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20070128 賢者の言葉・関川夏央・「水面に映る風景 洲之内徹の東京」より

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 「(前略) 一九三〇年、上野の美校の建築科に合格して上京し、間もなく彼は東中野の桜山に下宿した。そこはおもに中級の勤め人たちが住んだ町で、今の明大中野高校のすぐ隣あたりである。

 彼の下宿から五十メートルばかり、南へ坂道をくだると中央線の線路に突き当たる。そこに高根の踏切があった。踏切といっても踏切板はなく、本来は渡ってはならない場所を近所の人たちは、いわばお目こぼしで柵の切れ目から急ぎ足で駆け抜けた。

 ずっとのちの一九五六年、この踏切で画家の吉岡憲が鉄道自殺をした。四十歳だった。

 海老原喜之助の<ポアソニエール>は光を描いた作品ともいえ、その女魚売りの顔と首筋にあたる光は、洲之内徹のいうように、まさに「知的で、平明で」「なんの躊いもなく日常的なものへの信仰を歌っている」ような、温く清浄な光である。一報、彼は吉岡憲の、たとえば<おらんだ坂あたり>に見られる弱い、白い日ざしについて、「何か切羽詰まった想いのようなものがこの冷たい光の中にありはしなか」(「第三者」)と書いていて、洲之内徹は、この画業の作品と人生に尋常ではない興味を示したのだった。

 「分ったこともある。吉岡がなぜ自殺したかということでなく、彼がどんな生き方をしたかということだ。芸術家という種族は、天国と地獄を同時に生きているのだ。彼は生まれながらにして十字架を負わされていた。ここへ書くわけには行かないが、彼の出生にはこみ入った事情がある。彼は生涯に繰り返し、何度も母子像を描き、それがまたみんないい絵だが、そこにはそういう宿命の下に生まれた彼の、聖なるものへの悲願が託されているのかもしれない。吉岡の母子像を彼のマリヤ像だという人がある。話に聞く彼はハンサムで、女性関係も多彩だったようだが、しかし、私の聞く限りでは、いつの場合にも、ある程度以上には決して深くならない。いわゆるプラトニック・ラブで、女性に関しては彼はピューリタンであるが、それには彼の潔癖さと同時に、女性への根深い不信もあったのではあるまいか」(「第三者」)

 ここに描かれた吉岡憲像は、なんとなく洲之内徹の自画像を思わせる。洲之内徹の出生には、こみいった事情があると聞いたことはないし、女性関係もはなやかで知られ、断じて「ピューリタン」などではなかった。しかしそれでも、なにか共通するもの、共有するものがあるという気がする。

 七十歳近い息子に「どうしてうちにこんな子ができたのかしら」としみじみいった老母は、一九八五年十二月三十一日に九十四歳で死んだが、そのとき彼が見せた失意の深さは周囲を唖然とさせるほどだった。「母が生きているうちは、母より先に私が死ぬわけにはいかなかった」(「絵が聞こえる」)と書いた彼の「母子像」にも、やはりどこか「聖なるもの」が感じられるし、「女性への根深い不信」とまではいかないまでも、洲之内徹のどこかに、あきらめのよさというか、女性に対する過剰な冷静さがうかがえるのもまたたしかなのである。その意味で彼は、断じて「無頼派」でも「漁色家」でもなかった。

 洲之内徹は、いわゆる純文学をあきらめてから、「気まぐれ美術館」をはじめるまでの間に、吉岡憲について二百枚ほどの原稿を書いている。それは文芸誌編集者の気に入らなくて結局雑誌には載らなかったが、私がいう洲之内徹のミッシング・リンクは、所在はわかっていても事情があって誰にも読むことができないこの原稿のなかに隠されているのではないかと思えるのである。

 革命家はプロレタリアの町で暮らさなければならない、といって東中野から深川東大工町に越したのは一九三一年だった。しかし、そこで住んだのが、当時もったもモダンだった同潤会アパートであるというのは、いかにも当時の彼らしい。

 深川東大工町、いまの白河町時代をことさらに強く回想するようになったのは、鈴木初実さんが中洲のマンションに移ってからである。

 そのマンションのベランダの真向い、清洲橋のわずか上流に小名木川の河口が見える。そこから小名木川沿いに二キロもいかないところに十九歳の洲之内徹が住んだ同潤会アパートが、いまも古びた姿で建っている。対岸から河口を眺め、あらためて彼の脳裡に一九三二年五月十五日、つまり五・一五事件の日の夜の一シーンが異様な鮮明さをもって浮かんだ。それはアパートの四階、角部屋の窓から、検問が行なわれている小名木川の橋を見おろしている十九歳の自分の姿である。そのとき、彼は五十年の歳月を越えたのである。円環が閉じるように再び、水のある風景のなかに戻ってきたのである。

 (中略)

 大正と昭和、ふたつの時代のほとんどすべてを生きた洲之内徹が残して行ったものは、六冊の本と、洲之内コレクション、六百枚のレコードといく人かの親しい人々、それから早朝の隅田川の水をふたつに断ち割ってさかのぼる、ありふれた貨物船の連続写真だった。そして、洲之内徹が遠い彼方へ持ち去ったものは、人の心の深い裂け目をのぞき、また歴史と時代とに翻弄されながらもきわどくそれに呑みこまれず、曲折に富んだ人生を、総体としては誠実に生きた男の七十四年半の記憶だった。」

 「芸術新潮」1994年11月号 特集:今こそ知りたい!洲之内徹 絵のある一生 43p~47p 掲載
 関川夏央 「水面に映る風景 洲之内徹の東京」 の一部を引用



  関川夏央  *
 洲之内徹  *

 こちら:19961019 洲之内徹 『気まぐれ美術館』
 19971104 坪内祐三 『シブい本』
もご覧ください。



  「新日曜美術館」は、特集「カラヴァッジョVSレンブラント 光と影の秘密に迫る」。
「  16世紀末から17世紀、画期的な描法と波乱に満ちた人生で、西洋美術史に異彩を放った2人の天才画家が相次いで登場した。一人は、イタリアの鬼才カラヴァッジョ(1571-1610)。無頼者で果ては殺人を犯して死刑宣告を受け、イタリア各地を逃亡。38歳で非業の死を遂げた。その間、強烈な明暗のコントラストによる画期的な技法を生み出し、リアルな描写で斬新な宗教画の名作を数々残した。カラヴァッジョの技法は北方へと伝播、もう一人の天才画家、オランダのレンブラント(1606-1669)に強い影響を与える。彼もまた若くして大画家となるが、後年は破産や最愛の妻や子に相次いで先立たれるという憂き目に会い、波乱に満ちた人生を送った。
 番組では、2人の劇的な人生を辿るとともに、それぞれの作品を共通のキーワードで対比。カラヴァッジョ・ファンとレンブラント・ファン、双方のゲストをスタジオに迎え、作品の魅力を紐といていく。」
NHKオンライン ホームページ http://www.nhk.or.jp/ より
 山本晋也監督さんがゲスト出演。

 こちら:19961128 樺山絋一 『ルネサンスと地中海
もご覧下さい。
 田原のカラヴァッジョ体験です。

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