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20070204 賢者の言葉・米沢富美子・「真理への旅人たち 物理学の20世紀」より

   *



 「(前略) 二重の苦難
 『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』の著者・藤永茂氏は、「オッペンハイマーの名は科学者の社会的責任が問われる時にはほとんど必ず引き出される。必ずネガティヴな意味で、つまり悪しき科学者のシンボルとして登場する」
 と書いています。現在でも、オッペンハイマーの名に対しては、原爆を作り広島と長崎を破壊した悪魔のような人、という反応が返ってくることが多いようです。
 原爆開発に関わった科学者に社会的責任があるのは、まちがいありません。しかし、それをオッペンハイマー一人に推しつけて非難するという構造は、そのようにして作られてきたのでしょうか。
 藤永氏はこの問題を、右の著書の主題にしています。藤永氏はまず、ハンガリー人物理学者レオ・シラードの行動に注目します。
 シラードは、ルーズベルト大統領宛てのアインシュタインの手紙を用意した人です。「原爆を作れ」と、一番最初に言ったわけです。影響力のあるアインシュタインを説き伏せて、大統領への進言役を引き受けさせます。手紙はシラードが書き、アインシュタインには署名だけしてもらいます。
 その結果としてマンハッタン計画が始まったことを、忘れてはなりません。シラードは、ロスアラモスの原爆開発にも参加していました。
 しかし、四十五年七月には、対日原爆投下反対の立場を明らかにし、また終戦直後も原爆の国内管理に対するメイ・ジョンソン法に反対します。これらの事実を取り上げて、「科学者の良心」と位置づけられることが多いようです。
 藤永茂氏は、これは事実の歪んだ射影であると指摘して、シラードの欺瞞性を暴露します。フェルミの伝記を書いたセグレの文章も、物理学者ユウジン・ウィグナーの言葉も、「科学者の良心」のイメージからはほど遠いシラードの素顔を浮かび上がらせていて、藤永氏の主張を裏づけています。
 藤永氏はつづけます。
 軍の手先になったオッペンハイマーと軍部に立ち向かったシラード。「この明快な構図は、これまで多くの人たちによって、好んで利用されてきた。原爆開発の経緯を『読み物』として劇化するのに便利だからである」とし、「しかし、シラードを持ち上げ、オッペンハイマーを貶めることで、書き手が、自分の無罪証明を、アリバイを手に入れようとするならば、私はそれを許したくないのである」と主張しています。
 オッペンハイマー一人を悪者にしても、決して問題の本質には迫っていない。そのことには気づかぬ振りをし、あるいはほんとうに気がつかぬまま、あたかもそれで、反戦に対する自分の責任を果たしたような顔をするのは、やめてもらいたい、という主張です。
 オッペンハイマー一人が悪魔扱いされるに至った図式が、はじめて理解できたような気がしました。


   *

 名誉の回復
 (中略)
 『理化学辞典』のブラックホールの項を開くと、一九三九年にオッペンハイマーによって指摘された、と載っています。先にも述べましたが、オッペンハイマーは中性子星も予言しました。これらが実験的に検証されたのは一九七〇年前後なので、彼があと十年長く生きていればノーベル賞を授与されたであろう、といわれています。われわれの宇宙への夢を広げたすばらしい業績です。
 ロスアラモスでの精神的・肉体的苦労と戦後の悲劇とで、オッペンハイマーは寿命を縮めたのでした。
 政治と科学という問題は、アインシュタインやボーアを含めて、二十世紀の科学者が背負ってきた宿命です。
 科学・技術の成果は、そのレベルの如何を問わず、必ず正の面と負の面を持っています。石器時代の石も、文明の利器ともなったし戦争の道具ともなりました。二十世紀の科学のさまざまな成果は、それがより強調された形で現れました。人類の生活を便利にし、人間の寿命をのばす。その一方で、核兵器、化学兵器、生物兵器といったおそろしいものにもなります。
 科学・技術の成果とどのようにつき合っていくか、これは二十一世紀を生きる私たちが、人ごとでなく真剣に考えていくべきことだと思います。」

 米沢富美子 『真理への旅人たち 物理学の20世紀』 96p~100p 掲載
 「「原爆の父」の刻印を背負って ―ロバート・オッペンハイマー」 の一部を引用



  米沢富美子  *

 こちら:19970807 米沢富美子 『科学する楽しさ』
もご覧ください。



  「新日曜美術館」は、特集「永別の自画像 日本画家・三橋節子」。
「   病に冒された一人の母親が、死を目前にして子供達に遺した一枚の日本画がある。
 近江地方の伝説を題材に描かれた『余呉の天女』。
 空へ去る天女の慈愛に満ちた表情と、里に残された村の子供の瞳に湛えられた深い孤独。
 日本画家・三橋節子が死の間際に描いた母子の永劫の別離の光景である。
 三橋節子(1939~1975)は京都画壇で数々の新人賞を受け日本画家としての将来を嘱望されたが、ガンにより利き腕の右腕を切断。しかし左手に絵筆を持ち替えて活動を再開し、亡くなるまでの僅か2年間で数々の傑作を遺した。
 そのほとんどは近江地方の伝説を題材にとったもの。激痛に悩まされながら療養していた節子にとって、大津市内の自宅から見える琵琶湖の風景と幼い息子・娘との暮らしが、絵の題材を探る想像世界のすべてだった。
 猟師に撃ち殺された水鳥や、子供のため両目を失って天空を駆ける龍神、といった物語のモチーフには節子自身の苦悩が投影されている。寡黙で自らの思いを語ることが極端に少なかった節子。作品は魂の日記でもあった。
 逆境から誕生した傑作の数々は、死後30年を経た今、琵琶湖を望む、こじんまりとした個人美術館に飾られ、訪れる人々に深い感銘を与え続けている。
 番組では節子が死の間際に一連の傑作を生み出すまでを、手記、節子のスケッチブックや手紙をもとにたどってゆく。」
NHKオンライン ホームページ http://www.nhk.or.jp/ より
 亡き妻を語る、やはり絵描きの旦那さんの、姿立ち・言葉にも、深く感動。

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