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20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

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「島めぐり(19) 利尻島見聞」 宮本常一 (全国離島振興協議会 刊 「しま」第41号(第10巻第3号 昭和三十九年十二月二十五日発行)) より。

「 一

 北海道東利尻町の小松町長はその少年時代を青森県三本木の渋沢農場で過ごされ、私の世話になっている渋沢家とは因縁浅からざる人であり、そういうことがわかってから急に親しくおつきあいするようになった。そしてぜひ一度北海道の島を見に来るようにとすすめられてきたが、私にはなかなかその間がない。小松さんは大へんな愛書家であり、また読書家で、東京へ出て来ると神田の古本屋をあるいてめずらしい書物をさがし、また親しくしている人の著書をさがす。私の著書なども実によくあつめていられるが、その私の書物の中に北海道の島について書いたものがほとんどないのを見て、とにかく北海道の島も歩いて批判もしてほしいという。そこで本夏(昭和三十九年)は青森県下下北半島の九学会連合の総合調査もあり、それにかけて北海道へわたることにした。

 北海道へは昭和二十年の秋にいった。当時私は大阪府につとめていた。大阪市はその年空襲のためにすっかり焼野原になってしまい、戦災者の処置に困って北海道への移住をすすめた。それに応募した者が、一万人近くもあったであろうか。それを幾組かにわけてわれわれが引率していくことになった。私はその第三回目であったと思うが、千人あまりの人をつれて北海道へわたった。私のつれていった仲間は天塩・幌延地方へ入植する人たちであった。秋十月の半ばで野は稲が黄にうれ、山は黄葉の美しいときであったが、敗戦にうちしおれて皆元気がなかった。その人たちをはげまし勇気づけながら、幌延までたどりついて見ると、地元の人は実に冷たかった。そこへ入植者を捨てるようにして立ち去った。第一回・第二回に入植した人たちはどうしているだろうと、そのことが気になって、北見地方にすでに入植している第一回・第二回隊の様子を見るために、一ヵ月あまりもう雪の降りはじめた原野をあるきまわった。最後に石狩平野の新十津川村をおとずれたときは雪が一尺近くも積もっていた。

 また近いうちにやって来ますからと約束しつつ、つい再訪の機会を失なって二十年近い歳月が流れた。あの人たちはどうしているだろうと思いつつ、いまは音信もたえたままになっている。二十年の間に北海道の天地がどんなにかわったかも、せめて汽車の窓から見たいと思った。

 七月三十一日青森の野辺地をたって海を渡った。近頃は仕事に追われて、下北へたつときは記憶喪失症ではないかと思うほど物忘れが強くなっていた。それが下北で比較的のんびり調査している間にすこし元気を回復した。とにかく北海道は何とか歩いてこられそうだが、できるだけ無理をしないことにし、汽車も坐ってゆけるようなスケジュールを組んで、利尻島の鴛泊についたのは八月三日の昼前であった。小松町長の要請もあって、東京から来た神保さんもいっしょに島を廻るのであるが、これまた過労で元気がない。その上北海道は暗うつな天気がつづいていた。真夏だというのにジャケツの必要なほど寒い。

 だが日本の北端というのにそこには私の想像したよりもずっと活気のある町があった。そして鴛泊の港に上陸する人びともほとんどリュックを背負っているのが印象的であった。若い仲間で、いわゆる観光客ではない。持金がないから稚内から引きかえそうと思ったが、無理して来た。島へは泊らないで日帰りするのだと話している女学生もいた。若い人たちは上陸するとすぐ四方へ散っていった。私たちは小松町長に迎えられて町役場へいった。町は海から低い海蝕崖をのぼった上にある。明るい近代的な硝子で張りめぐらされた建物である。夏はよいが冬は寒いという。こうした所にまでこういう建物が建てられるようになった。中央の文化の波が時をおかず押しよせて来るのである。

 まず何よりも島を一通り見たいと思った。理想としてはテクテクあるいて見ることだが、能率をあげるために自動車をつかってできるだけ多くのものを見ることにした。

 利尻島はすでに本誌に何回か紹介されているので数字はできるだけはぶくことにするが、中央に利尻岳という火山がそびえ、周囲に」ゆるやかにのびる裾野を持つ楕円形の島で、海岸にそうて一周する道路が通じている。そして民家は北の鴛泊、南の鬼脇、西南の仙法志、西の沓形にやや密集して市街地を形成し、その余は海岸にそうてばらばらに散在している。

 私たちは鴛泊を中心にして、島を東からまず一周してみることにした。地図をひろげて見て気のつくことは先住民ののこしたと思われる地名のすくないことである。本泊・鴛泊・湾内・野塚・鰊泊・旭浜・石崎・二つ石・清川・鬼脇・金崎・沼浦・南浜(以上東利尻町)・野中・御岬・政泊・神磯・長浜・久連・蘭泊・沓形・種宮町・新湊・栄浜(以上利尻町)はいずれも内地人が居住してからつけられた地名と思われる。先住民ののこした地名と思われるものは人の住んでいない所に多く、人の居住するところにあるものは雄忠志内(東利尻町)・仙法志・神居(以上利尻町)などごくわずかにすぎない。

 内地人がこの島に住みつきはじめた頃には北端の富士岬付近には少数のアイヌ人が住んでいたようであったが、他はほとんで無人の世界で、明治の中頃までは山林が海岸まで覆うていたという。そういうところへ内地人が来て思いのままに住みついたのである。内地風な地名の多いのは継承すべきそれ以前からの地名のなかったことに起因すると思う。

 そしてこの島はまず海岸がひらけていったのである。このことはいったい農作物もろくにできないような島になぜ人が住みついたかということについて考えて見るとわかる。農業をするためにここに来たのではない。農以外の生業で生活がたつ見込みがあったからここに来て住みついたのであって、この島の場合はニシンが多量にとれたため、それを目あてにやって来たのである。だから島民は長い間山に背を向け、海の方ばかりを見て生活して来た。

 ある時期に製紙会社が来て海岸に近い裾野地帯のエゾマツやトドマツをパルプ材として伐った。そのあとにはもう木が生えなくて、東海岸はイタドリ、西海岸はカヤ類が密生して来た。そして立木は海抜二百メートル線から上にのこった。そこは国有地になっている。この材木を伐っていった人たちは島の住民たちにはほとんど無関係に等しかった。そして島民にとっては村の背後に木が立っていようがいまいが大して変わりはなかったのである。ただ海の方を向いていさえすれば生活がたてられたのである。」
 宮本常一 wiki

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