岡田 おみそれしました。
小林 だって、教科書自体を読んでないもん(爆笑)。」
345P

 ここにも、精神の「マッチョ体型」、って感じ。
 頑なにあの教科書にこだわる人、頑なにあの教科書を否定することにこだわる人、精神の狭量さが共通するコインの裏表ではないのか、と思う。
 歴史教科書の記述で、そこの国の人間の歴史観が決定される、なんて人間観を持っていること自体がおかしい。そのことを、「つまり、「ファン」や「マニア」と「オタク」との差は、対象と自分との関係を振り返れるかどうかなんです。一方的に愛情を注いだり闇雲にデータを集めたりするだけでなく、それらが自分にとってどういうものなのかを考えて再配列しなければなりません。/司馬遼太郎的な言葉でいえば、独自の視点、「歴史観」とでもいうようなものが必要なわけですね」という岡田さんも、「読んでない」小林さんも、重々承知しているんだろう。
 歴史観を本当に教育なり教科書なりで固定しようとすると、こないだの中国のデモの若者みたいのが生まれてくる、のではと推測する。中国の普通のまっとうな生活者はあんなデモには参加しないだろう、とも思う。どこの国に行ったって、上のほうはどんなもんだか、と、教科書関係なしに、経験知でそれなりの生活観・歴史観を持っていくのが、普通の人間のはずだし。

 『東大オタク講座』「ゴミ漁り想像力補完計画」の村崎百郎さんの言葉がすごい。
 これこそ、生きた人間がそれぞれに持つ生きた「歴史観」の表われであって、教科書のどうこうなんてまったく関係ない。『ゴー宣』も「オタキング」も、しかり。

「村崎 いや、特にそこまでしようとは思わないな。近所にいる「ちょっといいな」と思った女の子のゴミとか、多少後つけたりして集中的に漁ったってのはあるけどね。そういう経験があるからストーキングのことなら任せてよ。俺自身がストーカーでもあるから。ただしそうやって集中的にねらうのはあっても、わざわざ「あの人物のゴミが欲しい」って出向いてまで拾いたくなるような相手ってのはいないんだよ。俺は基本的に人間が嫌いだからさ。興味ないもの。基本的には自分以外の人間って大嫌いだし、みんな死んじまえと思ってるよ。 (中略) 求めているのは個人よりも物語なんだよね。これも本で紹介した話なんだけど、以前身障者のゴミを拾ったときに、なかなかいいなと思ったんだよ。なんで身障者だと分かるのかってえと、捨ててあったノートにむちゃくちゃな字で「今日はリハビリセンターの廊下を四〇メートル歩いた」とか「四階まで階段を三往復できた」とか、そんなことばかりを書いてあったからなの。ああ、こいつは生きていたってしょうがないタイプの人間なんだなって、そう思っちゃうじゃない、俺、人でなしの鬼畜だから。けれどそのノートと一緒に『キックの鬼』の落書き帳と、あと古ぼけた原稿用紙が捨ててあったの。それを開いてみたら、両方とも全部白紙だったんだ。『キックの鬼』だぜ。二〇年以上前のアニメだよ。当時のキャラクター商品だろうけど、それがまっさらな白紙の状態で、一度も使われることがないまま日記と共に捨てられていたってのがどういうことなのかというとき、つまりこいつは二十数年間、落書き帳や原稿用紙を持っていながらも、描くべき絵の一つも、書くべき言葉の一つもなんにもなかったんだろうってことじゃない。書かれた日記からではなく、白紙の落書き帳や原稿用紙から伝わってくるんだよ、そいつの二〇年分の空白が。二十数年間、書くようなことを一つも得られなくて、それでこの先もう二〇年持っててもしょうがないだろうと思って捨てたんだろうね。実際の物語がどうだったかなんて分からないけど。白紙が空白を物語ることだってあるんだよ。俺はそう感じた。
岡田 ・・・・・・俺は・・・・・・いま、じーんとしてる。
村崎 なんの気なしに拾ってなんとなく見てればただの白紙だけどさ、そういう合わせ技で見繕うっていうか、白紙からそこまで物語を引き出すことだってできるんだよ。「逆コンセプチュアル・アート」っていうか。受け手側が対象の中からどれだけ情報を引き出せるかにかかっているわけだよ。人間はどんな物からだって学ぶことができるという一つの例だよね。俺は、学ぼうという姿勢さえあればどんな物からだって学べると思ってるよ。書いてあることだけから背後を読み取ろうと言ってるわけじゃないけどね。何事でもそうだけど、背後があると思い込めば思い込むほど、今後は逆に陰謀論者みたいになっちゃうからさ。なにかってえと背後にユダヤだの諜報機関だのの存在を妄想して陰謀を感じ取ってしまうような連中ね。それは逆に想像力の幅を狭めてしまう。見えるものだけがすべてじゃないし、その背後に物事を慮り、豊な物語を見るための想像力を養ってくれるってのもゴミの魅力なんだ。だから、ゴミ漁りってイマジネーション・ゲームなんだよね。それを今日ここに集まったみんなに言うのが俺のゴミ漁り講座「想像力補完計画」というかさ。そういう感覚を磨くことで、上っ面だけの嘘臭え奴らとはちがう「ホントの思いやり」ってもんを考えてほしいんだ。」
251-253P

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