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20070429 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その2

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「島めぐり(19) 利尻島見聞」 宮本常一 (全国離島振興協議会 刊 「しま」第41号(第10巻第3号 昭和三十九年十二月二十五日発行)) より。その二。

「 二

 作物が十分作れず、そのうえ長い冬がある。そういう所へ人が住みついたのは内地のどの海岸よりも多く魚がとれたからで、それ以外にこの島に人を住まわせた条件はない。魚のとれない寒い冬をわざわざこの島ですごすこともないから、初めのうちは漁期だけ人が来て冬は帰っていったようである。それが番屋の制度を生んだ。大きな資本を持ったものが、漁場の近くに大きな納屋を造り、漁期になるとヤン衆(漁業労働者)をつれてやって来、そこに住まわせ、番屋の近くの海にニシン建網を張ってニシンをとる。そして漁期をすぎるとヤン衆は内地にかえり、また番屋の親方たちも島を去っていく。親方たちは北海道西南部の海岸に本拠をおいている者が多かった。

 ただ江戸時代にアイヌ人と交易した運上屋や、ニシン粕やニシン油を上方の商人に売り、また島民の必要物資を買い入れる問屋たちは事業の都合で島で越年する者もあった。越年する人たちはそういうところに集まり住んだ。鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形などに市街地らしいものができて来たのは、そこに問屋が居住したからであった。

 だがニシンの漁場は島沿岸全体にわたっており、番屋も島の周囲に散在していた。そして親方たちは建網でニシンをとっていたのであるが、それだけではニシンはとりきれぬほど押し寄せた。そういうことを伝え聞いた東北・日本海沿岸の小漁師たちはわずかの縁故をたよりにこの島にわたって、番屋と番屋の間の空間の地に小屋を建て、小さい磯船一艘を持ち、刺網をつかってニシンをとることにした。まったくささやかな暮らしであるが、運が向けば建網を買い入れ番屋を作って親分衆になれる機会もある。

 この仲間は冬になっても郷里へ帰れなかった。往復に多くの日数を要し、また費用もかかる。船便さえも親方たちのように容易には得られない。そこでやむなく越年する者が多くなった。親方たちからは小前の者となかば軽蔑されていたが、この島の土になる運命を背負っているだけに、島で一年間を生きぬく工夫をしなければならなかった。と同時に彼らはまた彼らで誇りをもっていた。小さいながらも独立した経営者で誰に使われるものでもない。しかし番屋のヤン衆たちは親方にムシケラ同様に使われる。ヤン衆たちは青森・秋田の海岸地方の農民が多かった。それがニシン季節になると船頭につれられて番屋へやって来る。ヤン衆たちのふるさとの家も貧しい。自分の家の働きだけでは生活がたたないから北のはてまで出稼ぎに来るのである。それが番屋で男ばかりの、うすよごれた生活をつづける。小前の者の生活は、それにくらべればはるかに幸福であった。家もあれば妻もある。子供もいる。北のはてまで夫についてやって来るような女には根性があった。どこまでも夫によりそい、男を助けようとする心意気があった。

 建網にはニシンしか入らなかったが、小前の者の刺網にはニシンの時期がすぎるとホッケがかかった。それにイカ・タコがとれる。夏になればコンブがとれる。秋から冬にかけてはタラが来る。漁具と漁法をかえれば一年間稼ぐほどの仕事はあった。そこでこの仲間はしっかりと利尻の島に根をおろして来たのである。そしてその生活も徐々に向上して来た。それはその住家を見ればわかる。

 いっぽうニシン漁には豊凶がはなはだしく、それがまた不漁になっていって昭和三十年頃を境にして企業的な経営を成り立たせなくしてしまった。そしてニシン建網業者は完全に敗退してしまうのである。この親方たちは北海道本土・本州などに本拠を持っている者がほとんどであるから不漁とともに内地に引きあげ、ヤン衆たちも季節労働者であるからニシンが来なければ来なくなる。こうして島ははじめて島居住者たちのものになって来たのである。この島の海岸に点々として同じような大きさの家が、散在して連なるともなく連なっているのは、かつて小前の者とよばれた独立漁民の家なのである。そしてどこが部落の境であるかもわからない。

 同行の役場の方がかつて野中という利尻町との境の部落へ税金をとりにいって、一軒一軒あるいているうちに、どうも相手のうけ答えの様子がおかしいので、よく聞きただして見ると、そこは東利尻町ではなくて利尻町であったという。利尻島とはそういうところである。そして鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形をのぞいては資本家らしい資本家もおらず、一見ほぼ相似た経営をいとなむ、所得格差のきわめて少ない平和な島だとも言えるのである。

 私はこの集落景観と、このような集落景観の生まれて来る過程について深く考えさせられた。考えて見るとこの島にはこのような景観が生まれて来るまで、島に自治行政というものはなかった。ニシン親方たちはこの島の本当の住民ではなかったし、その人たちは島民全体の幸福などというようなものを考える余裕すらなかった。彼らはただもうかりさえすればよかったのである。しかしそういう人たちが住んでいるから島としての地方行政事務があったのだし、島の行政事務もそうした親方たちを対象にしてなされていて、そこには自治体らしい気配は少なかったと言っていい。

 だから島を見ないで島に関する報告だけ読んでいるととんだ錯覚をおこすのである。「さい果ての島にいまはニシンがとれなくなって、火のきえたようにさびれている。」そういう印象がつよい。しかし島に来て見ると没落したのは少数のニシン建網漁者であり、大半の島民は逆にその生産に生活にこれまで以上の工夫がなされ、この島を自分たちの安心して住める島にしようとの努力がうかがわれる。

 言いかえると、いろいろの夾雑物がなくなって島民たちを主体とした島になり、島民が島全体のことを考えるようになり、やっと島が自治体として発足しはじめたのである。それはニシンのとれなくなった昭和三十年頃からのことである町村合併もそうした転機の中でおこなわれた。

 しかし、自治体の一員としての意識はまだ低く、自治体としての力は弱い。そのことは利尻町も東利尻町も町長が輸入町長であることによって推定せられる。自治体の自治力の弱い所では輸入町長を迎えることが多い。利尻町の小田桐町長は北海道庁に勤務し、東利尻町の小松町長は稚内市役所の助役をしていた。

 由来北海道の開拓村は開拓集団の仲間意識は強いけれども、集団と集団との連合意識は弱く、むしろ対立意識がつよい。そうしたものの中からは自治精神は生まれない。自分たちの仲間をこえて、他の仲間と手をとり、共通の幸福を見出そうとするところに自治の精神は生まれ、かつ発達する。この対立を解消し連帯・連合の体制をつくるために指導者を他から迎えることは多く、北海道にあってはそうして真の自治体をつくりあげていった町村が少なくない。利尻島はいまその段階にある。幸いにして利尻島は実によい指導者を町長に迎えている。ある意味では利尻島自治の歴史はやっと始まったばかりであると言っていい。

 私が島に来て第一に見たのはそうしたものであった。鴛泊を出て、姫沼を見、水力発電所・鬼脇公民館・鬼脇港・漁協・保育所・沼浦ミンク飼育場・南浜漁港・沓形港などを見学して鴛泊の宿へかえったのは夕方であった。天気は鬼脇についた頃から回復し、沼浦では紺碧の空にくっきりとそそり立つ利尻岳を仰ぐことができた。(つづく)」
 宮本常一 wiki


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宮本常一 生誕100年 福岡フォーラム

5月27日(日) 13:00~17:00
アクロス福岡 円形ホール

フォーラム概要
主催者あいさつ[ 代表世話人 長岡秀世 ]13:00~13:10
ドキュメンタリー鑑賞[ "学問と情熱"シリーズから ]13:13~14:00
基調講演[ "家郷の訓"と私 原ひろ子 氏 城西国際大学客員教授 お茶の水女子大学名誉教授 ]14:05~15:20
パネルディスカッション[ コーディネーター 長岡秀世 ]15:35~16:45

パネリスト
武野要子 氏 (福岡大学名誉教授)
鈴木勇次 氏 (長崎ウエスレヤン大学教授)
新山玄雄 氏(NPO周防大島郷土大学理事山口県周防大島町議会議長)
佐田尾信作 氏 (中国新聞記者)
藤井吉朗 氏 「畑と食卓を結ぶネットワーク」
照井善明 氏 (NPO日本民家再生リサイクル協会理事一級建築士)

作品展示
宮本純子[ 宮本常一名言至言書画作品 ]
瀬崎正人[ 離島里山虹彩クレヨン画作品 ]
鈴木幸雄[ 茅葺き民家油彩作品 ]

投稿: 宮本常一を語る会 | 2007.05.26 03:51

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