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20061220 岩内町訪問・悩みなき木田金次郎・冬眠するピカソ

 先週14日木曜日、北海道後志支庁岩内町を訪ねたときの話。

  
  20061214 14:49 / 岩内町遠景

 岩内町には、特に縁も所縁もなし。
 にもかかわらず、この雪の季節に車を走らせたのは、10日日曜日夕刻、その日開店の「ブックスボックス 香聡庵」 * で、ご来店いただいたFさんと岩内と画家・木田金次郎 * にまつわる話をしたのがきっかけ。

 Fさんのおじいさんは絵描きさんで、木田金次郎のお弟子さんだったのだという。
 子供のころから1954年の岩内大火の話を聞かされ、金次郎死去の際には祖父に命じられ香典袋を買いに行った記憶さえあるとか。

 そのFさんは、「田原書店」 * に何点か在庫していた金次郎関連の本の中から、気に入った一冊をご購入くださった。
 店主の自分は、金次郎のことを深く知るわけでもなく、それらの本を何気なく買い揃えていたわけで、Fさんとの対話から、改めて強い興味を感じた次第。

 木田金次郎といえば、有島武郎 * の小説「生れ出づる悩み」 * の登場人物のモデルとしても有名。
 田原も十代の頃、その小説を読み、その漁の描写に感嘆した覚えがある。
 実は、自分も金次郎同様、漁師の家に生まれたので、余計にその表現が身に染みたということもあったかと思う。

 幸か不幸か、こちらは、確たる才能も持たず、それゆえその後「有島さん」に出会うこともなく、止む無く家業を継がざるを得なくなるということもなく、「ぼちぼち」生きているのだけど。
 岩内訪問後、「生れ出づる悩み」を再読することにしよう。



 14日は、この時期の北海道にしては、至極落ち着いた天候だった。
 国道337号・5号・276号を経由して、江別市から岩内町に向かったが、路面には積雪もアイスバーンもなく、復路でも降雪や吹雪に遭うこともなく、快適な二百余キロのドライブ。

  
  20061214 12:23 / 国道5号線路上

 さて、岩内町は、この季節の北海道の日本海側の漁師町が大抵そうであるように、寂しげだった。曇天の昼日中の漁港には人影もなく、灰色の海から波が打ち寄せるばかりで、何が目的なのかわからないまま海鳥が空に舞っている。
 自分も、生まれ故郷の利尻島で、さんざん見てきた風景にごくごく近い。

  
  20061214 13:42 / 木田金次郎美術館 屋上の展望回廊から、岩内港・積丹半島方面を望む

 そんな気配の中、港とは目と鼻の先の公園内に、木田金次郎美術館が建っていた。

  

 1994年に開館、その設計は金次郎長男の木田尚斌(なおたけ)氏によるものだそうで、建物自体の外観もなかなかに魅力的。(オープン当時のエピソードはこちら 「ウェブマガジンカムイミンタラ」内に詳しい )

 美術館のパンフレットによれば、

北海道を代表する画家の一人。
明治26(1893)年岩内に生まれ、少年時代から絵画への情熱を育む。
有島武郎との運命的な出会いにより、その生涯を岩内で過ごし、絵筆を握ることを決心。
やがて有島が、木田青年との交流を、小説「生れ出づる悩み」として発表すると、そのモデル画家として知られるようになる。
有島の激励を受けながら、厳しい漁師生活のなかで岩内周辺の自然を描き続け、有島の没後、家業である漁業を捨て画業に専念する。
昭和29(1954)年の岩内大火(市街地の8割を焼失)により、それまでの作品焼く1500点余を焼失したが、その後精力的な創作を続け、生涯、故郷岩内を離れることなく独自の画境を切り開く。
昭和37(1962)年脳出血により逝去、享年69才。
 館内では、「私が選ぶ木田金次郎 2006-2007 秋から冬を迎える常設展」として、来館者へのその人にとっての木田金次郎の「この一点」を選んでもらうアンケートの回答集計結果に基づく展示がなされている(来年の4月1日まで)。

 生の木田金次郎の絵に接するのは、この日が初めて。
 最晩年にあたるのだろうと思うが、1960年前後に描かれた大き目の絵たちが、良かった。

 あくまでぼく自身の、主観・直観による感想だけど、独自のスタイルを獲得し、経済的にも安定し、自在に絵を描く・描ける楽しみに満ちている、老境に達して精神の自由を得たのだろうか、という印象。

  
  20061214 13:52 / 木田金次郎美術館 2Fギャラリーの展示ケース 金次郎の手になる有島武郎をモデルとした素描や、金次郎・有島のツーショット写真、金次郎所有の有島武郎全集などが並ぶ



 「しりべしミュージアムロード」、なるものがあるそうで、それに参加している「荒井記念美術館」に向かうことにする。

 その名の通り、東文堂社長であった故荒井利三氏が、岩内町に私設した美術館が、「荒井記念美術館」であるらしい。
 これも木田金次郎美術館のパンフレットによれば、「ピカソ版画267点と全国一の所蔵を誇る美術館。」とある。
 荒井さんとは何物で、またなにゆえに「ピカソ」なのか。

 そう、WEBで木田金次郎美術館とその周辺について自前調査したところ、この「岩内町のピカソ」に目が留まり、その由来を知りたくもあったのだった。しかも、冬期間(12月16日から4月15日)は、休館ときている。実は、14日という日程での岩内行は、この休館日によって決まったようなもので。

 木田金次郎美術館から車で十数分、荒井記念美術館は、岩内町の街並みと日本海、積丹半島を近く・遠くに望む高台、荒井さんの所有する「いわない高原ホテル」敷地内の一角にあった。
 受付の女の子(冬季間は純粋にホテルの従業員として勤務するのだろうか)によれば、「2号館は、暖房が壊れてまして・・・」ということらしい。まあ、1号館のピカソ * を見に来たので・・・。
 
  
  20061214 14:31 / 荒井記念美術館 「ピカソ」のある1号館窓から、「西村計雄」のある2号館の建物と 岩内町を望む

 ピカソは、やはりピカソだった。圧倒的。
 入場者は自分一人。2Fの、四方八方ピカソの、展示室にいると、なんだか息苦しささえ感じる。

 3Fには、小さな書庫と、荒井さんの本業である東文堂の出版関係の資料や絵本の展示などがある。
 ここに「荒井記念美術館」由来縁起とも呼ぶべきパネル表示があり、一つ大きな謎がとけた。

 それによれば、荒井さんも「生れ出づる悩み」の良き読者であったということだ。
 ついては、その縁地に、木田金次郎作品も収める美術館を私設したかったのだが、当地を訪れてみるとすでに現地の人々を中心とする「木田金次郎美術館」の開設準備が始まっており、「生れ出づる悩み」の地への私設美術館設立の夢はそのままに、その収蔵品をピカソの版画と、やはり地元の有名な画家・西村計雄に変更したものらしい。


 端的に言ってしまえば、有島武郎さんが、岩内の美術館環境を作り上げた功労者の一人、ということになる。

 帰りの車中では、「誰が一番悩んだか」について、考えた。
 木田金次郎と有島武郎と荒井利三とピカソ。

 ピカソは悩むことはなかった(そんな暇もなかった)だろう。
 生涯の間に、一説によれば十万点に及ぶ作品を残したというのだから。

 荒井利三さんもそんなに悩むことはなかっただろう。
 「生れ出づる悩み」の故地に、自分の名をとどめた美術館を建て、なにがしか顕彰するという目的は、どういう形であれ実現することは明らかだったのだから。

 木田金次郎さんも、実はそんなに悩んではいなかったのではないか。
 絵を描くこと、岩内がその主なテーマになること、有島さんという触媒が存在したとはいえ、そのことは木田金次郎にとっての運命・使命であったように感じられる。

 結局、四人の中で、一番悩み多き人は有島武郎さんその人だったのではないか。


 帰宅後、三十数年ぶりに、「生れ出づる悩み」を読む。

 木田金次郎さんの絵を見てきたあとだけに、その木田さんの偉さばかりが思い浮かぶ。

 師と仰いだ有島さんの言うことを疑うこともなく、素直に画業に邁進したその精神。
 あの「生れ出づる悩み」の人で終わることなく、実直に画業に邁進したその精神。
 有島さんならとうに死んでいる年齢(四十九歳)になって結婚し、子供をもうけ家庭を持ち、なお画業に邁進したその精神。大火もなんのその。

 生れ出づる悩みに、なんら解決策を見出せないで終わった人と、その人なりの作品を残すことで決着をつけてから逝った人。
 そんな印象をいだいた。


 そして、ピカソは冬眠に入った。
 春、また岩内を訪れてみたい気もする。

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