20050927 イサム・ノグチ・庭園美術館・四国香川県牟礼町
2005/09/27 07:55 東洋町野根「ひるね郷・野根」・旧営林署の宿舎を利用した宿泊施設
2005/09/27 07:56 「ひるね郷・野根」周辺の田園風景
2005/09/27 08:15 「ひるね郷・野根」内・野根の名物皿料理の写真パネルと高群逸枝『娘巡礼記』岩波文庫
司馬遼太郎『街道をゆく 32 阿波紀行、紀ノ川流域』から:
「本堂から降りてくるとき、ふと高群逸枝(一八九四~一九六四)のことを思った。
彼女はまだ無名の娘であった大正七年(一九一八)、ひとり熊本を出て遍路をした。約半年、八十八か所の山野を歩いたのだが、その間のことを『九州日日新聞』(現・『熊本日日新聞』)に寄稿した。百五回にわたる娘巡礼記がそれである。
残念なことに、霊山寺についてはとくべつな記述がない。彼女は、九月二十八日にここにきた。そのくだりに、朝から晩まで歩き続けに続けて十八番から一番へ一瀉千里、其間に有名な焼山寺の山道も極めて無事に抜けて仕舞った。高群逸枝には、その死後、夫の橋本憲三が編んだ全集十三巻(理論社)がある。私は刊行されて早々に買って読んだが、そのなかに『娘巡礼記』は入っていなかった。
その後、堀場清子氏の努力と校訂によって『娘巡礼記』(朝日選書)が出たおかげで、読むことができる
こんど阿波に旅だつにあたって、あらためて読んでみたのは、人はなぜ遍路に出るのかということを知りたかったからである。が、結局、人の動機などそれぞれであるらしく、高群逸枝の場合もまた独自であるらしい。
そのことについて橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝』(朝日新聞社)にふれられているが、ここに再現できる能力が私にはない。ともかくも、高群逸枝は、身動きできなくなっていた恋の問題やなにやらのしがらみを、遍路することによって一切捨てたかったようである。
『娘巡礼記』のなかで、しきりに
「一切愛」
ということを彼女はいっているから、この愛ふかきひとは、自我への愛や異性の愛よりもさらに上にある愛へ自分の心を昇華させたかったのであろう。高度な精神性というほかない。
三十年ほど前、大阪のキタに行きつけの小さな酒場で、常連のQさんの姿がしばらく見えなかったので、店のあるじにきくと、
「お遍路に出やはった」
ということだったから、しばらく声も出なかったことを憶えている。
その人の場合は、母君を亡くしたことが動機だったという。
また、健康を得るためという動機もあれば、単に老後の娯楽というのもある。
平安時代における熊野は、死霊のあつまる他界だったという解釈がある。こういう宗教感覚は、極東における諸民族のはるかな古信仰から系譜をひいているものと思われるが、宮崎忍勝氏の『四国遍路』(朱鷺書房)も、その立場をとっていて、四国そのものが”他界”であるとする。遍路たちは、そこで故人の霊に出会うのだというのである。
紀元前に活躍したツングース系の遊牧民族に烏桓(うがん・烏丸)という民族がいて『後漢書』の「烏桓伝」などにその動きが書かれている。
かれらはシャーマニズムを信仰し、死ねば霊魂は”赤い山”という実在の地に帰ると信じていた。もし熊野も高野も四国も死霊の帰るところとすれば、宗教感情の上では、われわれは烏桓の末裔ではないか。
この場合の霊とは、仏教以前の感覚における霊のことである。
だから、空海の思想とは関係がない。空海は正統の仏教者だったから、死霊(ゴースト)としての霊はみとめなかったはずだからである。
ともかくも私には、遍路がわかりにくい。
このため、この旅では、札所の寺については、霊山寺だけにとどめようと思っている。」95-97P
2005/09/27 08:15 『娘巡礼記』文庫本に挟まれていた、校註者・堀場清子さんから「ひるね郷・野根」オーナーH田さんへの直筆手紙
午前九時、香川県牟礼町のイサム・ノグチ庭園美術館に向かって、高知県東洋町野根を出発。
H川さん所有の徳島県地図によれば、近道になっているらしい国道193号線を走ろうとしたのだが。
2005/09/27 10:05 これでも国道なのか193号線 狭すぎる・・・
途中から、「両道」一車線の、激しく蛇行する山道に・・・。
2005/09/27 10:35 これでも国道なのか193号線 ついには行き止まり 香川県にたどり着けない・・・
ついには、いきなり「全面通行止」の行き止まりに! 看板によれば、台風被害によって、完全に道がなくなっているというのだが・・・。もっと麓から通行止めの標識を出しておいてくれよ、という怒りに似た思いと、まるで誘いこむようにあけられたバリケードの空隙に、その先をさらに見てみたい、という天邪鬼な考えが交錯する。
一時からの予約をしている、イサム・ノグチ庭園美術館には完全に間に合わないことになった。携帯電話がつながる地帯まで下山し、走りながら美術館に電話。三時のガイダンスツアー参加に変更してもらう。
2005/09/27 14:38 結局国道55号線にもどり、11号線に入り、ついに香川県に
美術館には、三時ジャストの到着。ほっ。
「20世紀を代表する石の彫刻家イサム・ノグチは、モニュメント、庭や公園などの環境設計、家具や照明のインテリアから、舞台芸術までの幅広い活動を行った、きわめてユニークな芸術家です。1956年初めて庵治石の産地である香川県の牟礼町を訪れたノグチは、1969年からは五剣山と屋島の間にあるこの地にアトリエと住居を構え、以降20年余りの間、石の作家である和泉正敏をパートナーに制作に励みました。
イサム・ノグチ庭園美術館は、この地が未来の芸術家や研究者、そして広く芸術愛好家のためのインスピレーションの源泉になることを強く望んでいたノグチの遺志を実現したものです。150点あまりの彫刻作品はもとより、自ら選んで移築した展示蔵や住居イサム家、デザインした彫刻庭園など、全体がひとつの大きな「地球彫刻」、あるいは環境作品となっています。出来うる限り、生前の雰囲気そのままで環境そのものを公開し、併せて専門的な調査・研究のためのアーカイヴ(資料研究室)を準備しています。ジャンルを超えた宇宙的でコスモポリタンな、開かれたノグチの世界像をどうか心ゆくまで味わっていただきたいと思います。」美術館パンフレットより
イサム・ノグチ庭園美術館訪問記は、別記事で詳しく書きます。
2005/09/27 15:56 イサム・ノグチ庭園美術館は写真撮影禁止
学芸員さんのガイドツアー終了後、ここからはOKというところで一枚。受付で売っていた「カサ・ブルータス」のイサム・ノグチ特集号の中に、ヒッキー・宇多田ヒカルさんが、ちょうどこの二つの石の間に立って写っている写真を発見。
2005/09/27 16:06 「イサム家(いさむや)」を囲む石垣
2005/09/27 16:08 彫刻庭園方向を望む
車は、「白ゴリ号」 江別-小樽・新潟-東京・東京-大阪・大阪-高知・高知-香川 すでにこのツアーで1000キロは走っているか? 「白ゴリ号」を過酷に駆使しての一日だった。
香川町の妻の実家に向かう。
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