20070112 賢者の言葉・宮本常一・記念講演「民衆と文化」より

「(前略)いろいろ調べてみますと、職業集団を生む――それは実は素材にあるんだと思います。素材が石であるか、木であるか、金属であるか、これを加工する場合に必ず鉄器を使わなきゃいかぬ。それには高い技術、特に加工の道具を使用する技術を必要とする。ここに物を加工するのに専門化せられる。その職人たちは、自分のうちにおるときには百姓をしている。ということは、自分が農具の使い手であるわけです。そうしますと、人に頼まれてつくる場合にも、使い勝手のよさというのが一番大事な問題になってくる。これはごく最近でございますけれども、土佐の山の中に影浦富吉という立派な鍛冶屋がおられて、その人に鍬を打ってもらったんです。大きいのから、小さいのから、打てるだけの鍬を打ってみてくれと頼んだんですが、こっちはカネが出し切れないから、七十何挺打ってもらいました。百五十挺ぐらいは打ち分けることが出来る。それは、それを必要とする人がおるということなんです。九州へ参りますと、阿蘇のあたりから、佐賀県のあたりにかけまして、柄の短い、柄と鍬の台との角度の鋭い、腰をうんと曲げて使わなきゃならない鍬があります。あれは関東にもあります。火山灰土の中へ鍬先を深く打ち込んで、土を返していこうとすると、あれでないと駄目なんです。関西の百姓が関東へやってきました、関西の軽い鍬を使用してみたのですが、全然土の中へ鍬先が入らないんです。
そういうことが作る方の側にわかっておって、それでつくらなければ、人の欲するものは得られないということになるのです。実はそういう人間の一人一人の持っておるインフォメーションがあり、われわれがこれを見る場合にある感動を与えるのは、それが適切に具現されているからではないだろうかと思います。ひねくって作ったものではないということです。ですから、よく見ますと、日本の民具の一つの特色というのは、たけだけしさというものが無い。これはもう一つの理由があると思うんです。日本の百姓は、刃物はもともと好きではなかったのです。百姓と武士とは、はっきり分かれておったんです。豊臣秀吉の太閤検地と刀狩りによって、武士と百姓は二つに分離したんだという言い方をしていますが、それだけではありません。それ以前から武士と百姓は二つに分かれておった。分かれていなきゃ、戦国時代に武士があれほど戦争をして、食う物は誰がつくったんでしょうか。食う物が無きゃ、戦争はできはしないんです。百姓は百姓をしておった。
これはヨーロッパと大変違うところなんです。異民族同士の戦いということになりますと、皆殺しになります。日本のは全く内輪喧嘩なんです。農民は喧嘩をしている者を、はたから見ている。つまり農民の世界というのは、初めから刃物をそれほど必要としない生活をしていた。これは大いに反省すべきことではなかろうかと思うんです。
私は幕末のことを調べておりました、非常に興味を覚えたことがあります。私、山口県でございますが、長州征伐の時の話がたくさん残っているんです。幕府の兵隊が攻めて来た。そのとき、広島の奥に三次というところがありますが、あのあたりの百姓が五日ぐらい、戦争を見物に行っているんです。「百姓仕事にならんじゃないか。そういうことをしてはいかぬ」という布令が出ております。百姓の方は、戦争が始まった、見に行け、というんですね。それが多すぎて、布令を出さなきやならぬというんだから、何百という人が出かけて行って山の上で見た。淡路あたりからも、船で戦争見物に行っているんです。
恐らく戦国時代もそれと同じだったと思います。この問題は非常に大事な問題なんです。どうして大事かというと、たとえば、今度の戦争が終ってから、国内でゲリラというものが発生しましたか。日本にはゲリラというものが、ほとんど無いのです。戦国時代にもゲリラ戦は無かったんです。わずかに一つだけゲリラ戦があった。それは南朝を守った楠の残党です。後南朝というのが約七十年つづきますね。あれは立派なゲリラです。そのリーダーであった楠正成というのは、当時は悪党といわれたうちなんです。悪党というのは、肩書を持たないで武力を持っておった。民衆の味方だったんです。播磨の浄土寺に残っている古文書を見ますと、楠多聞兵衛という河内の悪党がやって来て、切取り強盗をやった、と書いてある。あそこまで行く前に、途中でそれを防ぐことも出来ただろうし、いろいろな対策がとれたに違いないのに、なぜ途中ではそれが問題にならなくて、浄土寺でそれが問題になったか。浄土寺だけじゃなくてほかの寺もねらったんでしょうけれども、同じ仲間の百姓の世界は荒さなかった。楠正成の人気の秘密は、恐らくそのあたりにあるんじゃないでしょうか。つまり、農民たちを大切にした。そうしてそれが後南朝をずっと続ける力になっている。農民はこれを助けています。これは明らかにゲリラ戦でございます。しかし、織田氏が滅びても、豊臣氏が滅びても、民衆がこれを援けたでしょうか。まして、幕末のあれだけの戦争があった後で、徳川のゲリラを皆さん方、ご存じでございますか。民衆は決して武士と一体ではなかったということでございます。
先ほどの刃物へ戻るんですが、とげとげしい感じのするものを民衆がほとんだ持たなかった。これは、一般の大衆が人を殺したり、あるいは動物を殺したり、という機会をほとんど持たなかったということにあるんじゃなかろうか。たとえば、刃物一つとってみましても、みんな手前へ引く刃物なんです。内反りになってくるんです。向うへ攻撃するものなら、外反りになるはずです。刀にしても、なぎなたにしても、全部外反りになっております。鎌にしても、鍬にしても、みんな手前に引くんです。農民の使う刃物は、ほとんど攻撃的なものではなかった。ただ、明治になって兵隊としていろいろの訓練を受けて、鉄砲を担いで人を殺すようなことをし始めると、なれないから、今度は非常に残忍なことをするということになったのではないでしょうか。(後略)」
「民藝」 第三百三十一号 (日本民藝協会、昭和五十五年七月一日発行) 10p~12p 掲載
「第三十四回日本民藝協会全国大会」(東京 昭和五十五年五月十日)における、宮本常一の記念講演「民衆と文化」の一部を引用
民藝 * *
宮本常一 * *
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