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20070520 賢者の言葉・加賀野井秀一・それでも日本語は進化する

『あたらしい教科書〈3〉ことば』 * 監修 加賀野井秀一・酒井邦嘉・竹内敏晴・橋爪大三郎 (プチグラパブリッシング 2006)より。
 加賀野井秀一「言葉から何を学ぶか」所有「それでも日本語は進化する」

   * [あたらしい教科書〈3〉ことば]



コノテーションに長けた日本語
 言語学には「デノテーション」と「コノテーション」という用語があります。
 デノテーションとは言葉本来の意味で、「今日は暑いね」と言えば、文字通り暑いということを表明していることになります。これに対し、コノテーションとは言葉の背後にある意味のことで、同じ「今日は暑いね」という言葉が「窓を開けて」を含意したり、「ノドがかわいた」が「飲み物を持っていきてほしい」という意味であったりするわけです。
 もともと日本語は、コノテーションに長けた言葉でした。だから言葉と言葉が連想でつながり合っています。「花の露」と言えば、それだけで「はかない」ということがすぐに連想される。たとえば病院の待合室でテレビを見ているときに、別の人が間に立って見えなくなったら、「見ているんですけど・・・・・・」と言いますね。これもコノテーションで、言外に「どいてもらえませんか」という意味を忍ばせています。
 昔から日本人は、コノテーションを多用することで「以心伝心」を中心にコミュニケーションをしてきました。以心伝心によるコミュニケーションというのは、実に高度ですばらしいものですよね。お互いがお互いのことを思いやり、瞬時に察知し、高度なレベルで理解し合っていたわけでしょう。だからたったひと言で、相手にはピーンときていた。私たちが俳句を理解したり、和歌の一節を聞いたら、お互いにパッパッと元になる本歌が思い浮かぶのも、コノテーションが発達した日本語ならではのものです。だからツーカーの仲とか、一を聞いて十を知るとか、そういうことができる社会だったんです。
 ところが、今となってはそんなことはもうできない。お互いが言葉を使って説明し合わなければわからないぐらい、カルチュラル・パターン、つまり文化の形ですね、それが個々人でまったく違ってしまっている。タコツボといっても分衆といってもいいけれど、とにかく共通の基盤や教養が成立しない時代になってしまいました。だから現在の日本では、実は、もう以心伝心なんかできていない。本来ならば、言葉で表現しなくてはいけない社会になっているにもかかわらず、以心伝心の文化の幻影が残っていて、まだ通じているという思い込みの中にいるわけなんです。

以心伝心の機能不全
 以心伝心の文化だからダメなのではなく、本来の日本の以心伝心文化が健在であって、今でもそれができるのであれば、それは見事なコミュニケーションだと思います。ところが、実際にはそうした文化は失われてしまっているわけですから、そんなところで、以心伝心ができているぞという前提で誰もが手前勝手なことを言って、理解してくれるのが当たり前だと考えていると、大変です。表現力を磨くチャンスはなく、言語能力がどんどん落ちていくのは目に見えています。一方にものを言わないでお互いがわかり合っている非常に高度な俳句の精神があるとすれば、もう一方では言葉をほとんど使わず何も伝わっていない、言うならば一語文みたいなものが溢れている。「マジかよ?」「マジ、マジ」と、「マジ」だけで会話が成り立ってしまう。
 両者は、似て非なるものです。コノテーションが発達していることはすばらしいことですが、ストレートな論理言語にはなりづらい。しかも現代の日本では、コノテーションはいびつな形で定着してしまっている。奥ゆかしいというよりは、波風を立てぬよう、婉曲に婉曲に、といった事勿れ主義のコノテーションになってしまっているのです。
 こんな具合に現在の日本では、以心伝心というコミュニケーションは機能不全に陥っています。じゃあ、どうすればいいか。それは、さしあたりデノテーションの力を取り戻すことだと思います。言葉本来の意味による表現に努めること、そしてそれを論理的に語ること――これは言葉に対して責任を持つことであり、他者との間に新たな共通の基盤を切り開くことにもつながっていくのです。

標準語の功績
 日本語の二重構造、単語的接触、感覚的な側面、コノテーションに長けているという歴史的な特質――こうしたことを知ると、日本語は論理的ではないと思うかもしれませんが、私はそうは考えません。むしろ、日本語には西洋語にはない論理性があると思いますし、かつての日本語に比べて現代の日本語は、分析的な傾向を強めていると考えています。
 たとえば古文の勉強をすると、「が」や「を」がよく省略されていますね。「月出づ」といえば「月が出る」だし、「月見る」といえば「月を見る」です。
 つまりかつての日本語には、主語と目的語を明確に表すサインはなかったわけです。それが時代を下るにつれて、「が」や「を」を伴うようになっていった。これは日本語が分析的になっていったことの証でしょう。
 それから、標準語・共通語というものの成立も、共通の表現法を生み出していくという点では、日本語の進化に貢献した部分は大きいと思います。もちろん標準語・共通語については、「言語の多様性の抹殺」だとか「ナショナリズムの装置」だとか、ネガティブな評価も少なくないことは知っていますし、そうした姿勢に共感も覚えます。ただ、そちらは論者も多いし、私が付け加えるようなことはあまりないんですね。むしろ、そちらばかりは強調されるあまり、標準語や言文一致体が日本語の進化に寄与した部分が、忘れ去られているように思えます。
 というのも、明治の世というのは、それはそれは言葉の大混乱時代だったわけです。漢文、和漢折衷体、西洋かぶれの和文、候文、擬古文、されには方言などが、いっしょくたになって同居していた時代です。そうなると、文体によって思考が牛耳られることも生じてきます。一人の人間の中に、言文一致のまま、いくつもの文体が同居している。これでは到底、自分の言葉でしなやかに考えることはできません。
 こうした状況をつぶさに見れば、標準語や言文一致体の貢献というのは、計り知れないものがあったと言っていいと思います。

日本語固有の論理性
 日本語では、述語が文の最後に登場します。それを根拠にして、日本語の曖昧さを指摘する論者もいますが、私はむしろそこに日本語の長所があると思います。
 西洋語の論理は、「AはXである。なぜなら、Bであり、Cであり、Dであるからだ」という形をとります。最初に結論がズバッと出ますよね。そうすると、「AはYだ」と思っている人からは、すぐに反論されるわけです。いきなり結論ですから、協調的ではないんですね。「AはBである、ビコーズ・・・・・・」とくるときにもう周りから反論が出るわけです。
 日本語はそうじゃないでしょう。日本語では、「Aは」と言うと、みんな固唾を呑んで次の言葉を待つわけです。Bでも、Cでも、Dでもあって――というふうに、結論が出ていないからひとまず誰もが追いかけます。それで最後に、結局のところXです、と言われたら、まあ全体を見た結果としてXだから異論はないよ、とか、Dのあたりがおかしかったからそこだけちょっと気にしたいとか、協調的に話ができるわけです。
 こういう点では、日本語はすばらしい構造をもっています。ただし、問題なのは、「Aは」と話を始めて、B、C、Dとあれこれ話しているうちに、論点や話題がズレてしまうこと。最後にたどりついた頃には、「何の話でしたっけ?」ということになりがちです。
 結局、日本語の場合、すばらしい構造をもっているのだけれど、私たちのほうにそれをきっちり駆使する能力が身に付いていない。もちろんそうした力は、一朝一夕で身に付くようなものではありません。日本語の歴史的な構造、中国語と日本語の二重構造、そして、その中で日本人の性格がどのように形づくられてきたのか、さらに西洋語が明治以降に入ってきて、それがまたどんなふうに強化されていったのか。漢語と和語との二重構造が、いかに我々の本音と建前とを作り上げて、行動を左右してきたのか。「私たちは言語によって牛耳られている」ということを自覚して初めて、「自分の言葉」を獲得する道すじが見えてくるのだろうと思います。

言葉にしてみることが大切
 それでは、個人でどういうことをすればいいか。特に決まったトレーニング法があるわけではありませんが、やはり実際に文章の一つでも書いてみるのがいいと思います。
 自分の思いの丈がよく書けていると思えば、それはかなりいい線をいっているはずだし、思ったよりも自分の文章が下手だとか、思いが十分に書ききれていないと思ったら、どこかに問題があると考えていいわけですね。いったい何がまずいのかを考えるだけでも、言語の運用能力は大きく変わってくるはずです。
 それに、普段からじっくりと考える習慣を身に付けること。
 外国人の知己を得ると、「あなたは何を信仰しているの?」「あなたの政治的な立場はどういうところにあるの?」などと聞かれることがあります。こういうときに、日本語でもいいですから、どうやって答えるかを考えてみるべきでしょうね。こうした問いに真正面から答えることを、私たちは避けてきたように思います。
 しかし、これからの時代を生きる人は、これまで以上に外国人と付き合う機会は増えていくはずです。そこで笑って済ませるだけでは、コミュニケーションは成立しません。普段から考える習慣がなければ、自分自身、自分のことが理解できていないわけですから、適切な応答ができるはずもありませんね。
 だから、たとえば今の政治に対して賛成か反対か、賛成であればその理由を述べなさい、みたいなことを、自分できちんと言葉にできるかどうか、反芻してみればいいわけです。そうすると、思いのほか自分の政治的な立場や思想的な立場があやふやであることに気が付くかもしれません。
 思弁的な人であれば、「私とは何ぞや」「言葉とは何ぞや」と考えてみてもいい。答えは出ないけれど、それを必死で考えるプロセスの中で、言語能力も磨かれていくのです。

「空白」のススメ
 考えるためには時間が必要ですが、そういう時間が日本の社会の中でずいぶん失われているんじゃないかと思います。言葉の話からは離れてしまいますが、自分の生活の中に、フランス人のように「ヴァカンス」(vacances)を持つことは大切なことです。「ヴァカンス」とは「空白」のことで、ぽっかりと空いた時間のことですね。そういう時間や状況を生活の中で作ってみてはどうでしょう。
 たとえば、この文章をどう締め括ろうとか、何か新しい提案をしなければいけないとか、私たちはいろいろな問題を日々抱えています。でも、机に向かって一生懸命考え続けても、答えが出てこないということは往々にしてあるんですね。
 そういうときは、一度問題を放り出してしまうんです。そして、風呂でも散歩でもいいですが、「空白」の状況を自分に与えてやる。そうすると、どういうわけか靴紐を結んでいるようなときに、いいアイデアが思い浮かんでくるものです。
 そういう状況でこそ、創造性が生み出されるのに、私たち日本人は貧乏性なものだから、少しでも空白ができたらそこを埋めたいと思うわけですよね。電車の中でも、すぐに携帯を取り出してメールが来てないか確認しないと落ち着かない。
 でも、何もすることがなくて「ああ、手持ち無沙汰だな」という時間ほど、贅沢な時間はないわけです。別に難問でなくても、そういう時間にいろいろ振り返ることがあるでしょう。「彼女にはキツイこと言ってしまったけれど、今頃どうしているかなあ」とか。
 何でもかんでも用事で埋め尽くさずに、考える時間を自分に与えてやる。それが自前の言葉、自前の考えというものの肥やしになっていくのです。

加賀野井秀一

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