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20070506 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その3

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「島めぐり(19) 利尻島見聞」 宮本常一 (全国離島振興協議会 刊 「しま」第41号(第10巻第3号 昭和三十九年十二月二十五日発行)) より。その三。

「 三

 四日には本泊漁村を見、沓形へいって小田桐町長をたずね、さらにこの島の漁業開拓者の一人である荒木健三氏をたずねて島の漁業の変遷についてきた。荒木氏はもとニシン親方であった。そのニシン親方の生きのびている利尻島ではめずらしい一人である。氏はたえず前向きになって歩いた。ニシン場経営にも、独自の才能をふるい、ニシンがだめだと気がついてくると、居を雄忠志内から沓形に移し、釣漁に転じて近海漁業に新らしい活躍の世界を見出した。沓形は今そうした釣魚の基地として活気を見せはじめている。沓形の町は今年五月に大火があって町の中央部の大半が焼けたが、その復興のさまは目ざましく、近代的な建築が立ちならびはじめていた。おそらく火災前とは見違えるような町が生まれるのではないかと思う。ただしこれは商家の場合で、漁家で罹災したものは復興が容易でないだろう。

 沓形からかえって役場で漁業改良普及員の佐賀正美さんから島の漁業の現状についてきいた。佐賀さんはまだ若い。樺太生まれで、終戦をエストルで迎え、内地へかえって来てつぶさに苦労をなめた。引きあげて来たとき小学校の六年生であったという。妹さんと二人で九州にある遠い親戚をたずねていった。しかしそこにもいづらくて、また北海道へ引きかえし、妹とも別々になり、小樽で知人のたすけで中学を出、さらによい先生にめぐりあって高校を出る。そして水産講習所に学んでやっと一人前になり、東利尻町へ赴任して来たのである。ここへ来たのはここから樺太が見えるからでもあったという。清純な若者で、こうした人たちによって、北の海はほんとうにひらかれていくのであろう。利尻島と北の礼文島との間は近い。しかもこの間はオホーツク海から日本海に入ってくる魚の魚道になっている。ここに網をはっておいて、共同経営によって魚をとれば、能率も上り漁民の生活も安定すると佐賀さんは言う。大きい夢であり、たのしい夢であり、現実性のある夢である。われわれも真剣に考えていい問題であり、具体化して見たいものだと思う。

 五日は鬼脇の古老に鬼脇の変遷について話をきくために出かけることにした。神保さんはその途中にある石崎で婦人会の人たちが温室で野菜の栽培をしているのを見学し、またそこの婦人たちから話を聞くことにした。風の強い日であった。海が真白に波立っている。そうした日にも稚内からの連絡船はやって来る。野塚の鼻からはるかな海の彼方を見ていると、真白なしぶきが、大きくもりあがっては消える一ところがある。暗礁があるのかと思っていたら、連絡船が来つつあるのだとのことであった。たくましい船乗たちである。

 さて鬼脇へいって公民館の二階へ松尾重吉氏に来ていただいて話をきく。もと鬼脇村長だった人。開拓者の一人で鳥取から来られた。温厚そのもので一見きわめて平凡に見える人だが、それでいて長い風雪にたえ、しかもその姿勢をくずさなかった人である。開拓者の中にはこうしたタイプの人が少なくない。どのような苦難にもたえていく力を持っている。そして自己主張をすることも少ない。しかし周囲の者からは頼りにせられ、その中心になって相談にのりながら仲間を率いていく。物に執着は持たないだ、仲間の生活は大切にする。そういうタイプの人である。郷里の鳥取県酒津を両親につれられて五才のとき出てきて七十年になる。その間一度も帰郷したことがないし、帰って見ようとも思わぬという。松尾さんにとっては住みついた所がふるさとであり、そこを大切にしなければならないと信じている。この島に住んでいる人たちにはそうした考え方を持った人が少なくないであろう。だからこそ住みついたのである。そして住みついた世界をよりよくしていくことのみが、この人たちの持つ問題を解決していくことになる。

 五時すぎまで話をきいて、石崎まで帰って来ると神保さんも話をきき終えたところであった。そして温室を見せてもらってキウリをいただいた。見事なものである。温室栽培をおこなえば利尻でも生鮮な野菜を十分補うことができる。それはこの島の将来の農業に一つの光明を与えるものでもある。
 
 その夜私は町の有志の人たちと町の寺の庫裡で話しあいをした。話しあいをしながらいろいろの夢がわいて来るのをおぼえた。島の主峰利尻岳の裾野、海抜三百メートル以下はゆるやかな傾斜で牧野としても十分利用できる条件を持っている。しかもその面積が島全体の面積の三分の二を占めているのである。かならずやこの原野の開発に島民も真剣にとりくむ日が来るであろうと思われる。

 さらにまた島は道路その他の土木事業がきわめて盛んであり、それが自治体体制を次第にととのえていくであろうと思われるが、同時に道路の整備や漁港の整備が漁業の近代化をすすめていくのではないかと思う。今日まで島の沿岸に散在する漁家は家のまえの海に澗とよぶ船つなぎ場をつくり、また船をひきあげるようにしている。そのことが漁船を大きくせず、近海はすばらしい漁場でありながら、そこへ出ていくだけの能力を持つ漁船は少なかった。しかし鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形などの漁港が整備せられると、そこを中心にして漁船が大形化し、散在漁家もそこを基地にして漁業の近代化がおこるのではないかと思う。そのために散在漁家から漁港までの道がよくなければならぬ。裾野の開拓も同様である。

 ただ問題は最近出稼者が非常にふえたことで、東利尻町だけでも千人に達するという。しかしこの人びとの持ち帰る金は三千七百万円ぐらいだといわれている。出稼ぎはそれほどもうかるものではない。どうしても島内の生産をあげる工夫をするよりほかに根本的な解決策はないと思われる。収入さえ上れば人はそこにとどまるものである。礼文島は利尻島に比して一戸当りの収入が二倍近くにのぼっている。そして礼文には青年も少年もたくさん残っている。私の眼にはさいはてという感じはしなかった。利尻島にも内地の島々に見られるような老化現象はそれほど強くあらわれていない。

 とにかく私の眼にはこの島はいろいろのことが今はじまったばかりであるという感じがする。そして新らしい方向を見出すために、各部落ごとに公民館をもうけ、できるだけ住民の話しあいの機会を作ることが何より大切ではないかと思った。鬼脇公民館はすばらしい建物だが、こういう設備を十分使いこなしてもらいたいものである。」
 宮本常一 wiki


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宮本常一 生誕100年 福岡フォーラム
宮本常一を語る会主催
5月27日(日) 13:00~17:00
アクロス福岡 円形ホール

フォーラム概要
主催者あいさつ[ 代表世話人 長岡秀世 ]13:00~13:10
ドキュメンタリー鑑賞[ "学問と情熱"シリーズから ]13:13~14:00
基調講演[ "家郷の訓"と私 原ひろ子 氏 城西国際大学客員教授 お茶の水女子大学名誉教授 ]14:05~15:20
パネルディスカッション[ コーディネーター 長岡秀世 ]15:35~16:45

パネリスト
武野要子 氏 (福岡大学名誉教授)
鈴木勇次 氏 (長崎ウエスレヤン大学教授)
新山玄雄 氏(NPO周防大島郷土大学理事 山口県周防大島町議会議長)
佐田尾信作 氏 (中国新聞記者)
藤井吉朗 氏 「畑と食卓を結ぶネットワーク」
照井善明 氏 (NPO日本民家再生リサイクル協会理事一級建築士)

作品展示
宮本純子[ 宮本常一名言至言書画作品 ]
瀬崎正人[ 離島里山虹彩クレヨン画作品 ]
鈴木幸雄[ 茅葺き民家油彩作品 ]

投稿: 宮本常一を語る会 | 2007.05.26 07:19

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