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20070415 賢者の言葉・片岡義男・とおりすぎるはずだった小さな町

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『10セントの意識革命』 片岡義男 晶文社 1973 より、「とおりすぎるはずだった小さな町」全文。

「 それは、さほど大きな町ではなかった。正しく発音ができそうにないインディアン言葉で名がつけられている。にごった河が西にあり、その河の橋をこえてハイウェイがその町に入ってきて、町の中心部分となっているにぎやかなところを四ブロックから五ブロックにわたってそのハイウェイはまっすぐにぬけている。道路の幅は広く、歩道にむかってななめに車をとめるアングル・パーキングがおこなわれていて、信号は四つ、つづいている。そのとき私は、その四つの信号のうちの最後の信号でとめられていて走り出したばかりだった。右の車線にいて、時速で二〇マイルも出ていただろうか。アングル・パーキングしていた車のなかから、この町の地元の人の、よくいたんだパネル・トラックが、うしろをたしかめることもせずにいきなり、バックで道路へとび出してきたのだ。

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 私は、こんなふうな書き出しの小説が大好きだ。チャールズ・ウィリアムズの、一九五八年にペーパーバック(デル・ブックス)で本になった一種のサスペンス小説『町の噂』の書き出しが、こうなのだ。
 なぜこんなのが好きなのか、その理由は、比較的たやすく説明することができる。この『町の噂』の設定では、このさほど大きくはない町は、フロリダ州北部のどこか、ということになっている。フロリダ北部にかぎらず、たとえばアメリカを西から東へ横断したとするとその途中でとおりすぎる二二〇から二三〇の町のうち、およそ半分が、だいたいこのような感じの町なのだ。
 小さな町をまっすぐに突きぬけているハイウェイのスピード制限を守りながら走っていくと、いわゆるメイン・ストリートのようなところに出て、チャールズ・ウィリアムズが書いているように信号をいくつかとおりすぎるともう町はずれに出てしまっている。
 こんなふうに、ひとつの小さな町をただとおりすぎてしまうことを、パッシング・スルーと言う。この、パッシング・スルーの実感が、『町の噂』の冒頭の一節には、みごとにとらえられている。時速にして三五マイルから四〇マイルほどの速度でこの主人公は走っているのにちがいない。河をこえ、道幅の広くなった町の中心部に入り、車がアングル・パーキングしてあるのを両側に見ながら、信号を四つ、とおりすぎていく。その町をただとおりすぎるだけのときには、四つとも赤信号でとめられてしまうことが多い。
 車のウィンドシールドや両側のドアの窓ごしにながめることのできる、小さな匿名の町のたたずまいの、ごく重要ないくつかの数すくないポイントを、チャールズ・ウィリアムズは、はずさずにおさえている。河をこえてから、赤信号でとめられていた最後の信号のところまで、自動車で現実に小さな町を走りぬけるときのテンポやスピードのようなもの、あるいは、車の内部からながめる光景の変化などが、実際に自分でステアリングを握って走っているのと同じに感じられるほどの的確さで、書きとめられている。
 リアリズムといえばたしかにリアリズムなのだが、そのリアリズムは、走りすぎていく自動車のなかからとらえた、あるひとつの小さな町の描写にかかわるリアリズムではないという最重要な一点に、私の興味は確実にひっかけられている。
 現実にいくらでも体験できる、非常に日常的な匿名の小さな町の、その日常性そのものを、ある種の方向から的確に描写していくことにより、その小さな町の、ほんとうに見なれてしまった日常生活がほぼ描写されつくされると同時に、もうひとつ、完全にことなった次元の世界が、そこには描き出されてくる。
 どのような世界だろうか。日常性と完全に対立する非日常性ともいうべき世界であり、いつも圧倒的な日常性のなかにたたみこまれていてそれは見えはしないのだが、あるとき、いきなり、日常性そのもののなかからおどり出して来て、目のまえに立ちはだかる。
 北フロリダの、この小さな町の地元の人によってさんざんにつかいこまれてあちこちいたみの出たパネル・トラックが、アングル・パーキングしていた場所から、うしろをたしかめることもせず、とび出してくる。小さな町のリアルな描写のうえに、チャールズ・ウィリアムズは、うしろをたしかめずにとび出してくるパネル・トラックという、うんざりするほどの具体性を持ったもうひとつの日常をかさねあわせることのなかに、日常のかたまりのなかから非日常の閃光をひっぱり出すためのまず最初の手がかりを、チャールズ・ウィリアムズは、つくっている。
 アングル・パーキングしていた自動車が、うしろをたしかめずに走行車線へいきなりバックで出てくることは、都会地でもひんぱんにある。そして、田舎町では、ひんぱんであることをすでにこえてしまって、ひとつの日常茶飯事となっている。普通の自動車ではなく、さんざんにいたんだパネル・トラックがとび出して来た、とチャールズ・ウィリアムズは書いていて、これはたいへんに正しい。
 概論的な書きかたをするなら、パネル・トラックで町に出てくる人は、農業か土木建設業か、あるいはなにかのごく小規模な工場みたいなものをやっている人か、とにかくそのような日常生活を持った人であり、たとえばそれが農業であったなら、パネル・トラックの運転は十歳をこえたころから見よう見真似でおぼえてしまう。広い農場のなかで自己流でおぼえ、それがそのまま身についていく。バックで発進するときには、その都度、ていねいにうしろの安全をたしかめてから発進するというような都会的なマナーは、まず、おぼえない。自分のうしろをさまたげる人も物も、広い農場にはないのが常だから、なんの遠慮もなくいきなり発進してくる。すこしていねいな自動車のドライヴィング教本には、カントリー・ドライヴィング(田舎の人たちの運転のしかた)に気をつけましょう、という章がひとつもうけてあることが多く、アングル・パーキングからのうしろをたしかめない急発進や、カントリー・ロードでのいきなりのUターンなどに特に気をつけるよう、都会の人たちに注意をうながしている。
 なんの関係も持たず、ただとおりすぎるだけのはずであった北フロリダの小さな町を走りぬけようとしていた自分の自動車の前へ、パネル・トラックが一台、バックでとび出してくる。北フロリダの、自分にとってはただとおりすぎるだけにしかすぎなかった小さな日常の内部から、なにか大きな非日常があらわれてくるまず最初の徴候なのだ。

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 私の左側にはもう一台べつの車がならんで走っていたので、とび出してきたパネル・トラックにぶつかる寸前、ブレーキを踏みつけるのがそのときの私にできた精いっぱいだった。パネル・トラックに私の車がぶち当り、金属どうしの衝突する音がして、それにつづいてグリル・ワークやこなごなになったヘッドライトのガラスが道路に落ちる音がした。陽に照らしつけられた歩道の上手でも下手でも、人々がこちらに顔をむけていた。

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 『町の噂』の冒頭の第二節は、以上のような書かれている。第一節とおなじように、具体的な]状況や情景のつみかさねかたによって生まれてくる素晴らしいテンポは、日本語ではなかなか再現することはできない。
 冒頭の重要な第一節で、北フロリダの小さな町という日常、そして、その小さな町をただとおりすぎていくだけの自分ともうひとつの日常が描きつくされているから、第一節の後半からこの第二節のおわりまでのみじかい文章が、たいへんな効果をあげている事実に気づくべきだ。
 バックで走行車線にとび出してきたパネル・トラックに乗用車が追突するという小事件もまた、その北フロリダの小さな町にとってはかなり日常的であるはずなのだが、そこをとおりすぎるはずであった主人公「私」にとっては、すさまじい非日常のはじまりとなる。ヘッドライトのガラスがくだけて道路に降り注ぐように落ちていくその音が、なにかたいへんな異常事態の音として耳に聞こえてくるような錯覚を、この第二部を読んだ瞬間、おぼえる。強い陽ざしをその小さな町は浴びていて、その陽ざしのきらめきまでが、日常性のむこうがわにある非日常の兇暴な性格を反映しているようにさえ見えてくる。そして、Necks craned up and down the sunblasted street. という、おっそろしいまでに素っ気ないひときれの散文によって、日常的な小さな町の内部が生み出しうる非日常性は、じつはその町の住民たちが「私」という部外者に対して生み出すのだという、この『町の噂』のサスペンス物語の展開が、予告されている。パネル・トラックに追突した自分の自動車のほうに向けられている、その小さな町の人々の、強い陽に照らされた顔がここではじめて自分に向けられ、その瞬間、この小さな町ぜんたいと自分との対立関係がはじまっていく。そして、その対立関係は、パネル・トラックとの追突という偶然によって自分が掘りおこしてしまったその町の秘められた非日常を土台としている。
 ミステリーやサスペンス物語の解説者たちがよく言うところの、いわゆる「まきこまれ型」の典型的な発端のように見えるのだが、すくなくともこの『町の噂』に関するかぎり、主人公の「私」はこの小さな町にすこしも「まきこまれ」てはいず、事実はその逆である。なぜ、どのように逆であるかは、なぜぼくが『町の噂』のような物語に興味を持つかという問題と同義であるから、つづけて読んでいただければ、わかるはずだ。

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 ハンドブレーキを引いて、私は車の外に出た。そして、自分の車がどの程度いたんだかを見て、うんざりして首を振った。私のビュイックのフロント・バンパーの片端がはずれていて、右のフェンダーが砕かれたヘッドライトと共に、右のフロント・タイヤにおおいかぶさるようにひしゃげていた。そして、決定的にいけなかったのは、へし折られねじ曲がったグリルの内部から、ラジエーターの熱い湯が噴き出していることだった。
 パネル・トラックのドライヴァーが、猛烈ないきおいで、運転席からとび出してきた。身長は六フィートほど。やせていてダークな髪で、見るからに強情そうな男だった。骨ばった顔を私のほうに突き出してくるのだが、その顔からは安物の白ブドウ酒のにおいがした。「この馬鹿野郎め」と、その男は言った。「レース場でもないのにいったいなんだってまた――」
 私のなかでながいあいだつみかさなっていたため、夏場だけの臨時雇いの飲んだくれに大きな顔をされることなど、とんでもないことだった。左手でその男のシャツの胸ぐらをつかんだ私は、顔に平手打ちをくらわせようとしたのだが、子供じみて馬鹿げているので思いなおし、ただその男を突きはなすだけにとどめた。男はさらになにか言っていたが、同時に、うしろから私は誰かの大きな手で腕をつかまれた。私は、ふりかえった。冷徹そうで、自分に課せられた任に充分にたえられるような目をした、肥った男だった。カーキー色の警官の制服を着て、腰にはガン・ベルトを巻いていた。
 「よしなよ」と、その男は私に言った。「面倒なことをおこしたかったら、この俺が相手だ。その関係の仕事なんでな」
 「わかった、わかった」私は、こたえた。「たいしたことじゃない」
 警官は、その冷たくて鋭い目を私にむけたままだった。「子供みたいに喧嘩を売るにしちゃあ、年をくいすぎてるじゃないか」
 例によって、野次馬があつまりはじめていた。私に人気や魅力があっての野次馬ではないことは、すぐにわかった。追突したのは私のほうがいけなかったからだと早くもきめつけられてしまったようであったし、パネル・トラックのドライヴァーにつっかかっていったのも私のほうだ、ときめつけられてしまった雰囲気だった。私の車にはカリフォルニアのライセンス・プレートがついていて、他所者であることは一目瞭然だったから、そのことも私に対して不利に作用しているはずだった。
 警官は、パネル・トラックのドライヴァーにむきなおった。「あんた、だいじょうぶかね、フランキー」
 なるほど、地元どうしはあたたかいものだ、と私は苦々しく思った。ひょっとして、遠い姻戚関係があったりするのではないだろうか。
 フランキーは、いきさつを警官に語った。すべて、この私が悪いことにされていた。都会の観光客だかなんだか知らないが、町なかを時速六〇マイルなんかで走りやがって、などとフランキーは語っていた。彼が語り終ってから、私もすこし語らせてもらったが、ほとんど効果はなかった。あつまってきている野次馬たちのなかに、公正な目撃者になってくれる人はいないかと私はさがしてみたのだが、追突の前後を目撃した人は、いないようだった。あるいは、目撃者として名乗り出てくれる人は、いなかった。
 「よし、おまえ」と、肥った警官は荒涼たるまなざしを私にむけた。「ドライヴァーズ・ライセンスを見せろ」

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 こんなふうな快適なテンポで、『町の噂』の書き出しの部分は、進展していく。ごく日常的な出来事をその日常性のままに描写していくテンポでは絶対になく、小さな田舎町の日常の一角が、あるひとつの偶然事をきっかけに、大きな非日常へと急速にその様相を一変させていくプロセスのテンポとしてとらえないと、『町の噂』が持っている面白さをその基本的なところでとらえそこなってしまうし、とおりすぎるだけのはずであった小さな見知らぬ町で、有無を言わせず引きよせられていってしまうおそろしさも、わからないことになる。
 自分の車の内部から、明らかに多少の軽蔑の気持ちをこめてぼんやりながめていた小さな町の、いつはじまったともまたいつ終るとも知れない、あいまいなぜんたいとしての日常を、もうすこしでやりすごすところだったのに、やりすごせなくなったとたん、あいまいな日常のぜんたいが、こまかく具体的にくっきりときわだってきて、自分のまえに立ちはだかる。自分の自動車のライセンス・プレートまでが、その小さな町と明らかな敵対関係に入るのだ。
 そして、自分とその小さな町とのいきなり持ちはじめた敵対関係の決定的なとどめを、チャールズ・ウィリアムズは、次のように持ち出している。

   *

 この小さな町を再び車で走りぬけるようなことがあったら、その時には自動車だけさきに回送して自分は歩いてとおりぬけたほうがよさそうだ、などと考えながら、私は、自分の財布のなかから、ドライヴァーズ・ライセンスを取り出しかけていた。そして、そのとき、ダークな髪の背の高い若い女性がひとり、歩道から車道におりて、私たちのほうにちかづいてきた。
 「私が目撃者になりますわ」と、彼女は、警官に言った。追突の一部始終を彼女はその警官に喋って聞かせた。
 はっきりこうと断定できるわけではないのだけれども、彼女に対するその警官の反応が、私にはなんとなくすこしおかしく感じられた。警官は明らかに彼女が誰であるか知っているのだが、あいさつらしき言葉はひとつも出なかった。彼女が喋るのを聞かせながら、警官はただうなずいていた。そのうなずきようは素っ気なく、不承ぶしょうのような感じがあり、敵愾心にも似たものが、うっすらと漂っていた。パネル・トラックの後部パネルにあてた一枚の小さなカードになにかを書きつけ、私に手渡してくれた。
 「保険の関係で私の証言が必要でしたら、私の連絡さきは、ここですので」と、彼女は言った。
 「たいへんありがたい」私は、そうこたえた。そして、そのカードを、財布のなかにおさめた。「ほんとうにご親切に」
 彼女は、歩道にもどっていった。野次馬のなかの何人かが、彼女を見守っていた。肥った警官が彼女に対して見せたのと同じような反応が、その人たちから感じられた。彼女に対する敵意とまではいかないのだが、敵意と呼んでも遠いまちがいではなかった。誰もが彼女を知っている様子なのだが、彼女に声をかける人はひとりもいなかった。それでいてなお、彼女は、毅然たる態度をくずさずにいた。

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 このひとりの若い女性の登場によって、物語はいっきに核心からはじまっていく。そして、そのはじまりかたにとって、以上のみじかい引用訳のなかで完全に描ききれている彼女の基本的な役割りは、とても重要だ。
 北フロリダのどこかの、交通信号が四つしかない小さな町のぜんたいをおおいつくしている日常性のなかで、彼女だけは、明確にその質を異にした分子である事実が、削りは荒いけれども充分に用を足しきっている文章で、明らかにされている。
 パネル・トラックのドライヴァーや肥った警官、さらには敵意ある視線を持った無言の野次馬などによって、ごくあいまいなかたちで、しかしなにかことがあればそのとたんにおたがいが緊密に手を組みあってひとつになりうる可能性を秘めたうえで構成されているその小さな町を、その町の住民たち全員の合意で均一におしなべられたひとつの日常としてとらえるなら、彼女は、その日常と真正面から対立する非日常性以外のなにものでもない。
 いかに小さくとも、自治体ないしはそれに類した組織、そしてその組織のなかで自治体に身をゆだねている住民たちによって、ある種の徹底さをともないつつかたちづくられてできあがった町というものは、部外者にとっては充分に不気味である。その不気味さは、アメリカの小さな町の場合、東部や北部は知らないからわからないのだが、西部、南部、中西部あたりでは、多分に暴力的だ。
 その町が持っている日常性は、その町にとって都合のよい、容易に許容することのできる日常のみによって構成されている。都合のわるい日常は、あるまじきものとして有無を言わせず排除され押しつぶされる。
 たとえば、町なかでの小さな追突事故など、本来ならば、つまり、その町の住民どうしならば、よくある日常的なこととして、発生とほど同時に、しかるべき手順を踏んだうえで、解消させられてしまう。だが、カリフォルニアのプレートをつけた明らかに他所者の追突してきたときには、非がその他所者にはなくても、悪いのはぜったいにその他所者であり、他所者の追突をもその町の日常として許容するわけにはいかなくなってくる。
 その小さな町は、ほかのどの町もそうであるように、あるときは目に見えるものの手によって、そしてまたあるときには見えざるものの手によって、こまかくしかも厳重に管理されている。管理されつくすことから生まれてくる平和で受動的な日常が、自分たちの町のありうべき唯一の姿だと信じている人たちには、その信じる心の律義な厚さに応じて、自分がじつはがんじがらめに管理されている事実が遠ざかり、見えなくなる。
 このような、管理のいきとどいたひとつの町への挑戦の記録として、私は『町の噂』を読んだ。八年ほどまえに読んだときには、こんなふうなことはすくなくとも意識のうえでは考えなかった。追突したビュイックに乗っていた「私」と、その追突の目撃者になってくれた「彼女」が全篇をとおしてたいへんに官能的であるのにくらべて、「彼女」および「私」をあくまでも異分子として扱いつづける「北フロリダの小さな町」ぜんたいが、思考から行動までひどく均一でのっぺらぼうであるばかりでなく、人間にふさわしい個々それぞれにことなった息吹きや手ざわりにまったく欠けたものであることに、同時代的な共感をおぼえたのだひどく新鮮だっただけだ。『町の噂』の、いわゆる「物語のスジ」を抽象的に要約するなら、管理されたひとつの小さな町のなかでの、さらなる管理をはかる側と管理されまいとする側とのたたかいの記録である。「彼女」はその小さな町のはずれでモーテルを経営していて、夫はなにものかによって殺され、その殺人は「彼女」のしわざではないのかと、町の人たちからは思いこまれている。さらに、「彼女」の情夫だったと言われていた男は、公務執行妨害のかどで、その町を管理する側の有力な手さきである警官によって射殺されている。
 いたたまれない情況のなかに、彼女はあえて踏みとどまり、異分子としての扱いに耐えている。その「彼女」に追突事故の目撃者となってもらった「私」は、追突によって穴のあいたラジエーターがなおるまで、「彼女」のモーテルに宿泊し、「彼女」がなでその町から異分子扱いされるのか、そのほんとうの理由を、自分の全存在をその町とのたたかいに賭しつつ、明かしていくことになる。
 読んでいくときには、私の場合は「私」に自分を同一化したから、ただとおりすぎるだけのはずだった小さな町のすべての日常が、「私」の追突を契機にして、町ぜんたいのたたずまいはそのままに、相手にまわして充分にその甲斐がある奇怪な非日常へと変質をとげていく。この変質は、八年まえには無意識にひかれた対象であったが、いまでは、意識された興味の対象だ。
 町とのたたかいが「私」および「彼女」の側の、すくなくとも本質的な勝利に終ることは当然だ。勝利に終ったとたん、非日常的なものへ変貌していた町がもとの日常的な町へもどっていきはするのだが、それと同時に、「私」と「彼女」との関係の次元が最後の一ページのどたん場で一変する。「私」が「彼女」に対しておぼえている恋愛的な感情の、結婚ないしはそれにちかいかたちでの帰結を「私」は「彼女」に期待するのだが、「私」には想像もつかなかった理由によって、「彼女」はその期待を完全にはずす。
 「私」にとっては、したがってその小さな町は、「彼女」をも含めて非日常的なものとして空中にほうりあげられたまま、あっさりとなんの未練もなく、『町の噂』は終っている。」
 片岡義男 wiki


  「新日曜美術館」は、特集「この人が語る 私の愛する画家(2)」。
「 服飾デザイナーの芦田淳は、一貫してエレガントな洋服を追求してきた。その芦田が若いころから、魂を揺さぶられ続けてきたというのが、パブロ・ピカソの絵だ。「彼の絵は、まさに西欧世界が生み出した天才の産物として、僕はいつも圧倒される」洋服のデザイナーは、西洋が生み出した美学を徹底的に身に着けていなければならない。そんな信念を持つ芦田は、若いころから衣食住あらゆる場面で西洋式のライフスタイルを貫いてきた。そして、この美学をわが物とするにつれ、ピカソの偉大さが分かってきたという。
 「どんなにピカソが絵の中で暴れまわっても、決して崩れないがっちりとしたものが、その絵を背後から支えている。子供が描いたようだとか、めちゃくちゃに筆を振り回しただけのように一見みえながら、絵として見る人を引き込まざるを得ない力を持っているのは、ピカソが誰よりも西洋の美学を体現した人だからだ」
 さまざまに画風を変え、一枚の絵が出来上がった後もためらうことなく、描き直していくピカソの姿勢に、芦田はいつも勇気付けられるという。半世紀にわたってピカソを愛してきたデザイナーが、その思いを吐露する。」
NHKオンライン ホームページ http://www.nhk.or.jp/ より

 やっと、「新日曜美術館」のホームページができたようです。http://www.nhk.or.jp/nichibi/
 もう、こちらで書き留めておく必要もないですね・・・。

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