20070603 賢者の言葉・佐倉統『現代思想としての環境問題』・「環境の誕生」
佐倉統 『現代思想としての環境問題 脳と遺伝子の共生』 * (1992年 中公新書)より、「第四章 人間」所有「3 環境の誕生」の一部を引用
東京大学大学院 情報学環 佐倉統研究室 : http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/sakuralab/main.htm
「ヒトは、自らのニッチを変化させる生物である。これはしかし、ヴェルベット・モンキーやチンパンジーの事例からもわかるように、大なり小なり霊長類には共通の傾向である。霊長類学者の河合雅雄が指摘している通り、自然からの逸脱という人間の<原罪>は、すべて、サルの中にその萌芽がある。ただヒトは、その傾向が飛び抜けて強い。ニッチを変化させる技術(テクニーク)は、人間においては技術(テクノロジー)にまで拡大されている。
その出発点は農耕の開始にある。
農耕とは何か。それは、生態系の食物連鎖網の中では消費者の位置にある人間が、生産過程を管理することである。すなわち、生態系と物質循環系に対する大規模な介入操作に他ならない。すなわち生物が自らの<環境>を変革するという壮大な実験である。
この実験の最終的な結果はまだ不明だが、今のところ人間は、さまざまな環境に適応できるようになった。それが、現在のような生息域の異常なまでの拡大と人口増加をもたらしたのである。生物の中で、人間ほど多様な生息環境に住んでいるものはないし、哺乳類の中で人間ほど個体数の多い生物もいない。生息域の多様さや種の個体数というのは、ある生物がどれくらい成功しているかの生態的な指標でもある。つまり農耕によって人間は、生物としては未曾有の成功を手に入れたのである。
農耕は、九〇〇〇年ないし一万年ほど前に、ティグリス=ユーフラテス川のほとりで始まったといわれている。一万年もの間、人間は、環境に対する実験を続けてきたのだ。そしてその規模は、強まりこそすれ弱まる気配はみせていない。今のところ、この傾向は揺らいでいないのである。これは驚くべきことではないだろうか。一人あたりの穀物生産量は、一九八〇年代の半ばまでは増えていたのである。これは、ヨーロッパやアメリカ、とくに東アジアなどの北半球で大豊作が続いたためである。それにしても、このような豊作の下で世界の半数が飢えているという悲惨な現状を招いている政治的・社会的システムの欠陥には目を覆うばかりである。そしてこのような事態に何ら改革が加えられないまま、一九九〇年代を迎えて、一人あたり穀物生産量は急落している。このあたりの詳しい事情は、スーザン・ジョージの『なぜ世界の半分が飢えるのか』と『債務危機の真実』を参照していただきたい。
環境を改変するのは人間に特有な現象ではない。アメリカの進化遺伝学者リチャード・ルウォンティンは、生物体は環境を改変して遺伝子頻度に影響を及ぼす、つまり、生物体は環境の産物であると同時に、環境の生産者でもある、と指摘している。イギリスの心理学者ジョン・オードリン-スミスはこの視点をさらに発展させ、「行動とはニッチを形成する表現型だ」と定義している。生物が子孫に残せるものは、適応度の高い遺伝子型か、遺伝子型の適応度を高める環境である。親は行動によって、子供の環境をより適応的なものに改変する。オードリン-スミスはこの原理に基づいて、環境と表現型の共進化という、魅力的ではあるがきわめて複雑な概念モデルを構築していくのだが、今は、その話はおいておこう。
このような、生物による環境操作というのは、普通にみられる現象である。むしろ、生物というのは根本的にそのような性質を備えている、と見たほうがよい。では、農耕に始まる人間の環境管理が、ほかの生物の行動と異なる点はどこだろうか。それは因果関係を把握した上での環境改変にある。つまり、単なる環境の改変ではなく、環境の管理である。今この種をまけば、来年には実がなる。たくさん収穫するには、適度の水と栄養を与えることが必要だ・・・・・・等々、因果関係を認識して体系的に操作することが、農耕には必要である。そしてこれこそが、人間の環境認識に特異的であり、現在に至るまで、人間-環境関係を特徴づけている点なのだ。
ヴェルヴェット・モンキーはよき霊長類学者ではあるが、よき博物学者ではなかった。チンパンジーはよく博物学者だがよき農夫ではない。もちろんチンパンジーは、因果関係を理解もしているし、ときには操作もする。しかし、それを一段抽象的なレベルで普遍化し、系統立った体系にして管理することは、不可能ではないにせよ、困難だ。京都大学霊長類研究所の心理学者、松沢哲郎の研究によれば、チンパンジーの認識の階層の<深さ>はせいぜい一段から二段。人間の因果関係の<管理>は、この階層の数を飛躍的に高めたことから導き出されている。そして環境の中に因果関係を発見することが、さまざまな物理的環境や化学的環境、生態的環境に対する人間の作用を可能にしている。
農耕に始まった人間の環境実験は、現在ではさまざまな形をとっている。植物だけでなく、動物性蛋白質の生産も、農耕と同じように人間の管理下にある。魚介類の養殖などはまだいいほうで、ブロイラーの飼育ともなると、トマトを温室で<栽培>するのとほとんど同じである。
さらに人間は、生物だけでなく物理環境も操作する。気温や湿度の操作――夏は冷房、冬は暖房。これなど、環境管理の中では単純な部類に属する。しかしその帰結は、都市のヒートアイランド現象やフロンガスの放出など、予期せざる生態系・物質循環系の崩壊になって現われている。
これらの環境管理を支えている技術は、エネルギー(おもに電力)の固定と安定供給である。有機燃料や原子核エネルギーを固定して利用するというのも、人間においてはじめて見られる現象である。電気がどれだけぼくたちの生活に密着しているか、ちょっと想像するのは困難である。しかし今やぼくたちは、電気がなければ、文章ひとつ書くことができない。ハイパー・カードやウィンドウで作業を進めるぼくたちは、電気がなければ、ひょっとして思考する十分にはできなくなっているのかもしれない・・・・・・。」
中略
「このように、因果関係の管理に立脚した人間の環境操作はとどまるところを知らず、自己増殖的に拡大していく。しかるべき装置を使えば、超音波を聞くことも発することも、気温摂氏六〇度の灼熱地獄で生活することも、今や可能なのである。なんらかの機械を使って得られる認識パターンや生活パターンを、そうでないときのものと区別するのは誤りである。これらの機械は、人間の感覚器官や移動帰還などの延長だからである。天体望遠鏡を使って宇宙の彼方を観測するのも、ものさしで地図上の距離を測るのも同じことである。そしてこれらは、道の距離をぼくたちが自分の脚で歩測するのとも、基本的にはまったく同じことだ。だから、「人間は超音波を聞くことがができない」というのは、厳密には誤りである。
こうして、人間にとっての環境は、そのアモルファスな様相を加速度的に増加させた。このことから、環境問題複合体というのは、人間を知らなければ解決できないという結論が導き出される。人間が環境に対して何をするかということが、環境の性質を決定するからである。つまり、人間の中には環境が含まれているのである。
このような、人間の独自の環境との関わり方を可能にしている機構は、言語でも道具でもない。それは教育である。この点については次章で述べることにしよう。」
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