20070624 賢者の言葉・都築響一『夜露死苦現代詩』・「肉体言語としてのラップ・ミュージック あるいは渋谷の街の即興詩人」
都築響一 『夜露死苦現代詩』 * 第16章 「肉体言語としてのラップ・ミュージック あるいは渋谷の街の即興詩人」より。
「 毎月1枚、欠かさず新譜CDを発売しつづけ、それも通常の3000円とかではなく、すべて1000円均一で売る日本語のラップに特化したレーベルがある。Da.Me.RECORDS(ダメレレコーズ)という、その戦闘的なレーベルを主宰するリーダーであり、メインのラッパーでもあるのがダースレイダーだ。テレビの音楽番組やFMラジオで垂れ流される、ヒップホップの皮をかぶったJポップとはまったく異なった空気感を持つ彼のリリックは、たとえばこんなぐあいである――。
(中略)
藤原ヒロシとNIGOを頂点とする裏原宿ビジネスを強烈に揶揄したこの曲を聴くまで、僕はずいぶんたくさんの日本語ラップCDを買っては辟易して放り出す無駄遣いを繰り返してきた。1977年生まれ、弱冠28歳で何十人ものラッパーやDJをまとめあげ、自身のレーベルを立ち上げ、業界の価格破壊をさらりとやってのけ、それでこういうリリックを書いている男って、いったいどんなやつなんだろう。「きのうは名古屋、あしたは神戸、きょうだけ東京でレコーディング」なんていう超多忙なスケジュールのなかを、無理言って話を聞かせてもらいに行ってきた。
(中略)
「本名が例というので、"礼"の字を入れたかったのと、あとは単純にスターウォーズのもじり」で、MCダースレイダーが生まれたのが19歳のとき。いま29歳だから今年で20年目になるベテランだが、ラップを始めたのは「駿台予備校に通っていた浪人生時代に、自習室にラジカセを持ち込んで、自作のラップをやってた迷惑な先輩(2浪生)がいて、おもしろかったのと同時に、こんなのなら自分にもできるんじゃないかと思っちゃった(笑)」のがきっかけだという。新聞社に勤めていた親の都合で10歳までイギリスで暮らし、日本に戻ってからもほとんど洋楽ばかり聴いていた。「でもギターをやってみても続かないし、歌もそんなにうまくないし、音楽にかかわることで自分にもできることってないんだろうか」と悩んでいた帰国少年の前に、みんなが必死に勉強している自習室で自作ラップなんかかまして2浪してるダメなアニキが現れたおかげで、突然としてラップという地平が開けたのだった。
受験のほうはめでたく東大文Ⅱに合格したものの、合格発表があった3月10日の夜に高円寺で初ライブ、そのときの客のひとりとユニットを結成し、自宅でカセットのデモテープを作っては夜毎クラブを回ってDJに配ったり、アピールに励みつつラップのスキルを磨くうちに、「イベントがたいてい深夜にあるんで生活が昼夜逆転、たまに授業に出てもだれもノート貸してくれなくなって(笑)」ついに中退となる。ラップで東大捨てた大学生も珍しいかもしれない。
98年ごろには真田人(サナダジン)との2MCにDJオショウを加えた3人組のユニット<MICADELIC>(マイカデリック)を結成。2000年にデビューCD『FUNK JUNK 創刊号』を発表、その中に収められた超シリアスな内容に見せかけて、実は下痢に悩まされるギリギリの状況を描いた『今、そこにある危機』が、業界に笑撃を与えた。
(中略)
以来発売元をPヴァインからエイベックス、ビクターとクラスアップ(?)させながら5枚のCDと3枚のLPを発表、またDJオショウとの別ユニットで発表した『WELCOME TO THE 変態 ZONE』も話題になったが、しだいに3人別々の活動が多くなり、「グループ名だけ残しておくのも保険みたいでイヤ」だったので2005年解散。その時期とかぶるように始めたのが、ダメレコーズだった。
「きっかけはそもそも家で4、5歳年下のラッパーたち、だから当時20歳前後ですかね、彼らが家に集まっては何時間もラップしてたんです。家にいるとだれかしら集まってきて、でも自己紹介なんかするより、ラップ聞かせたほうが早いでしょう。それがそのまま消えてしまうのはということで、宅録した曲が溜まっていって、せっかくだから出そうよ」、商売とは離れたマインドからダメレコーズはスタートした。
それまで彼がメジャー・レーベルから出してきた作品には、当然ながら「ディレクター、プロデューサー、宣伝、販売・・・・・・会議だとそれこそ何人も集まるなかで、自分は曲だけ作っていた状態」だった。いったいこの人たちは、具体的になにを自分のためにやってくれているのだろう、それがよくわからなかったから、自分ひとりでできるところまでやってみよう。そうすれば音楽制作の仕組みがわかるんじゃないか、と企画を立てるところから流通まで試しにやってみたら、
「全部できちゃった!」
最初から最後まで自分でできるのだったら、いままでそこに関わっていた人たちの人件費はカットできるだろう。自宅で作業すれば、会社の家賃だって浮くだろう。そう考えていくと、「スタッフが100人いれば、その給料を払うのに1枚3000円は仕方ないだろうけど、人件費がなかったら、原材料費なんて機材を動かす電気代と、プラスチックの板ぐらいのもの」だから、3000円も取る必要ない。
「いまの高校生は携帯代もあるし、ひと月3000円のCDを、そうは何枚も買えない。でももっと音楽が身近にあってほしい。それにはCDがスリッパぐらいの値段じゃないと! で、1000円がギリギリの値段かなと思ったんです」
スリッパがいま、店でいくらするのかよくわからないけれど、日本では音楽がいま身近にないという彼の指摘は、すごく正しい。正確に言えば、ほんとうに聴きたい音楽が身近にない、ということだ。テレビでもラジオでも、街に出ても音楽はそこら中で垂れ流されているけれど、それはだれかが聴かせたい音楽であって、自分が聴きたい音楽じゃない。そして1枚のCDが買いにくい値段であるほど、買うほうは情報を、「これがいいんですよ」というだれかのお墨付きを、作為に満ちたヒットチャートを頼りにせざるを得なくなってくる。
「こんな価格設定じゃ、やってけないでしょ」という同業者からのご親切な忠告には、「なら3倍売ればいいでしょ」と返し、「こんなに曲が入ってて1000円なの? 安かろう悪かろうじゃないの?」という買う側の疑問には、「内容でこたえていくしかない。」毎月出すのは大変なようだけれど、
「ひとりが月に一曲書けば、年に12曲。それをみんなで回していけば大丈夫なんです。ジャマイカでは毎日新曲がプレスされて、それがその晩にクラブでかかるわけじゃないですか。100人ラッパーがいれば、それも可能なんです」
自身がサッカー少年でもあったダースレイダーは、日本のラップの理想的なありかたを、よくブラジルのサッカーに例えるのだという。
「ブラジル人みんながサッカーうまいわけじゃないけど、みんながいちどはサッカーをやる。その中でうまいやつがクラブから州代表になり、プロ入りして、国の代表になる、そういう巨大なピラミッドができあがってる。サラリーマンになったやつも、いちどやっていれば、ロナウドがどんなにすごいかわかるわけで、応援の仕方も違ってくる。その共通認識こそが大事なわけです。
ラッパーもみんながいちどは参加できるようになれば、10歳、12歳の頭が柔らかい時期からラップを始めて、その中からうまいやつがレコードを出せるという、ニューヨークでは当たり前の状況になれば、全然違うと思うんです。俺はクイーンズから出てきた、という言葉の重み。そこの裏には街角でラップした経験はあっても、あいつにはかなわないと身を引いて、まっとうな商売についたやつらがごまんという、それを共通認識として持ってるからこそ、聴き方が違ってくるのは当然でしょう。
日本では音楽においては、その構造がまだできてないんです。野球はあるでしょう。プロ野球、それ以前の甲子園をひとつの頂点として、リトルリーグから叩き上げるピラミッドがある。サッカーもJリーグができて以来、そう。音楽だって同じで子供の遊びとして定着すれば、友達の家でゲームをするのと同じ感覚でラップする、うまくできなくたって、好きにやっていく土壌があればと思うんです。敷居を低くしてみんなが入ってくれば、すごいやつはすごいとはっきりわかる。それは残酷なことでもあるんですが。少ない中だと、やってるだけでOKみたいな空気にもなるでしょ」
楽器を手に入れる必要も、演奏の訓練も必要のないラップは、本来なら小さな子供からお年寄りまで、いちばん間口の広い音楽のスタイルであるはず。それなのに日本ではいまだに若者の一時的な流行としか扱われていないのが、彼にはすごくもどかしい。
<サイファー>と名づけたゲリラ的な活動を、ダースレイダーは2005年の春から夏にかけてオーガナイズしていた。毎週末、渋谷のハチ公前で友達を集め、何時間もぶっ通しで「青空ラップ」するのである。最初に宇田川町の坂道でやってみたら、すぐに30人、40人の輪ができたのだが、「怖い人たちの縄張りだったみたいで脅されて(笑)」、ハチ公前に移動。電気を使うと怒られるので、ラップのバックに流すビートも"ヒューマン・ビートボックス"と呼ばれる、口でドゥッ、ドゥッ、ドゥクドゥと口ずさむ肉声リズムマシンで代用。
「それなら身ひとつでできるし、怒られても、待ち合わせですとか言い張れるしね」
その昔に不良の小説で世にデビューしたことはすっかり忘れてるらしい我らが都知事のおかげで、「いまクラブに未成年が出入りするのが厳しく禁止されていて、高校生のラッパーがラップを見せる場所がないんです」という現状も、彼らの活動の大きな原動力になっていたという。
(中略)
ダースレイダーがトレーニングとして自分に課しているのが、「部屋で音楽をかけて、ひとりでもとにかく毎日ラップする」こと。過去に書いた曲をおさらいするのではなくて、バックにビートを流しっぱなしにしておいて、そこに遅れないように強制的に言葉を乗せていく、フリースタイルと呼ばれるやり方だ。そうやって「何時間もラップしているうちに、自分でも思っても見なかったラップがリズムに乗って出てくるんです、自分の中にこんな表現が眠ってたのかというようなフレーズが」。自分の中から表現を絞り出し、紙に書きつけるのはそのあとから。
「ラップは演奏でもあるわけですから、リズムなしだと結局、あとから書き直すことになるし。それに日本語としておかしいとしても、こう言ったほうが口はよく回るし、リズムには乗る、それをどうしていくのかを考えていると、日本語の可能性を追求していくことでもあるんだなと感じてます」
俳句や短歌を持ち出すまでもなく、五、七、五で育ってきた日本人は、いかによけいな装飾をそぎ落とした表現ができるかを競ってきた。ところがラップは、まず過剰ともいえるほどの言葉の量から表現が成り立っている。その圧倒的な情報量にもかかわらず、「日本語のラップはまだ、歌謡曲に使われてきた比喩やダブル・ミーニングのような、独特な空気感を醸し出す表現として言葉をコントロールしきれてないですねえ」と彼は溜め息まじりに語るのだが、そのあとで「でもラップで遊ぶおもしろさっていうのは、単語と肉体をくっつけることなんですよ」とも教えてくれた。
「ラップには韻を踏むという縛りがあるでしょう。言葉を音で検索していくという作業は、ふだん言葉を使う中ではあまりやらないことですから、その単語ファイル自体が違ってきたりするんです。それを頭の柔らかな、小さなことからやっていけば、言葉を肉体化し、命を持たせることができるようになると思うんですね。ほんとはNHK教育で番組やってほしいくらい(笑)」
そうやっていつもと違う場所から、ちがう脳内単語帳の中から、ちがう表現が立ち上がってきてくれたら。
ポエトリー・リーディングとか、詩のボクシングとか、いろいろ名前をつけた詩の朗読会は世の中にたくさんある。でも彼ら"詩人"は、あらかじめ書かれた言葉を公開の場で読み上げるだけだ。ととえば「電車」というお題を与えられて、その場で1時間でも2時間でもフリースタイルでマイクに向かって語りつづけられるようなトレーニングするラッパーとの、本質的なちがいがそこにある。
そしてもちろん、僕らすべてが求める真にリアルな表現とは、いつだれがどうしたこうしたというような私小説レベルの"リアリティ"ではなくて、からだと直結した言葉なのだ。汗となってにじみ出る単語であり、傷口から血となって迸るフレーズなのだ。」
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