20070617 賢者の言葉・『宮本常一 写真・日記集成』・について、荒木経惟+森山大道が語る
『宮本常一 写真・日記集成』 * 附録より。
宮本常一(みやもと・つねいち 1907年8月1日 - 1981年1月30日) wiki
[「風景」というより「情景」だね] 荒木経惟荒木経惟(あらき・のぶよし 1940年5月25日 - ) wiki
(宮本常一の写真を見て)あっ、この人か、やっぱりね。
場所や建物の写真のなかに人間が写っている、これがいいんだよね。ものすっごく優しいというか、いい笑顔してるでしょ、すごく素直に写ってる。だからきっといい人なんじゃないかなと思ってたんだ。いくつくらいなの? ずっと少年だったのかな。
だいたいね、人や子どもとも出会いを撮るのは、こっち側がよくないとダメなんだよ、人間が撮るんだから。こんないい表情で迎えてくれるというのは、こっちがいいんだよ。
写真にしようとか、写真を撮ろうという気持ちがないんだよね。前から言ってるんだけど、わたしは写真にしたくない、作品にならないようにとやってるの、気持ちとしてはね。この人の写真は、その線なんだな。
こうやって歩いているのは、旅でもなく、散歩でもないんだな。そこで、やっぱりいい人が登場してくれるんですよ。すごく優しいから出会う、向こうから来てくれる。それはうちらもそうなの。この間、ソウルに行ったけどさ、またしても少女が登場してくれたからね。そういうふうに、人がね、呼ぶんだね。そういう惹きつける魅力があった人だよ、この人は。
かなり遠くのほうから、オジサンがきたなと思うと、もうそこからきっと笑いが始まってると思うんだね、この人は、遠くからもうニコニコしている。こっちが構えてないから、向こうも構えない。いい意味でどっちも油断しているからいいんだよ。
距離感がいいよね。踏み込んでないし、そうかといって離れていない。そこの微妙な感じがちょうどでているね。うちらプロはもう少し近いよね。
よく気づいているというかさ、眼の勘がいいね。眼のつけどころ、なんていうと、なんか探しているような感じがするけど、そうじゃなくて、向こうが見させてるんじゃないかな。
そう、パノラマ写真が好きだったのか。パノラマ写真が好きというのはね、パノラマ写真じゃなく、パノラマが好きなんだよ。写真というのはフレーミングしちゃうことじゃない。でもフレーミングなんかしたくないんだよ。みんな見たいんだよ。貪欲っていうか、全部視野に入るものを、みーんなみたいっていうかさ。記録って言葉をだすと、全部記録したいっていうか、何でも魅力あるんだっていうか、何でも貴重だっていうか、何でも何かあるんだという気持ちだね。
フレームなんて気にしてないし、構図だって気にしてない。出会ったときにポン、だろ。作家意識がない、写真にしようなんて思ってない、欲張りなとこがない、そこがいいんだね。しかも、変な言い方だけど、写真としても実にいいんだよね。撮る時の写真術を感じさせないのに、写真っていうのを感じさせるんだよなあ。
少年たちを撮ってもいいよね。てんでいいよね。木村伊兵衛でも土門拳でもないしさ。すごく素直に、この少年たちと仲間になれるもんな。土門さんのだと、いやあ、いいシャッターチャンスだなと思わせてしまうじゃない。それを思わせないもの、これは。だからいい。そこなんだよ、魅力は。こんな無意識に、出会った一瞬に酔っちゃって撮りたいよ。そのほうがいいんだよ、絶対いいんだよ。一瞬のうちに、オレなんか、邪心も入っちゃってね、写真なんだか邪心なんだかわからない。今度、森山さんと新宿を一緒にやるんだけどさ、森山さん、もっと邪心だからね。
わたしの『さっちん』の場所があったんですよ、三河島のアパート。東京新聞からデビューの頃というのを書いてくれと言われて、今日、『さっちん』の写真について書いたあと見たら、この写真(上巻一九五ページ)があったんで驚いちゃったよ、偶然なんで。ちょうど同じ頃撮っているんだね。驚いたねー、こういうところまで歩いているんだね、この人は。
オリンパスペンで撮ってたの? そう、いいねぇ、私も沖縄を撮ったのは、オリンパスペンFを使っていたんだよ。ハーフサイズね。縦位置というのを覚えるんですよ、ハーフだから。ペンというくらいだから、メモくらいの感じというかさ、写真として独立させようなんて思ってないから、すごく気持ちが軽いんだな。カメラも軽いけど、気持ちも軽くなる。
この人のは、写真であることをどんどん忘れさせちゃって、写っているものに気持ちを取られちゃうものね。だから写真を見ているというんじゃなくて、じかにこの人に会ってる、このおじいちゃんと話している、そういう気になるんだね。
あったかいところばかり撮っているよね。優しいところとか、ぬくもりのあるところとか、そういうところを撮っているからいいんじゃないかな。批評がなくて、好きなこと、好きなもの、好きな人だけ撮っている、それがいいんだな。
記録というけど、記録じゃないよ。ただ自分が惹かれて撮っているんだよ、だから強いんだよ。いい親子だなぁとか思うと撮ってる。近所に似てる道だなぁと思うと撮ってる。
農民とか漁民とか、自然に関わっている人が多いね。生家は農家だったのか、そうか、そうか。だから温かいし、だいたい自分のことを撮っているんだな。人間も含めて、故郷というか、心の拠りどころみたいな、だからどこでもなんか懐かしいのかな。
この写真は、出身地の島なのか、なんなんだよ、オレと同じで、近所じゃないかよ。近所を撮ってるのがいちばんいいんだよ。オレなんか、最近、家のバルコニーと空しか撮ってないぞ。おんなじもの撮ってるんだよ。朝、どうしても撮りたくなっちゃうんだよ。空を撮って、バルコニー撮って。だから自分の日記もののコンタクト見ると、必ずバルコニーと空がでてくるの(笑)、多いんだよ。なんなんだろうねぇ、やっぱり近所は特別なものなんですよ。この人、どこ行っても、近所感覚があるんじゃないかな、近所だという気持ちがあるんじゃないかな、そういう写真だよね。
瀬戸内海の島育ちか。小さな楽園なんだな。田舎のボロい家とか写っているけど、貧しさとか、汚いというのを感じさせないよね、それは写真がいいからだね。
いまの若い奴らが無機質風に、ヘタ風に撮ってるじゃない。ダメなんだよ、こうじゃなくちゃ。気持ちがこもってなくちゃ、俺がいう「情」だけどさ。そうだ、この人の写真は、「風景」というより「情景」になってるんだね。クールじゃないんだな、レンズが肉眼を感じさせるというかさ、情なんだな、あったかいんだね。(談)
[この人は、伊能忠敬みたいだね] 森山大道
とにかくいろんな意味で圧倒されましたね。
人生のかなりの時間を旅に費やしていることもそう。もちろん、ものすごい量の写真を撮っているのもそう。十万カットなんていうのは、普通じゃない。僕、自分の写真のカット数なんて数えたこともないけれど、普通じゃないよ。
歩いた量、歩くことに賭けた質量、それがすごい。それとやっぱり、見るということ。写真のカット数がものすごく多いというのは、民俗学的な視点で見ているという以上に、見るということに対するこだわりがすごいんだと思うね。もちろん、ご本人は民俗学というのがあって歩いたりするわけですが、それ以前の、突き動かされているそのエネルギー、それが本当にすごいなと思う。
すごい量が撮れるということは、それだけいろんなものを見るということ、その感応するセンサーがすごいということ、それをやっぱり感じるね。僕もカメラマンだから、これをやられたら、みんなぶっ飛ぶというか、そりゃもう、記録であるとか、そういう以前の問題ですね。
写真はアノニマス(匿名性)でアマチュアリズムだと、それは僕の変わらない見解であるけど、そういいながら、結構、プロみたいなことをやっている。それはあくまでも原則に過ぎない。しかしこの人は、アノニマスであるとか、アマチュアリズムであるということに、本当に一番近いですね。これをやられたら、カメラマンは口ダシできないという意味でも、圧倒的なんだね、この人は。
宮本さんの民俗学の見地とかテーゼについて、僕はいろいろ言えないが、しかし写真をみれば、この人の生涯の総体を見れば、民俗学とは何かというようなことがわかる。つまり徹底して見るということ、徹底して歩くということ、もちろんそのなかで聞くということ。それが全体の感想だね。
この人は、伊能忠敬みたいだな。歩くということに関して、芭蕉どころではないという印象だね。眼と足によって、もうひとつの日本地図をつくっているなと、そう思うね。
かつては僕も僕なりにあっちこっち行っていた。宮本さんの写真のなかには、僕がある時、ある場所で、見た感じが写っているんですね。知らない村なり町なりを歩いてみた、その町のたたずまいがあるんですね。普通の曲がり角が写っているだけの写真に、もちろん僕はそこに行ったことがないと思うんだけど、しかしかつて突き動かされた行った町の一瞬の時間や空間が、さっと蘇るんですね。宮本さんの写真を見るとそういう蘇りがいっぱいある。
さらに子どもの頃から、僕は転々としてきて、農村や漁村、山間の町に、それなりに記憶がある。そういうものが宮本さんの写真を見ていると、とっても思い当たる。そういうさまざまな記憶がごっちゃになって浮かび上がってくるんですね。
しかしそうはいっても、宮本さんの写真というのは、なんというのかな、情緒的な懐かしさというのをあまり感じさせない。時間とか空間とか写っている時代には共感がもてるんだけど、妙な情緒的な懐かしさというものは写っていない。それがいいなぁと思うんですね。つまり圧倒的に通過者の視点なんですね。徹底して通過者だから、写真を撮ることに淫してない、深入りしてない、写真に妙に自分の心情を入れたりしていない。そのスタンスの取り方がいいんですね。あおの人が意識してたかどうかわからないけど、徹底的に通過者の視点なんだな。
僕も含めて写真家が、「写真ってなんだ」といわれて、「なんでも感じたものを撮ればいいんだよ」とよくいう。でも写真家はそれをどこまでやっているか。宮本さんの写真をみると、それを普通にやっている、楽々とやっている、それを感じますね。
ここに収められた写真の三十年間には、社会的な、政治的な、さまざまな突出した出来事があった。宮本さんの写真は、そういう出来事のちょうど裏、突出していない日本の場所を全部埋めているような、そんな印象がある。両方で完結みたいな、そんな感じがしますね。
これだけ写真を撮って、しかも日記も書いて、すごくマニアックだなと思う。ほとんどのものを、どうでもいいと思うものまでを撮っている。突き動かしているのは、やっぱり宮本さんの民俗学への思いなのかもしれないけど、なんかもっと訳のわからない一種の物狂いみたいなね、そんな印象があります。物狂いが日本中、巡っているという感じなんだな。僕からすると、そういう訳のわからんものに突き動かされて、もどかしくてしようがないみたいな、そんな生涯だったような気がするね。もどかしいからなんでも撮っちゃうというか、何かテーゼ以前の人ですよね。
ご本人の写真を見ると、とてもそんなファナチックな人には見えない。けれど日記でも写真でも、あの人の全体をみると、非常にファナチックですよね。時間が惜しくて惜しくて仕方なかったんじゃないかな。なんでも見たい、撮っておきたい、メモしておきたいというね。とんでもない人ですよね。(談)
森山大道(もりやま・だいどう 1938年10月10日 - ) wiki
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