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20070610 賢者の言葉・巨星墜つ・城山三郎+平岩外四×吉村昭『間宮林蔵』

 『人生に二度読む本』 城山三郎・平岩外四 (講談社 2005)より、「第十一章 吉村昭『間宮林蔵』」 の一部を引用。

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 城山三郎 (しろやま・さぶろう 1927年8月18日 - 2007年3月22日) wiki
 平岩外四(ひらいわ・がいし 1914年8月31日 - 2007年5月22日) wiki
 吉村昭(よしむら・あきら 1927年5月1日 - 2006年7月31日) wiki



日本には稀有な探検家

平岩 今回は城山さんからのご提案で『間宮林蔵』を取り上げることになりました。著者の吉村昭さんと城山さんは同じ昭和二年のお生まれでいらっしゃるし、いろんな思い入れがおありかと思うのですが・・・・・・。

城山 以前私が『ビジネスマンの父より』のシリーズの翻訳をしていたころに読んでいたアメリカの本の中に、とても印象的な一文がありました。
 それは、一人の人間の中には本来四人の人間が生きているべきだというんです。一つ目は探検家、あなたの中の探検家は健在ですかと問う。それから二つ目が芸術家、夢を見る力、芸術的ともいえるような構想力、そういう才能はちゃんと生きてますかと問う。それから三つ目が判事、判断する力、管理者といってもいいんですけど、そういう判断力はしっかりしてますかと問う。それから四つ目がソルジャー。命がけで闘う戦士ですかと問う。
 その四人が一人の人間の中でしっかり確立してないとだめですよというんです。その中で探検家というのは日本ではあまりなじみがありません。それで、探検家というと、この間宮林蔵の名前を思い出すのです。歴史上、鎖国状態が長く続いたということもあって日本では探検家が出にくいのではないでしょうか。

平岩 そうですね。ヨーロッパにはそれこそあまたおりました。マゼランやバスコ・ダ・ガマから・・・・・・。

城山 だから、いかに鎖国というものが日本人に悪い影響を与えたかということです。

平岩 進取の気性に富む精神はなかなか育まれなかった。

城山 新しいものに打って出ようという気概が醸成されなかったように思うのです。それを考えてみようというのがきっかけです。

平岩 吉村昭さんの作品は非常に好きでして、史料を丹念に渉猟して、これでもかこれでもかと克明に追求していく姿勢は作家としてすごい才能だと思っています。今、城山さんから紹介されました四つの性格というものを考えますと、たしかに間宮林蔵は探検家だけでなくて芸術家であり、判事であり、戦士であるという四つの性格をうまく持っていたのではないかと感じました。

城山 ええ、一人の中に上手に持っていましたね。

平岩 間宮林蔵は、積極的にものを知ろうという、本来の意味での探検家だったと思うんです。しかし、同時に判断力が非常に優れていました。判事としての能力を強く持っていた。それから、同時に北方の非常に過酷な生活の中で、うまく人を使っているというか、人と溶け込んでいるのに感心しました。あれだけ困難な地域へ二回も長く逗留してるのに、ガイドや荷物運びの人たちも全員ノーといって帰ってしまわないで、必ず協力者が出てくるんですよね。そういうところは、ある意味で芸術家的な性格を持ってるなと思いました。
 それから、シャナの事件(一八〇七年、千島エトロフ島のシャナ海岸にロシア船が現れた事件)などを考えますと、間宮は異国船を打ち払わなければいけないという攘夷論者ですよね。だから、軍人的な精神も持っている。そう思うと、鎖国でしかも北東アジアの情勢が非常に厳しいなかで大きな仕事をなし遂げたのは、この四つの性格があったからこそ、という印象を受けました。

城山 シーボルトとの接触の仕方も、間宮のように慎重に対処する以外にはちょっと考えられなかった。あの幕末の難しい状況のなかですから。ただただ血気盛んだとか勇気があるとかいうことだけではなくて、いろんな想像力というか判断力の持ち主でした。こういう探検家は当時の日本では一人で終わってしまったのかなという気がします。」


伊藤忠社長の語った逸話
城山 間宮は、自分は死ぬかもしれないからということで遺言を書いて、北に向かっています。本当の意味での戦士というのは、自分のすべてを投げ出していつ死んでもいい、危ないときは真っ先に飛び出していく。自己犠牲というか、とにかく自分のすべてを投げ出してやるべきときにはやる。
 国鉄総裁だった石田禮助さんが、高齢での就任時に「気持ちはヤング・ソルジャーだ」といいました。あの人はソルジャーという言葉が好きだったんです。あの人の生涯を見てると朝から晩まで国鉄のことを考えて、朝起きると今日安全でありますように、夜眠るときも今日一日安全でよかった、と祈っていました。全身全霊を捧げて仕事をするのがソルジャーだということでしょう。間宮林蔵はなによりも全身全霊を捧げてやっています。

平岩 それと、自分が先頭に立っていきますね。人を押し立てていくより自分が先頭に立っていく。

城山 友人として付き合いやすい人物だったかどうかは疑問ですね(笑)。あまり酒を飲むという話もないし。

平岩 ある種の皮肉だと思うのですけれども、たとえば最初のころ間宮林蔵はゴロブニンは断固解放してはいけない、幽閉しておけといったり、シーボルトに対しても懐疑的でした。でも、この二人が間宮林蔵を高く評価したことによって間宮林蔵は歴史に名が残ったのです。シーボルトの『ニッポン』の中に「間宮海峡(まみやのせと)」といのが出たわけですから。

城山 幕府の評価もさることながら世界的な評価がなされました。

平岩 シーボルトからすると、間宮林蔵はけしからんやつだという気持ちはあるのですけれども、業績そのものはわりときちっと公平に評価しています。

城山 これからの社会で生き残るためにはこういうタイプでないと駄目なのでしょう。
 伊藤忠商事の丹羽宇一郎前社長の話を聞いていて面白いと思ったことがあります。会社が赤字の間は自分も給料を受け取らないといって、ポンコツの中古車を修理して乗りつづけている人ですが、社内で成績を上げたのはコーンの相場で大きく当てたからなんです。どうして当てることができたのかと聞いたら、商社は天気の長期予報を出すところと契約していますが、丹羽さんはそれ以外のいくつもの予報会社とも自分のカネで契約して、いろんな情報を取る。情報だけじゃなくて自分の目で見る必要があるというので、アメリカのコーンベルトをずーっと一〇〇〇キロぐらい走ったと。走るとやっぱり違うというんです。文字どおりコーンの立ち方を手に取って見て回るわけだから・・・・・・。そういう人が結局、社長になっていくわけです。一種、探検家みたいな仕事の仕方をしている部分があるわけでしょう。そういう意味で、この本はビジネスマンの生き方としても参考になる。」



 同書、伊藤淳子さんによる解説:
「 日本の勝利を願う人々が日夜心血を注いで建造した戦艦「武蔵」を主役に据え、客観的な事実の積み重ねによって、この船に関わった多数の人間たちの姿を照射した『戦艦武蔵』は、昭和二年(一九二七)生まれの吉村昭が、少年の日に体験した戦争を描いた最初の作品だ。それは、日本の記録文学に新機軸をもたらすと同時に、それまで純文学の短編を書いてきた吉村昭の作風を一変させるものでもあった。その後の吉村は、『高熱隧道』『大本営が震えた日』『零式戦闘機』など、記録文学の傑作を次々に発表していく。

 だが彼は、記録を肉づけさせる証言を求めて書くこと、それらの事実に縛られることに、しだいに息苦しさを感じ始めた。折から、心臓移植問題を扱った『神々の沈黙』を書くために医学史を調べていた彼の関心は歴史小説へと向かい、昭和四七年、『解体新書』の翻訳に携わった前野良澤を描いた『冬の鷹』で、初めてこの分野に手を染めた。

 「歴史小説には話の聞ける証言者はいないんだけど、事実は庭の飛び石みたいに並んでいる感じがするんですよ」(「本の話」一九九六年七月号)。その石と石の間を、想像によって埋めていく作業は、彼に新たな創作への意欲をかきたてた。『冬の鷹』以後、歴史小説の大作を順調に積み重ねた吉村は、昭和四九年に執筆した『北天の星』と、その翌年の『ふぉん・しいほるとの娘』の中で、間宮林蔵の生涯の一端を描いた。それをきっかけに林蔵への興味を募らせていった彼は、昭和五六年から翌年にかけて、『間宮林蔵』執筆に至る。雑誌「プレジデント」(一九九八年四月号)のインタビューで、「栄光に包まれたままの人にはほとんど関心が湧かないんです。人生の初めから終わりまでうまくいくなんてことはありえませんからね」と語っているように、前半生で探検家・測量家として輝かしい実績を残しながら、後半生ではシーボルト事件の密告者として白眼視され、孤独のうちに生涯を終えた間宮林蔵は、まさに吉村の志向に合致した対象だといえるだろう。

 こうした対象を生きた人間として描くためには、事実の飛び石をつなぐ手がかりとなる取材が欠かせない。吉村の取材力には定評があるが、その真骨頂は徹底した現場主義にある。現地を探れば、表面に出ていない史料が何かしら発見できるし、その土地を歩けば、自然とそのときの主人公の気持ちになるという。『間宮林蔵』執筆時も、北海道はもとより、林蔵が隠密として足を踏み入れた長崎や鹿児島にまで足を運んでいる。彼は、こうした取材には自前で一人で行くのを原則としている。取材の申し込みも、編集者の手は借りず、自ら行う。九州のある市の教育委員会を訪ねたときなど、有名な作家なら編集者が同行するのが普通なのに、一人で来るのは吉村昭を騙る偽者ではないかと疑われてしまったらしい。吉村昭の作家としての真摯な姿勢を伝えるエピソードだ。」


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