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20070318 賢者の言葉・玉村豊男・文明人の生活作法

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 玉村豊男 WIKI



 「 作法というものは人間の真情の発露を覆い隠す手段に用いられているようにもおもわれる。

 通夜や葬式ではガツガツとむさぼり食ってはいけない

 ということは、悲しくて食欲も出ない、というようすを表現しなければいけない、というのだが、このことで、すぐに思い浮かぶ話がある。
 それは、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の中にある逸話のひとつである。
 ……数々の危難に出会いながら長い航海を続けるオデュッセウスとその一行が、大渦巻のさかまく危険な海峡を越えようとしているそのときに、渦巻に気をとられているうちに反対側の高い岩から六つの頭を持った女怪蛇スキュレー(サイレーン)に船を襲われ、六人の勇敢な部下たちをオデュッセウスは眼の前でさらわれてしまった。しかもスキュレーは、皆の見ている前で、六人の仲間たちをムシャムシャとむさぼり食ってしまったのである。ある者は身もだえしながら助けを求め、またある者は叫びながら手をさしのべたが、しかし残された者たちにはなすすべもなく、ただその悲惨な光景を手をこまねいて見ているほかはなかった。そしてとにかくその危難を乗り越えるべく、一刻も早く逃げだそうと、無我夢中で船を漕ぎ、長い苦闘の末、どうにか危地を脱して、そろそろ夕闇の迫るころ、ひとつの島にたどりついた。
 その島には立派な牛と肥えた羊がいた。
 長い苦闘の末で、全員疲労困憊していた。空腹でもあった。とにかくなにか食べなければならない。そこで船を降りた彼らは、食料を調達しそれを手なれたようすで巧みに料理して、宴を設けた。彼らはむさぼるように思うさま食い、飲み、飲み、食い、十分に飲み食いして満腹となった。
 こうして満腹となった彼らは、そこではじめて怪物スキュレーにさらわれた仲間たちを思い出し、悲しくなり、悲しみにたえかねて泣いた。泣いて、泣いて、長いあいだ泣いて、泣き疲れて、そのまま深い眠りに落ちていった……
 という、話である。
 オルダス・ハックスリーはこの逸話をとりあげて、
 「悲しみのどん底にあって食欲もない、というのは悲劇を描く物語作家のひとつの手法であって、真実のすべてではない。自分たちがまず食欲を満たしたあとではじめて他人の死を悲しむ余裕が生じたと書くホメーロスのほうが、人間の真実の全体を描いている」
 という意味のことを述べている。
 みずからがまずむさぼり食って食欲を満たし、そこでようやく自分が死の危険から脱したことを確認して、はじめて心の中に他人の死を悼むゆとりが生じる……というのは、なるほど人間的かもしれない。
 もちろん怪物に襲われたわけではなく、ただノコノコと葬式に出かけていく人間にこれがそのままあてはまるかどうかはともかく、そうした人間の真実の全体を底まで見通したとするならば、悲しくないのに悲しいふりをする、といった、隠蔽の演技にかかわる作法やマナーやエチケットは、実にこざかしい思い上がりにすぎない、といった気もするのであるが、また世界の風習を見渡してみると、人間の真情の発露をそのまま作法習慣に昇華した美しい実例を発見することもできるのである。
 ――マダガスカルの田舎では、人が死ぬと、一頭の牛をほふり、村じゅうでその牛を盛大に食べる饗宴を張るという。そのパーティーがそのまま通夜である。一頭の牛は、肉を焼き、内臓を煮こみ、骨はスープをとって余すところがない。村びとたちはその滅多にありつけないごちそうをハラいっぱい食べ、騒ぎ、踊り、一晩中、夜あかしで食べ続ける。そして通夜が明けた朝、村びとたちは連れだって新しい死者の墓を詣で、残りものの牛のツノを二本、墓前に供えて、せっかくの牛の料理を食べることができなかった不幸な死者に同情して、そこではじめて声を揃えて号泣する……のだそうだ。」

 玉村豊男 『文明人の生活作法』、「食卓の作法」より。

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