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20070408 賢者の言葉・椹木野衣・岡崎京子論 その2

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『平坦な戦場でぼくらが生き延びること 岡崎京子論』 椹木野衣 筑摩書房 2000 所有、「太陽の空間」より。


「 先日、機会を得て太陽の搭の中に入った。

 一九七〇年の大阪万博当時、岡本太郎が構想して実現した太陽の搭の内部世界「生命の樹」は、さすがに老朽化していたもののほぼ原型通り残され、種の進化をモチーフとした模型が随所に残されており、いまできたばかりの廃墟のようなたたずまいであった。

 原始世界を現代に甦らせようという趣旨のもと、樹木状の構造体から壁面、通路に至るまで、朱、レモン・イエロー、緑、セルリアン・ブルー、黒に塗りこめられ、三十年にわたって降り積もった埃やカビがこれを装飾し、一種独特の雰囲気を醸しだしている。

 しかし、これより衝撃的だったのは地下部分だ、基底部は太陽の搭の外周に沿って円形をしている。そして、その全域にわたって水が溜まり、沼のようになっている。ふと見ると、この「沼」にはところどころ原色の泥地のような浮き島がある。近くに寄ってみるとそれは大量のこいのぼりが水に浸されて山のように膨れ上がっているのだった。ここ地下部は機械室も兼ねているためか、複雑に入り組んでおり、なんのために使われたのかわからない動力機械が散在しており、そこは、かなり強い蛍光灯の照明で真っ白に照らされている。地下に降りる階段脇には「館長室」と書かれた鉄のドアがあり、恐る恐る中に入ってみると、案の定真っ暗で、ドアを閉めてしまえば漆黒の闇である。楳図かずおの漫画であれば、閉めた途端に鉄の扉は堅く閉ざされ、部屋の奥のほうにうずくまっていた怪物のような生き物に一方的に切り刻まれてしまうのだろう。まるで『神の左手悪魔の右手』のように。が、さいわい、そのようなことはなく、懐中電灯で照らされた窓ひとつない館長室の壁面はまだらの模様に覆われ、腐り切ったカーペットが残る床を踏めば部屋には大量の胞子がまき散らされ、懐中電灯で照らすと、重く、ぬるい空気と相まって、部屋全体が深海のように感じられた。

 いまいちど一階に戻り、今度は生命の樹を登りはじめる。全体が六層構造からなるこの塔、というよりも建築物は、他にエレベータもついてはいるのだが、さすがに動力を入れて動かすことはできないようで、いまではもう止まってしまったエスカレータを一歩一歩、登り始める。ゴキブリのように樹の根本部に群がっている三葉虫を横目に、いまでは人魂のできそこないのように吊り下げられたクラゲ(サメの頭部?)を通り過ぎ、ずんずん上へと昇っていく。エスカレータはいまでは考えられないくらい手すりが低くて、少し乗り出してみただけで身がすくんでしまうくらい、危うい設計だ。当時、数千万人を呑み込んだ万博のことだから、ここにも老若男女数えきれないほどの日本人が群がって、サイケデリックな光線を浴びながら、大河ドラマのような音楽に身を包まれて、この進化のスペクタクルを眺めていたのだろう。ふと気がつくと樹には巨大なプロントザウルスがほぼ当時のかたちを留めたまま残っており、闇の中で鋭い目線をことらに向けている。脇にはボロボロの翼竜が完全に死にこけて宙からぶらさげられており、さらにそのうえには、当時は可動式であったとおぼしき頭部を失ったゴリラが身をさらしている。

 それにしても、地下にいるときからどこかであらかじめ記憶に刷り込まれた風景だとは感じていたが、先に話が出たように、ふと、ここがウメズ・ワールドであることに思い当たった。たとえば『漂流教室』――ふとしたきっかけで廃墟と化した近未来社会にタイムスリップしてしまうことになる小学生たちは、自力で校庭から抜け出し、いま自分たちがどこにいるのかを知るため、砂漠の地下に残された廃墟に過去の痕跡を探しゆく。そこはかつての地下鉄の構内で、いまではもう未来人達の蠢く地下世界と化しているのだが、一部にはテーマパークもあり、そこでは恐竜やマリリン・モンローがまだ当時の趣を残している。

 そうだ。ここはまるで『漂流教室』なのだ。地下室があり、恐竜がおり、無人であり、すべては廃墟化している。しかもいまは、一九七〇年に、来るべき「未来」として構想された、まさしく二〇〇〇年の日本のはずであった。万博から三十年が経過し、かつて構想された「未来」像が早くも七〇年代なかばには瓦解した後、われわれの二〇〇〇年は見てのとおりの有り様だ。一方、太陽の搭の内部に密封された――まるで松下のタイム・カプセルのように――もうひとつの「二〇〇〇年」は、コンクリートの厚みの分だけ外界から守られて「異なる時」を刻み、いま、未来のまま廃墟となっている。おそらく、この塔の内部に一歩、足を踏み入れたときに感じた時空の歪みは、そこに起因しているにちがいない。ここは、時計で計れる物理的時間においては僕らが生きる西暦二〇〇〇年と同じ二〇〇〇年なのだろうが、いまなお一九七〇年のまま凍結されて二〇〇〇年に至っている。さらに複雑なのは、ここが、一九七〇年の時点で二〇〇〇年として構想された一九七〇年であったということだろう。太陽の塔の扉が内部に向けて開かれたとき、それは物理的な開封であるだけでなく、そのような時間の蓋を開けることをも意味していたはずなのだ。

 原色に塗りこめられた壁を眺めながらたよりなく時間と空間の感覚を失いながら、さらに太陽の塔を昇っていく。昇るにしたがって様々な記憶を呼び起こしながら、ひたすら昇っていく。もちろんひとりではない。いままでもこの内部に入ろうと何度もアクセスし、果たせなかった美術家のヤノベケンジ氏や、ぼく自身が企画し、一九九九年から二〇〇〇年の変わり目に水戸美術館で開かれた「日本ゼロ年」展に突如として現れ、この展覧会がいわば「EXPO1970=2000」を裏テーマとすることを見破った民族学者のヲダマサノリ氏も一緒だ。みな、それぞれに大阪万博に思い入れがあると同時に、結局、万博の生の記憶を持たないことにおいて共通している。そして、それぞれが年齢にそぐわない子供のようなことをして身を立てている「オトナ=コドモ」であり、そんな人間達が柄にもなく興奮して、この「未来の廃墟」を探検している。真っ暗だし、この高さから落ちればまちがいなく死ぬだろう。太陽の塔の内部で一生を終えるなんて本望とは言え現実のものとしたくない僕らには、興奮の中にもどこか、緊張感が漂っている。もしここに閉じ込められてしまったとしたら? 食糧もない。ケータイも通じるだろうか? いまだ実現しない二〇〇〇年の廃墟に閉じ込められたオトナ=コドモたち――それではほんとうに『漂流教室』ではないか?

 この世のものとも思えないヴィジョンを目の当たりにしながら、地獄から煉獄、さらには天界へと昇り詰めていくこの様を、本当はダンテの『神曲』にでもなぞらえたいところなのだが、残念ながらそういうバタ臭い教養は似付かわしくないし、それに所詮、ここはあのキッチュな太陽の塔の内部なのだ。第一、ここにペアトリーチェはいない。

 ペアトリーチェはいなくても、太陽の塔にも天界はあった。「動く歩道」を百八十度裏返した「歩くエスカレータ」を昇り詰めると、ちょっとした回廊のようなゾーンに出る。そしてそこから太陽の塔の広げられた二本の手の中に入ることができる。種の進化はここでヒトにまで高められたわけだが、岡本太郎の言葉なのだろう、「太陽の空間(SPECTACLE OF THE SUN)」という札が立てられている。はじめて読むことばだ。
太陽は人間生命の根元だ
惜しみなく光と熱をふりそそぐ
この神聖な核
われわれは猛烈な祭によって
太陽と交歓し
その燃えるエネルギーにこたえる
 その瞬間、変な気分になった。このコンクリートの棺のような闇の中で、太陽のエネルギーの讃歌に出会うということ。ここは寒く、冷えきっている。にもかかわらず、数百段の鉄とプラスチックの空中階段を昇り詰めたからだは熱く、汗が滝のように流れ出している。まるで、ここに来てこの言葉を読むことが三十年前からプログラムされていたかのようなおかしな感覚だ。岡本太郎と彼の死後、彼の作った太陽の塔の内部でみながはじめて出会うこと。ふたたび時間と空間が歪んでいる。考えてみればそれは、岡本太郎という存在にいかにもふさわしいのかもしれない。太郎は、一方で燃えるような生命や太陽を讃美したが、他方では森や夜、そして闇へと誰よりも果敢に居場所を求める人間だった。もちろんそこには、ジョルジュ・バタイユに触発された闇の神聖が見え隠れしていることはいうまでもない。そしてそこから導かれる対極主義。弁証法的な綜合をあくまで拒否し、矛盾を矛盾のまま受け入れたときに生まれる、まさしく唯物論的な爆発! それが太郎のいう「黒い太陽」なのではなかったか? それは、太陽は太陽でも内側に燃焼する精神の火の玉にほかならない。そこには、彼のイメージからは似ても似つかない「呪い」の世界が浅く、しかし無限に拡がっている。しかも、メディアが彼方までを覆い尽くした高度消費社会に生きることをよしとした太郎は、本格的な闇を求めるほど楽天的ではない。キッチュでよい。いやむしろ、キッチュな神聖であることが重要なのだ。もしもここが数万年前から存在する洞窟や鍾乳洞の本格的な探検であったらどうだろう。もちろんそれでもよいのだが、そこにはこのような時間と空間の歪みは生じないだろう。そこでは、空間の拡がりは歴史によってがっちりと固定されてしまっている。それに対して、この冷えきった闇の中で――しかもそこは地上数十メートルの位置にあるのだ――太陽を讃美するこの複雑に織り込まれた論理と物質の万華鏡、それが太陽の塔にほかならない。しかし、太陽の塔はここで行き止まりではない。

 一九七〇年当時、この太陽の塔を舞台に、ちょっとした事件があった。赤軍派を名乗る男が一人、万博反対を理由に、太陽の塔の最上部、それもあの黄金の顔の目玉の所に陣取って、一週間近く篭城したのである。岡本太郎はそれを見て「イカス」と言ったらしいが、男はどうやってそこまで昇り詰めたのだろう。案内されてみると、エレベータの脇に、知らなければ見過ごしてしまいそうな小さなドアが付いていて、開くと、体をこするくらい狭く急傾斜の階段がひとつ、さらに高方へと向かって続いている。さっそく上に昇り始めた僕らはさらに続く階段を昇り、ふたたび地下の機械室とよく似た調整室のような場所に辿り着く。そこからは木の階段や鉄の階段を使って垂直に昇るばかりだ。するともういちど、立てば立てないこともないような狭く暗い回廊のような空間に出たのだが、そこにはもう手すりひとつなく、少しでも乗り出せば真っ逆さまに下まで落ちてしまう。そっと下界をのぞき込むと、異常な色彩と造形のためか、高いには高いのだが、遠近感を失って抽象的絵画のように見えるので、一瞬高低差を失うような感じがあり、本当にあぶない。階段はなお、脇に隠されるように上に続いており、さらに上へと昇り詰めたヤノベ氏やヲダ氏も、けっきょく、目玉に通じる通路を発見することはできなかった。それにしても、オンボロの木のはしごや鉄のはしごを垂直に登り詰めているとき、ふたたび、奇妙なデジャヴュが甦ってきた。またしても楳図かずおだ。何の目的もなく闇の中をひたすら太陽の塔の最上部へと昇り詰めていくオトナ=コドモたち。そう、『わたしは真悟』だ。サトルとマリンは、こどもをつくるためにコンピュータがランダムに打ちだした「333ノテッペンカラトビウツレ」というメッセージを実現するために、本当に東京タワーのてっぺんまで上ってしまう。結局、地盤沈下でタワーが三三三メートルないことを知った彼らは、東京タワーのてっぺんにランドセルを置いて三三三メートルとし、その上に立って救助のヘリコプターに飛び移る――そしてその瞬間、奇跡が起こり、コンピュータに意識が生まれ、「真悟」は誕生する。

 さて、僕らは目玉男の篭城を再現することができなかった。だから、もしもそこに辿り着いていれば起こせたかもしれない「奇跡」に立ち会うこともなかった。しかし、いまとなってみれば、かえってそれでよかったのだと思う。というのも、たとえ僕らが太陽の塔の最果てに「出口」を発見したとしても、そこから「外」へと出ていくためには、地上数十メートルのその場所から飛び降りるしかない。そして、もしそうするのであれば、それこそ「奇跡」でも起こらないかぎり、地面に叩き付けられて死ぬだけだ。

 そのときふと気がついた。僕らをその内部に閉じ込めて攪乱する時空の歪み、内部と外部のトポロジカルな変換、太陽の空間と地下世界との通底構造……そのどれを取っても、太陽の塔は僕らがいま生きているこの社会にとてもよく似ている。書き割りであるがゆえにリアルなジオラマ・ワールド、都市のフレームをあらわにする辺境としての屋上、コンクリートの箱としてのハウス、際限なき変形を繰り返すエロティックな運動……僕らはそのいずれもここに見いだすことができる。しかもそれは、僕ら自身がすでに書き割りの一部である以上、永遠にそこから脱出不可能であるような場所なのだ。まるで岡崎京子の描いた世界のように。

 そして、こうしているいまも、この世界はまた新たな欲望を生み出し、社会の成員を組み替え、人々の肉体を分離し、電子的に再結合し、ついにはデジタル・データに還元していこうとしている。出口がないわけではない。しかしそれは、使うことが意味をなさない出口なのだ。それでもなお、僕らはこのかぎりなくポップな資本主義の欲望の流れの中を生き延びていく。すべてを均質化していく無限に平坦な戦場の中で。それは純粋な戦争だ。敵も、味方も、目的も、希望も、勝敗も欠いたまま、ひたすら生き延びていくための闘い。

 二十一世紀になったら、僕らはもっと、ナノテクやロボットや遺伝子と仲良くなれる。

 二十一世紀になったら、僕らはもっと、美しい生活を送ることができる。

 そして、二十一世紀になったら、僕らはきっと、もう「人間」じゃない。

 まるで、すべてのひとがひとりひとりの「りりこ」であるかのように。」

 椹木野衣 wiki
 岡崎京子 wiki


  「新日曜美術館」は、特集「この人が語る 私の愛する画家(1)藤原正彦・私と福田平八郎」。
「  200万部の大ベストセラー「国家の品格」の著者、藤原正彦は数学者で、お茶の水女子大学教授。
 父は作家の新田次郎、母は「流れる星は生きている」の著者藤原てい。
 自身も1977年アメリカ留学の体験をもとにしたエッセイ「若き数学者のアメリカ」で、日本エッセイストクラブ賞を受賞している。
 「数学者が求めるのは、美しい数式。それは、出来るだけ簡潔な表現で、出来るだけ広範囲な領域を完全に説明できるものでなければならない。私が絵画に求めるのも、この簡潔な表現とそれが全体を暗示する象徴性の力だ」
 藤原には、数学も絵画も、日本人には独特なセンスがあり、世界に誇るべきものだという。高木貞治や岡潔などの世界的数学者を生んだものと共通の感性が日本を代表する画家の中にも息づいているという。
 そんな藤原が最も愛する画家が、異色の日本画家・福田平八郎だ。
 画面全体に屋根の瓦だけが描かれている。よく見るとその瓦に、点々と雨のしずくが落ちている。画家は、それを真上から捉えている。平八郎の傑作「雨」だ。この絵の画面の切り取り方と視点に藤原は敬服する。対象を出来るだけ狭く限定し、一見単調な幾何学模様だけにしながら、瓦にしみこんでいく雨が独特のふくよかな詩情をかもし出す。
 これは、美しい数式のような絵だと、藤原は言う。
 日本人の持つ優れた感性を遺憾なく発揮した平八郎について、藤原が語る。」
NHKオンライン ホームページ http://www.nhk.or.jp/ より

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