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20070325 賢者の言葉・村上龍・対談二つ

村上龍(むらかみ・りゅう 1952年2月19日 - )  wiki



 フローラン・ダバディー 『黄金時代 日本代表のゴールデン・エイジ』 *  より
  「第3章 好きなのはサッカーであってW杯ではない【村上龍×ダバディー】」

  

 フローラン・ダバディー  wiki

ダバディー フィリップ・トルシエと一緒に取材を受けるとき、協会の広報部と相談するんですけれども、我々の考え方では、西洋人のせいかもしれないけど、例えばいくつかの取材申し込みがあったとき、いちばんいい企画を選ぶのが普通です。もちろんギャラも取るんですけれども、すると協会側は必ず公平に分けるんですね。今フジテレビをやったから明日はテレ朝もやらないといけないし、今度はTBSもやらないといけないしって。それでいちばん面白かったのは、我々がフジテレビと契約したときにはいろいろ問題になったのですが、逆にフィリップ・トルシエが提案したのは、フジテレビにイタリアのテレビューやフランスのカナルプラスのようなサッカーの専門チャンネルになれと言ったんです。「そうすれば私はハーフタイムにも話をしますし、ベンチにマイクを入れて、日本代表の試合中にコメントをとることにも協力します」と。いいサッカー番組を作ってください、トータルで協力しますと言った。でも、フジテレビ側は「いや、でもそうすると、ちょっとほかのテレビ局に怒られるからね」って。そのときすごくびっくりしたんですね。いちばんになりたくないんですよね。サッカーのチャンネルになればフジテレビがスクープで、”中田とトルシエの独占インタビュー”なんてこともできるのに。フィリップは「私はフジにしか喋らない、そういう契約にすれば」というのですが、「いや、それは困る、テレ朝にも喋ってほしい」って。「え? 競争じゃないんですか?」「いや、それはですね・・・・・」。そこから絶対にいいサッカー番組は生まれないし、村上さんが言ったように、同じことを書く。絶対スクープが欲しくないんですよ、今の段階では。でも、それはどこかで破らないといけないと思う。

村上 それはスクープしたら100万円、しないとゼロ、ということをしない社会だからだよ。

ダバディー 実は私、フィリップ・トルシエのNGビデオを持っているんですよ。いろいろな番組で撮ったもので、ギャグとか、女性をナンパしているところだとか、すごい内容なんですね。フィリップと私は、それも「本当にすごいビデオだから、フジテレビで流して欲しい」と言ったんです。すごい番組にしてくださいと。当然我々は編集に参加するけれども。でも、ノーと言われたんです。「いやあ、ちょっと代表監督のイメージが」と言う。「すみません、それはフィリップ・トルシエ自身が提供しているビデオですから、自分のイメージをそこまで皮肉にしたいのだから、もう絶対面白いし、この4年間のベストセラーの番組になるから、視聴率はベルギー戦を超えるぐらいのことになるから」と、いろいろ言っても「いやあ」と言うんです。で、結局各テレビ局に分けて、ちょっとずつ出せばとおっしゃる。そうじゃないですよね。」

村上 確かにおかしいけど、でもそれはジャーナリズムだけがおかしいわけじゃないし、テレビだけがおかしいわけじゃないんですよ。日本社会全部がそうなんですよね。基本的には全部そうなんですよ、古い体質が。

ダバディー さっき村上さんがおっしゃっていた、「小説家なのにどうして映画を?」という現象は、すごく日本的だと思うのですけれども、私は、サッカーの選手ではなかった村上さんにサッカーの話をして欲しいし、ジャーナリストとしてサッカーの解説者としても話をしてほしいです。これからのスポーツジャーナリズムの方向性というか、サッカージャーナリズムは、知識が豊富で専門外のことを語れる形がいいですね。そういう部分、アメリカはちょっと進んでいますね。NHLなら、アイスホッケーが大好きなウッディー・アレンが招待され、ニューヨーク・レンジャーズの試合を解説する。最近は、アメフト好きな映画監督のコーエン兄弟が、マンデーナイト・フットボールを解説している。彼らが言う皮肉がまた面白いんですよ。「私はカンザンスシティーという、ど田舎のレッドネックのチームにアメリカ1になって欲しくないな」とか(笑)。極端なことをいうと、ASローマというチームは共産主義で、ラツィオが右翼だというような背景を持っているということを知ってダービーを観るとか、バックグラウンドも含めてサッカーを観るのは、すごく面白いんですよね。だから、もし私がスペインリーグを解説するなら、みんながすごい、すごいというレアル・マドリッドが、実はスペインでは国いちばんの嫌われ者のチームであるということや、それはなぜかという部分を話したいんです。レアルはもともとはフランコのチームであり、今はもちろん違うけれども、どちらかといえば左寄りの労働者中心のスペイン社会においては、レアルというのは真っ白の王侯貴族の象徴なんだよ。逆にバルセロナは全国的な人気があって、アウェーでやっていてもブーイング浴びない。でも、レアルには石が投げられる。だからそこに勝つのはすごく難しいんですよ、とかね。でも、そういう話をすると「ダバディーさん、今の話は非常に面白いですけれども、やっぱりちょっとサッカーの方を」って言われると思う。静岡の部活出身の解説者がテレビに出たら「いやあ、今のゴールは大きいっすね。でもやっぱりこれからはちょっと10分以内で返さないとなあ」と言うでしょう。でも、それはあまり聞きたくないですね。そこは、日本のマスコミの認識不足だと思う。

村上 日本のマスコミは現実に対応できていないんですよ。マスメディアというのは、一応マスを対象にしているでしょう。それはレベルを落としているということではなくて、マスというものがあると思っているんですよ。でも昔のパラダイムでいうマスというか、大衆というのは、もうどこにもいないんですよね。いろいろなところにギャップができていて、ギャップを伴った多様化というのが進んでいる社会になっているんです。例えば昔は、「普通のサラリーマン」とか「人並みの暮らし」ということをよく言ったんです。古い映画を観ると「人並みの暮らしをしたい」という台詞が出てくる。でも「人並みの暮らし」という言葉は、今誰も説明できないでしょう。「人並みの暮らし」というのがどんな暮らしかアンケートをとっても、たぶんバラバラの結果になると思うんです。「普通のサラリーマン」というのもそう。お父さんの職業を聞くと「普通のサラリーマン」と言うんだけど、じゃ普通のサラリーマンを定義してくれと言うと誰もできないんです。ボーナスを5000万円もらっているサラリーマンもいれば、失業寸前のサラリーマンもいるんだから。昔は明確にいたんだけど、今はいない。でも言葉だけは残っているんです。
「普通のサラリーマン」も「人並みの暮らし」も、マスがあることを前提にしている言葉なんですが、もうそのマスはない。でもメディアはその言葉を使っているわけです。同じようなことがいろいろなジャンルにあって、サッカーにもあるし、他でもあるんです。その中で、例えばメディアからの情報を受ける側の人たちは、みんなものすごく不安になる。これからどうなるんだろう、自分は大丈夫なんだろうかと。格差ができていくというのは、みんな薄々知っているから。で、マスメディアの情報としては、その不安がっている今の日本の約5割とか6割の人たちに、「皆さんはそうやってこれから格差ができていく社会になると思っているかもしれませんけど、まあまあ大丈夫ですよ」という情報が受けるんですよね。そういう情報って、安心できるんです。ああ、やっぱり何か心配してたけど、こういう番組を見ていたら、日本人はまだみんな一緒なんだなと思えるのが、本でもテレビのバラエティーショーでもニュースショーでもみんな受けるわけ。だからメディアだけはずっと遅れていくんですよ。結局ある国のサッカーがそうなるのは、その国のメディア全体とかその国の文化全体がそうだからなるわけであって、そこの国でも、サッカーだけが特別にあるということじゃないですからね。」


 小熊英二 『対話の回路 小熊英二対談集』 * より
 「「日本」からのエクソダス」 対談者 村上龍

  

 小熊英二 wiki

小熊 村上さんはいわゆる「日本」あるいは「共同体」という言葉で表現されるものを攻撃対象にしているんですけれども、実は共同体そのものを体現するような登場人物をあんまり描写されないという気もしたんです。たとえば『希望の国のエクソダス』では、山方という文部官僚が出てきますが、山方自身も省内では外れ者だったりする。これぞ「ザ・システム」みたいな人が、ほとんど村上さんの作品に出てきたことがないなと思うんです。

村上 一つには、どこにも就職したことがないからわからないということがあるかもしれません(笑)。たとえば刑事物の小説を読むときも、警察内部の人脈とか、本庁と所轄の軋轢とか、そういう話題はすごく面倒くさくて嫌いなんですよ。日本の経済小説はほとんどが企業小説ですよね。社長派と会長派が派閥抗争をして、主人公は会長派で、社長派の秘密を女を利用して聞き出すとか、みんな同じパターンなんですね。僕は、日本的な共同体内部でのコンフリクトには、意味なんかないと思ってるから、興味ないんですよ。

小熊 もう一つ感じたのは、まったく共同体的な心性と縁のない「ザ・個人」みたいな登場人物も出てこないということです。『エクソダス』でも、狂言回しの新聞記者は、女性との結びつきをクラシックなぐらいに求めているし、中学生の共同体も基本的には仲間同士の結びつきを大事にしていると思うんです。

村上 うん。それはそうかもしれないですね。政府の調査会や、経済戦略会議の答申などで「個人の確立」が盛んにいわれはじめたのはこの二、三年ですよね。『単一民族神話の起源』のなかの言葉で、近代日本で流通した集団観においては「まず個人があり、それが集まって集団ができるのではない。まず集団があり、そこからの疎外現象として<個人>が析出されるのである」とありますが、まさしくその通りだと思うんです。こんな明確にすっと入ってきた文章はないですね。
「個人」という言葉にはもとから共同体と敵対しているニュアンスが含まれていると思うんですよ。スポーツで個人プレーという言葉が否定的に用いられるように。だから個人という言葉を使って、個人の確立とか、個人の尊重とか、個性とかいうことは非常に空疎だと思うんですよね。
 小説のなかでも、僕が一つのモチーフとして、「個人」という概念を輪郭づけようと思ったら、きっと今までとはまた違う小説を書かねばならないと思うんです。そういったモチヴェーションはいままでの小説にはほとんどないですね。

小熊 日本での言葉の定着の仕方としては、なにか集団があって、そこから浮いちゃったものを「個人」という。またあるいは、浮いちゃったものが特定の人間でなくても、浮いちゃうような感情を持つときに、それを「個人的意見」とかいう。そういう感じはしますよね。

村上 ああ。

小熊 僕はそういう「個人」というものは、最終的にはあてにならないと思うんです。なぜなら、その「個人」は、集団や共同体が対抗相手として先に存在しての感情にすぎないわけですから。

村上 それはやはりずーっと資料を読まれて突き合わした上で、化学作用みたいに到達した考え方なんですか。

小熊 そこの部分に関しては、あまり実証的に書いていませんけどね。それを本気でやるんだったらやっぱり、近代日本において「個人」という言葉がどう使われてきたかの歴史を、全部調べる作業が必要になるでしょうね。
 ただ、ヨーロッパやアメリカのナショナリズムのつくられ方においては、個人とネーションが矛盾するものとは考えられていないということはあるんです。たとえばいわゆる近代フランスのナショナリズムのつくり方っていうのは、古い村落共同体みたいなものから、個人として確立した人間がパリ中央政府と直接に結びつくというかたちで、国家と個人、ナショナリズムと個人が結びつくということになっています。村落共同体のなかの教会組織とか、貴族を中心とした身分関係とか、そういった封建的諸関係から解き放たれた個人が、真のナショナリズムと民主主義をつくるんだというのが、フランスなどのナショナリズム思想の建前ですよね。
 アメリカの場合はそういう封建体制がもともとなかった国だから、移民として自由な個人としてやってきた人間が、開拓共同体をつくって、それが連合して国家ができるんだという考え方があるはずなんです。そこにおいては、個人が国家と矛盾しないどころか、村とも矛盾しない。村というものが、村長が威張っていて、いろんなしきたりがあって、個人の意見がない世界とは想定されていない。それこそアメリカ映画のカウボーイの世界で、みんな個人として屹立してて、それが村の共同体をつくっているように描かれますからね。ただし僕は、そういう欧米のナショナリズムの描かれ方は、ほんとうは半分以上がうそというか、実態からずれた建前だと思いますけど。

村上 日本の場合は、個人と共同体とか、個人と国家とか必ず二項対立で敵同士のように描かれますからね。

小熊 そうです。そういう言われ方をするんです。それは日本だけだとは私は思わないけれども、ある国家のくつられ方がされたときにそういうかたちになるような気がする。たとえばの話、家族や地域共同体が国家と戦った歴史のある国だったら、問題の立て方は「個人と国家」ではなくて、「共同体と国家」になるはずなんです。

村上 ものすごく乱暴にいうと、ほとんどの日本人が、マイノリティの体験がないっていうことは大きいですかね。

小熊 大きいと思いますね。みんな個人的にマイノリティになった感覚は持ったことがある。とくに最近は、どうも馴染めないとか、こう感じているのは自分だけじゃないかとか、そういうのはあると思います。でも集団としてマイノリティとしての行動を起こしたり、集団としてのマイノリティのなかに受け入れられたという経験は持っていない。沖縄みたいな場合だと、共同体に受け入れられていながら、国家とは対立しているという状態が平気で成立し得るわけですが、ヤマトの人間にはそういう体験は少ない。
 もし日本において、個人、あるいは「自立した市民」が結びついた政治組織が、いいかたちで作用して政治を変革するという経験を何度も積んでいたら、そういう感覚にはならなかったでしょう。人間が仕事や政治的関心といったあらゆる「公」のものから乖離して、消費活動をやっているときしか「個人」であると感じられない社会になっていることが大きいと思います。

村上 それはキーポイントのような気がします。たとえば学級崩壊の問題を考えるときに、ほとんどの人が、学級という単位で考えるんですよね。なんとかいままでの文脈で、学級全体に秩序を回復し、ガヴァナンスをするかということを考えている。それは無理だと思うんですよ。学級を四十人なら四十人の子供に分解して、家庭でも地域社会での個人として、簡単な訓練を受けてきた子供が、集まってクラスをつくれば、崩壊を防げるかもしれないけど。」

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