20070401 賢者の言葉・椹木野衣・岡崎京子論
『平坦な戦場でぼくらが生き延びること 岡崎京子論』 椹木野衣 筑摩書房 2000 所有、「存在の不安」より。
「いまとなってはどれだけのひとが覚えているのか心もとないのだが、一九九四年に渋谷で岡崎京子の個展が開かれたことを御存知だろか?
当世を代表する人気漫画家の「個展」となれば、会場は大手百貨店の特設会場? はたまた私設美術館? というふうに連想されるかもしれない。が、この個展が開かれたのは、タワーレコードがいまの巨大なビルディングに移転する前に渋谷は宇田川町の一角にあったとき、その脇の路地を少し入った場所に建っていたマンションの、ほんの数畳程度の一室だった。
いまでは恵比寿に移転し、少し前にはチャップマン兄弟の日本への紹介をいち早く果たしたり、立花ハジメの新展開を披露する個展を開いたり、新進アーティスト小谷元彦のデビュー展を企画したりして注目を集めているが、もともとはオーナーの秋田敬明の住んでいた渋谷のマンションの一室を急遽、ギャラリースペースに改造したものにすぎなかった。(ちなみにこの決意によって秋田氏は当分の間、押し入れで寝ることを余儀なくされたという。)
この秋田氏の熱意に押されて(?)、コーディネーターを買ってでたアーティストの村上隆に誘われるまま、いつのまにかぼくもアドバイザーというかたちで、この前例のないギャラリー「P-HOUSE」プロジェクトに加わることになったのである。
この手のスペースにとっては、こけら落としでなにかをやるかは、方向の見えないギャラリー体制をまとめあげるうえでも、世間に対してこの場所の個性を際立たせるためにも、最重要の課題である。けっきょく、渋谷で「現代美術」をやる最大の意義は、とにかくそこにできるだけひとを集めることにあるはず、という村上隆の一声で、ジャンルこそ違えどメジャーなシーンで当時の美術の先端部と変わらないリアリティを展開していた岡崎京子に声をかけさせていただいた。
いちばんびっくりしたのは、おそらく当人だったと思う。
なにしろ、それなりの会場でそれなりのお金をかけて展覧会をすれば、そこらの美術家などくらべものにならないくらいの動員が見込める売れっ子作家のところに、吹けば飛ぶような、まったく無名の、しかもほとんど突貫工事で仕上げたようなせま――いスペースから、個展をやっていただけないか、という誘いが、ある日突然、飛び込んできたのである。普通の神経なら断ると、下手をしたら怒ってしまってもぜんぜん不思議はない。
ところが岡崎氏は、この企画を引き受けてくれたのである。
もちろん彼女に不安がなかったわけではないだろう。規模の小ささのほかにも、P-HOUSEはサブカルチャーではなく正真正銘の<アート>スペースを標榜していたから、そのような文脈に<漫画>を展示することの難しさは、いろいろとある。もちろんそういったことの前例がないわけではない。漫画の原画を美術作品として展示するという試みは、すでに東京国立近代美術館でも「手塚治虫」展が数年前に開かれ、話題になっていたし、そこまで権威高くなくとも、似たような催しは随所で開かれるようになっていた。
しかしこうした試みは、「美術」をより広い対象に向けて開放していくというその進歩的な姿勢にもかかわらず、よく見るとけっこうやっかいな問題を孕んでいる。頭のいい岡崎氏のことだから、これからぼくがここに書くようなことはきっと直感的に感じ取っていたはずだ。
たとえば、「漫画」はもともと大量に生産され、大量に消費され、大量に廃棄されるものとして著しい発展を遂げてきた。つまり、漫画の可能性も限界も、実のところはこの「複製技術」に非常に多くを負っており、したがって漫画の手描き原画は、どんなに美しく仕上げられていても、「絵画」作品というよりは「版下」原稿というべきもの、という経緯がある。
もちろん作家の方々がこうした<版下製作>に飽き足らずに、一点ものの「作品」を制作することはおおいにやっていただいてかまわない。もしかするとそのなかには、絵画の歴史に擦りあわせてみても新鮮で、さらにいえばその歴史に新たな一歩を付け加えうるものがあるかもしれない。けれども、現実に「作品」を見るかぎり、残念ながらそうしたものは九割九分存在していない。「漫画」のなかではあれほど輝いていたキャラクターや場面が、一点ものの原画となって「展示」された瞬間に、ありきたりで独り善がりの、稚拙なイラストのたぐいに成り下がってしまう例は、いまなお後を絶たない。
最悪なのは、にもかかわらず多くの漫画作家が、自分の「作品」のことを、<版下原稿>としての「原画」よりすぐれた価値高いものだと勘違いしていることだろう。こうした傾向は売れっ子作家ほどひどくて、自分は大部数の漫画雑誌や単行本であれほどまでに稼いでいるのだから、一点ものの原画に至っては、もう天文学的な価値があるにちがいないと、勝手に思い込んでしまっている人すらいると聞く。
しかし実際には、美術の世界は固有の歴史と論理を持ち、それは固有の市場の内部で動いている。たとえ他の世界でどれほど価値があろうとも、その基準に引っ掛からないならば、その価値は原則として<ゼロ>である。にもかかわらず日本などで漫画作家の「原画」が美術作品として歓迎されてしまうのは、まず第一にこの「基準」が見えにくいということにある。そして基準が見えない以上、ある作品に「価値」があるかないかの判断の基準は、その作品が「売れる」か「売れないか」にしかなくなってしまう。つまり、「売れる」作品は「価値」があり、その価値を生み出す作家は「大先生」だ、ということになってしまうのだ。しかし、ひとたび世界の美術作品の市場を支えている「基準」に照らし合わせてみたとき、これら「大先生」の「作品」にまったく「価値」がないことは、火を見るよりもあきらかである。
こうして倒錯が生まれる。つまり、出版社という大資本に支えられた「作家」の「作品」は、本家家元の「美術」作品よりも「価値」がある、と。実際、日本の戦後社会は、漫画に限らず広告/デザインや、果ては文学や美術の世界にあっても、この<判断基準なき資本主義>体制のなかで多くの「大先生」を生み出してきたし、実際その体制はいまでも基本的には変わっていない。けれども、美術の世界だけ例にとっても、世代交代が進み、世界の情報がリアルタイムで流通するようになった結果、「大先生」と若い世代とのかい離は予想以上に進んでおり、もしも日本がまったく未知の判断基準をもつグローバルマーケットに呑み込まれるようなことがあれば、日本国内だけで「価値」を持つような古きよき作家/大先生のたぐいは、ほとんど生き残ることすらできないと思われる。
にもかかわらず、国内に十分なマーケットがないために早くから情報公開の進んだ「現代美術」の世界などに比べると、「美術」の世界はもちろん、「文学」や「広告」とりわけ「漫画」の世界では、いまだに異常なまでの「大先生」志向が強く、仮に「美術館」で日本の戦後の漫画史の展覧会を開こうなどとしたら、本来、学芸員による作家や作品に関する「取捨選択」がもっとも肝心なところが、出版社との法的関係や各作家の過剰な自意識におされて、すべての作家/作品をまったく同等に展示せざるを得なくなることは容易に予想できる。
やや話が拡がってしまったが、「漫画」作家においてもっとも「価値」をもつはずのものは、漫画の歴史に固有の論理と形式を持った<版下原稿>のほうであり、もしも美術館が「漫画」に対応しようとするならば、緊急の課題は「漫画」の美術作品に類する「展示」などではなく、長年にわたる出版社の放置によって散逸しつつある<版下原稿>の「収集」活動の方であろう。ましてや、「展示」することによってどれだけの価値があるかわからない<版下原稿>で美術館の壁を神妙に埋め尽くす企画など、先進的であるどころか、下手をすれば現状の前時代的状況の追認(はおろか権威付け)ということになりかねない。
彼女がそこまで考えたかは知らない。けれども少なくともぼく自身は、彼女に声を掛けることになったときにはそこまで考えたし、そこまで考えたうえでなお、岡崎京子がギャラリー・スペースで「展示」を行うことに意義がなければやる意味がない、と考えていた。
なので、P-HOUSEで岡崎京子が展示した作品が、一部で期待されていた「原画」などでなく、かぎりなく「現代美術」に近いものだったことにも、別段驚きはなかった。それは、写真や、布施英利氏から提供された実物の死体標本などと一緒に、岡崎氏が漫画を描くときのモチーフをミックスして構成した、規模は小さいけれども非常にチャーミングな空間だったのを覚えている。
もちろんそれは、「漫画」の文脈ではなく、「美術」の文脈で評価されるべきものだった。事実、この個展は「美術」界に一定の反応を巻き起こした。もちろん、漫画家の高名をまったく抜きにして考えることはできないが、しかしすくなくともそれは、「漫画家」の美術展示としてはまったく異例のものであったし、そこで構成されている空間は、当時、美術の世界で論議されていたいくつかの問題に、見事に対応し、作家なりのイメージを与えるものだった。「郊外」「売春」「死体」「日常」……それらはいずれm、たしかに岡崎京子が自作の中で展開していた要素ではある。けれども、仮に彼女がこれらの要素を「漫画」のままで出してきたとしたら、それだけでは一定の「価値」を持ちえなかったように思う。逆にいえば、彼女の「漫画」が異ジャンルの世界の人々にも多く読まれ、ある種の共感をもたらしえたのは、その作品が潜在的に、漫画以外の様々なジャンルに緊張感を与えられるだけの拡がり(普遍性とまではいわないが)をもっていたからに違いない。けれども、多くの人が何となく気づきながらも、いまだそれが具体的な「何か」でない以上、その「何か」の摘出のためには形式の転換、すなわち「美術」から「漫画」への翻訳作業が必要となる。それはたしかに困難な作業で、この展覧会もその意味では成功したとは言い難い。
けれども、そうしたリスクを負ってなお、彼女をこの実体のない「個展」への参加に踏み切らせた最大の理由には、ある<存在の不安>があったように思えて仕方がない。しかもそれは実存的なものというよりは、きわめて制度的/社会的なものなのではないか。
満足なカタログを制作する予算などないこの展覧会にあわせて発行されたフリーペーパー『PEPPER SHOP』に掲載された岡崎氏へのインタビューは、いつになくあけすけで作家の本音が語られている貴重なものだが、そのなかで彼女が次のように語っているのには、ひたすら「大先生」を志向する漫画作家全般の倒錯を、裏側から透かしだすようなニュアンスを感じずにいられない。マンガには批評がない、批評家がいない、全然。評価されません、使いっぱなし、使われっぱなし。これは大きいですね。(中略)そういった意味では十年後に今の状態を見るとき、なんにもないってことになったりするよ。個別の本があるかもしんないけど、結局絶版になったりとかさぁ。記憶の名作みたいな感じでもう一回再版とかされるかもしんないけど。それとの関係っていうのは全くないんじゃない。(中略)だから私なんか全くいない人として消えたりとか。「漫画」を、既成の「批評」や「歴史」とのすり合わせでもなく、かといって「消費」と「流通」のラディカリズムへの埋没でもない別のかたちから再発見しないかぎり、<存在の不安>は、原理的には日本にいるすべてのひとにとってはリアルな不安であり続けるだろう。」
椹木野衣 wiki
岡崎京子 wiki
「新日曜美術館」は、特集「レオナルド・ダ・ヴィンチの原点“受胎告知”」。
「 ルネサンスを代表する画家として、後世に大きな影響を与えると共に、科学、解剖学、建築学など幅広い分野に大きな業績を上げ、万能の天才と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチ。その天才の原点である若き日の傑作がフィレンツェのウフィチ美術館の至宝「受胎告知」だ。レオナルドは生涯に10数点しか絵画作品を描いていないが、そのいずれにも、新しい技法やアイデアが込められているため、際立つ個性を放つ。「受胎告知」は、そうした後のレオナルドの出発点となった重要な絵画であり、そこには様々な革新的な試みが行われていた。
例えば、当時イタリアでは、ほとんど普及していなかった油彩画を取り入れ、陰影のある表現を作り上げた。
また、構図も緻密に計算されている。画面の遙か奥には、港の風景が全体をぼかして描かれている。画面の手前と奥で、筆のタッチを変えて描くことにより、画面にはてしない広がりをあたえた。さらに、近年の調査でレオナルドのこの絵が置かれた場所を想定して、斜めから見ると奥行きのある空間が味わえる工夫がされていることがわかった。
後年没頭してゆく自然への強い関心もこの絵の中に既に表されている。まるで本物の鳥の翼のような天使の羽根。この翼への興味を、空を飛ぶ機械の発明へと発展させてゆく。そして天使の足下に植物図鑑のように緻密に描かれた植物。レオナルドはこの後、人体を解剖し生命の神秘を探ろうとする。まさに「受胎告知」はレオナルドのあらゆる活動の原点となった作品なのである。
番組では、この受胎告知が日本で初公開される東京国立博物館の会場で、レオナルドの人間像に強い関心を寄せている作家筒井康隆氏の話を交え、その創造の源を探ってゆく。
[出演] 筒井康隆(作家)、池上英洋(恵泉女学園大学助教授)」NHKオンライン ホームページ http://www.nhk.or.jp/ より
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