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20070708 賢者の言葉・風丸良彦『村上春樹短篇再読』・ブラジャーをはずす女「蜂蜜パイ」

風丸良彦『村上春樹 短篇再読』(みすず書房 2007)より  「13 ブラジャーをはずす女 「蜂蜜パイ」」全文。

*

風丸良彦(かざまる・よしひこ 1958年)

村上春樹(むらかみ・はるき、1949年1月12日 - ) wiki



「 
「 その日曜日の夕食を、三人はいつものように小夜子の阿佐ヶ谷のマンションで食べた。小夜子が『鱒』のメロディーをハミングしながらパスタを茹で、トマトソースを解凍し、淳平がいんげんと玉葱のサラダを作った。二人は赤ワインを開けてグラスに一杯ずつ飲み、沙羅はオレンジ・ジュースを飲んだ。食事の片づけを済ませたあとで、淳平はまた沙羅に絵本を読んでやった。読み終わると沙羅が寝る時刻になっていた。でも彼女は眠ることを拒否した。
 「ねえママ、ブラはずしをやって」と沙羅が小夜子に言った。
 小夜子は赤くなった。「駄目よ。お客様がいる前でそんなことできないでしょう」
 苗字の恣意性
 「小夜子」が服を着たままブラジャーをはずすシーンは、「納屋を焼く」の「蜜柑むき」同様、物語のメイン・プロットがどのようであったのかを忘却してしまうほど、「蜂蜜パイ」でつとに印象が残る箇所です。
 その「蜂蜜パイ」は、『地震のあとで』と題された連作として「新潮」に一九九九年後半に掲載された五つの短篇が二〇〇〇年に短篇集『神の子どもたちはみな踊る』として単行本化されましたが、その際に書き下ろしとしてあらたに収録された作品です。
 『神の子どもたちはみな踊る』に収録されたそれら六つの物語はいずれも語り手が天空に配され、またまえがきやあとがきもなく、つまり、語る「僕」がいちども現れない、村上春樹らしからぬつくりとなっています。
 六作品の主人公の名をそれぞれあげていくと、「UFOが釧路に降りる」=小村、「アイロンのある風景」=順子、「神の子どもたちはみな踊る」=善也、「タイランド」=さつき、「かえるくん、東京を救う」=片桐、そして「蜂蜜パイ」=淳平・小夜子・沙羅、です。男→女→男→女→男ときて、最後が男女+少女となります。苗字→名前→名前→名前→苗字→名前・名前・名前、でもあります。そして本の表扉には、ドストエフスキー『悪霊』とともに、ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』から、つぎの一節が引かれています。
 <ラジオのニュース> 米軍も多大の戦死者を出しましたが、ヴェトコン側も一一五人戦死しました。
 女 「無名って恐ろしいわね」
 男 「なんだって?」
 女 「ゲリラが一一五名戦死というだけでは何もわからないわ。一人ひとりのことは何もわからない。妻や子供がいたのか? 芝居より映画の方が好きだったか? まるでわからない。ただ一一五人戦死というだけ」
 無論それらも、この短篇集のテクストの一部です。さらには、『地震のあとで』は、本のカバーや目次には一切現れませんが、巻末の初出一覧で、収録作品が「連作『地震のあとで』」として「新潮」に掲載され、書き下ろされた「蜂蜜パイ」も連作の「その六」であることが知らされます。これもまたこの短篇集のテクストの一部です。怠惰な機械であるテクストはあらゆるアプローチをもって、作品を読むにあたっての読者の共同作業を求めてきます。そして、この短篇集で読者がまず読み解かなくてはならないのは、奥付近くでひっそりと関連性が暗示される阪神淡路大震災と作品のつながり、よりも、表扉でこれみよがしに告げられる無名性の問題でしょう。
 30歳を過ぎてまもなく小夜子は妊娠した。彼女はそのとき大学で助手をしていたのだが、休暇をとって女の子を出産した。三人がそれぞれ子どもの名前を考え、淳平が提案した「沙羅」という名前が採用された。音の響きが素敵だわ、と小夜子は言った。
 右の引用で「三人」とは、「淳平」と「小夜子」、それに「小夜子」の夫であって大学生時代からの「三人組」の一人、「高槻」です。「高槻」だけでなく、「淳平」も「小夜子」が好きだったのですが、「小夜子」は「高槻」と結婚し、しかし二人の子どもの名づけ親には「淳平」がなります。
 ここでいったん、あなたの名前について考えてみましょう。
 あなたの名前がたとえば佐藤花子だったとする(と、この時点で私は読者を女性と仮定することになり、それも言わばテクストの戦略となりますが)。
 苗字の「佐藤」は自分の意思によって簡単に変えられるものでもなく、したがってそこには何の意味も籠められていません。あなたの外見や職業から(相撲とりや歌舞伎俳優は別にして)、あなたが「佐藤さん」であると判断できる根拠もどこにもない。初対面の人からいきなり「あなたはきっと佐藤さんでしょ」と言われたとしたら、あなたは普通「以前どこかでお会いしましたっけ」と返すのであって、「はやりわたくしは佐藤に見えますか」とは言わないでしょう。つまり、ようやく言葉を発せられるようになった赤ん坊が犬を見て突然「イヌ! イヌ!」と叫ばないのと同様、あなた自身のうちにあなたが「佐藤」である根拠は、ない。否、あなたの先祖を代々遡り、最初に佐藤という姓が誕生した時点ではそうした根拠があったのでしょうが、少なくとも日本でいちばん多い姓となった今になっては、ない。それが、苗字の恣意性です。ところが名前となると、決して恣意的ではない。そこには確実に、意図があります。すなわち、花のように美しく咲いてほしいから花子、とか、生まれたときに庭に花が咲き誇っていたから花子、とか、あなたの名前には必ず何らかの薀蓄、あるいは命名者の希望が籠められているはずです。
 さてそれでは、小説の中に現れる固有名詞は、いったいどちらでしょう。苗字と同様恣意的なのか、あるいは名前のように意図があるのか。
 その前に。

 あだなの比喩性
 現実世界でも、また物語世界でも頻繁に使われる「あだ名」について考えてみましょう。
 命名が命名者の意思によって行われるのに対して、あだ名は、あだ名をつけられる当人の風貌や性格をもってつけられます。その意味では、あだ名は「比喩」表現で、たとえばあなたが「りんごちゃん」と友だちから呼ばれれば、あなたはきっと頬がりんごのように赤いか、あるいはりんごが死ぬほど好きなのでしょう。あなたの頬がりんごのように赤ければ、それは「りんご」との類似性からつけられたあだ名で隠喩となり、またあなたの身体の特定の部分であなたの全体が「りんご」と呼ばれれば、それは提喩になる。はたまた、あなたがいつもリンゴの絵が書かれたトレーナーを着ているから「りんごちゃん」と呼ばれるのだとしたら、それはあだ名とあなたとのトレーナーの隣接性によって換喩となる。
 国語学者の佐藤信夫先生によれば、文学作品に見るあだ名で、隠喩型の代表例は「白雪姫」(雪のように肌が白い)であり、換喩型は「赤ずきんちゃん」(いつも赤い頭巾をかぶっている)、提喩型は「青ひげ」(その人の身体の一部がその人全体を表す)ということになります(『レトリック感覚』)。この際、換喩型と提喩型は、便宜的にその人物の身体の一部、ないしは身につけているもの自体をその人の印(イコン)として用いるものですが、いっぽう隠喩型では、その人の性格や特徴が、あだ名によって客観的事実として浮かびあがる(その典型的な例として、「野ブタ。」をあげることができます)。小説においては、この、あだ名で言うところの、「隠喩型」固有名詞に出会う機会が多くあります。
 時代小説で「おきぬ」「おしず」「おゆき」と言えば、すぐさま美人を思い浮かべるでしょうし、それらを現代小説に転じて「絹子」「静子」「雪子」としても、やはり色白の美しい女を思い描くでしょう。いっぽう、「小六」や「助八」といった名には、「小」や「助」から町人(小市民)を連想するでしょう。また、海外の文学に目を向けると、たとえばジェイムス・ジョイス作品の代表的登場人物であるスティーヴン・ディーダラスは、すぐさまギリシャ神話の名工匠を思い起こさせ、『若き芸術家の肖像』における彼の成長過程はまさに、クレタ島に迷宮をこしらえた、そのイカロスの父が象徴されていると、しばしば指摘されます。
 さて、そのうえで、『神の子どもたちはみな踊る』の登場人物たちの名前をいまいちど見てみましょう。
 先の引用で、「小夜子」と「高槻」の子の名づけ親になった「淳平」には、その子を「沙羅」とする何かしらの動機があったはずです。けれどもそこでは、「小夜子」が「音の響きが素敵だわ」と言うだけで、「淳平」の心のうちは明かされない。ところで、この作品では、もうお気づきの通り、四人の登場人物のうち唯一、「高槻」は苗字です。「小夜子」の夫であり、「沙羅」の父であり、「淳平」の学生時代からの親友である彼だけが、物語内においては、恣意的な名前(「高槻」という苗字)しか与えられていない、ということになります。それが、先に物語の主人公を三人とした理由でもあります。
 ちなみに、「UFOが釧路に降りる」では、主人公の「小村」以外に、「佐々木」「シマオ」といった登場人物がおり、唯一「小村」の妻だけは「妻」や「彼女」と呼ばれ続けられますが(言ってみれば、彼女も「小村」です)苗字と名が入り乱れることはありません。「アイロンのある風景」では主人公「順子」に対し彼女の同棲相手は「啓介」、二人以外には「三宅さん」という苗字の登場人物がいます。さらに「タイランド」では主人公の「さつき」以外に、タイ人の「二ミット」(「さつき」をしてその男の名が「ファーストネームなのかラストネームなのか、それもわからない」とされる)、アメリカ人の「ジョン・ラパポート」(作品集の中で唯一フルネームが現れる)が登場します。「かえるくん、東京を救う」では主人公の「片桐」の他の人類としては、弁護士の「白岡」がいます。そして、表題作である「神の子どもたちはみな踊る」にはつぎのような一節があります。
 母に会ったとき、田端さんは言った。
 かくも厳格に避妊をしていながら、あなたはなおかつ妊娠なさった。それも三度もつづけて妊娠した。偶然の事故だと思われますか? 私はそうは思いません。三度かさなった偶然は、もはや偶然ではありません。三というのはまさに『お方』の顕示の数字なのです。言い換えるなら、大崎さん、『お方』があなたに子どもをもうけることを求めておられるのです。大崎さん、それは誰の子どもでもありません。天におられる方のお子さまなのです。私は生まれてくる男の子に善也という名前をつけましょう。田端さんの予言通りに男の子が生まれ、善也と名付けられ、母親はもう誰ともまぐわうことなく、神の使いとして生きることになった。
 キリスト生誕のエピソードがなぞられているようですが、神の使いとなるのは、生まれてきた男の子・善也ではなく、マリアたる母親のほうです。が、いずれにせよ、この作品集には名前に対する強いこだわりがありそうです。が、どの名前も、物語上においては少なくとも、「おきぬ」や「小六」、スティーヴン・ディーダラスといったような隠喩性は感じられません(強いて言えば、「蜂蜜パイ」の「小夜子」が、その名から美しさを漂わせています)。
 しかし隠喩性がないことがイコール恣意的、とはなりません。なぜなら、いずれの名前にも「ありきたり」という確かな意味があるからです。したがって、先に「蜂蜜パイ」において、「高槻」だけに恣意性が見られると言いましたが、それはあくまでも物語内の他の固有名詞との相関関係における意味あいであり、作品を外部から眺めれば、「高槻」も「小夜子」も「淳平」も「沙羅」も一様に、「ありきたり」という意味を持ち、作者が「ありきたり」の人物にするという意図をもって彼らを命名したわけですから、全員に恣意性はない――となれば、そもそも小説の登場人物たちには絶えず命名者が存在しており、原理的には彼らのあらゆる名に恣意性はない、という自明の結論が導き出されます。「小村」も「順子」も「さつき」も「片桐」も、そしていわくありげな「善也」さえ、「ありきたり」が意図されたものとして同じひとつのグループに属します。
 ところで、「ありきたりの名前」を言い換えれば、つまり「無名性」ということになります。どこにでもある名前であるがゆえにそれは、誰をも特定しない、という意味での無名性です。しかしながらいっぽうで、その無名性が有名性に転じる場合もある。たとえばあなたは「ミコ」という名(愛称)を聞いた時に、どのような女性を想像するでしょうか。中高年以上の方であればたちまち、顔に包帯を巻いた女性、薄命な女性、愛を生き尽くした女性を思い浮かべるに違いありません。もともと「ミコ」(大島みち子)は「小夜子」や「さつき」と同様に「ありきたりの名前」であったはずです。けれどもそれは、やがてそうした女性像をコトバの内に帯びることになります。帯び始めるまさにその瞬間に、「ミコ」という音は、「マコ」とも「カコ」とも「チャコ」とも区別される、意味するもの(シニフィアン)となります。その音から想起されるのが、顔に包帯を巻いた女性、薄命な女性、愛を生き尽くした女性、などの意味されるもの(シニフィエ)です。されに、これらふたつのつながりによって生成されるもの、それが記号(シーニュ)です。ところが、「ミコ」が広く知れ渡るとともに、「ミコ」という音は、心的な操作(想起)を伴わずダイレクトに、顔に包帯を巻いた女性、薄命な女性、愛を生き尽くした女性へとつながり始めます。その時点でもはや「ミコ」は記号ではなくなるのです。
 さて、「蜂蜜パイ」の主人公「淳平」は作家です。その職業を続ける限り彼は永遠に命名権者でもあります。そして、その権利を行使するかのように彼は、自分の書く物語ではなく、友人の「高槻」と「小夜子」の娘に命名をします。それに対して、あたかもその名が恣意的であるかのように、「淳平」は根拠を語らず、「小夜子」もまた「音の響きが素敵だわ」と言うに留まる。が、娘に「沙羅」という名が与えられた瞬間は、同時に、この物語の内のあらたな登場人物が生まれ、「ありきたり」という意図をもって作者がそれを「沙羅」と命名した瞬間でもあります。その名は、物語内では恣意性を振る舞いながらも、テクストにおいては作者によって意図されているのです(恣意性はない)。そこにこの作品の、「書く」ことに対するパロディとしての要素が隠されています。
 加えて、娘が「沙羅」と名づけられた瞬間は(公式には役所に出向くまでの間は)、その名は交換可能です。そのときは音の響きが良く感じられても、翌日になるとどうも泣き顔が「沙羅」にはそぐわない、などと別の名が検討されるケースは頻繁にあるでしょう。ところが、小説においては、いったんその娘が「沙羅」と名づけられてしまえば、もはや他の名前との交換は不能なのです。「沙羅」という名が物語において「高槻」と「小夜子」の娘を表すと規定されてしまえば、「沙羅」はその瞬間にすでに「沙羅」なのであり、その後もずっと「沙羅」であり続けるしかない。裏を返せばそれが、小説における登場人物の名に恣意性はありえないことの証でもあります。

 凡庸な名前の声高の主張
 名前がある本質を表すとき、その名はいくらでも交換が可能です。なぜなら、本質はひとつだけとは限らない。しかし、ものとその名前との関係が恣意的であればあるほど、交換は可能になります。もし、イヌが「イヌ」でなく「ワンワン」であったら、それを英語標準に統一し「バウバウ」とすることも可能でしょう。けれども、恣意性をもって(必然性なく)「イヌ」と呼ばれるあの動物を、明日から「バウバウ」と呼ぼうとしても、そこには、そう呼びなおすことの必然が想起されない。たとえ凶暴化したとしても、イヌは「イヌ」という既成のコトバの内に凶暴性の意味をまとわねばならないのです。
 さて、「無名って恐ろしいわね」というゴダールの引用は、他ならぬ恣意性としての名前を表しています。たとえゲリラ一一五人それぞれに名前があったとしても、「佐藤」や「鈴木」や「中村」と同じ類のものであれば、それらは依然無名のままです。しかし、そこに何らかの恣意的ではないもの、意図されたものを投入できるとすれば、そればすなわち物語の特権です。
 『神の子どもたちはみな踊る』に収録された六つの短い物語は、その意味において、創作という芸術活動が、ありふれた名前という凡庸性の中に、それら登場人物たちの物語を投影しうることを示しています。そしてそのことを礎に、阪神淡路大震災でただ名前だけの膨大な死傷者リストを突きつけられたときに、村上春樹がとりえた小説家としての行動が「ノンフィクション」ではなく「小説」であったことを、『神の子どもたちはみな踊る』に収められたあらゆるテクストは、読み手に伝えるのです。言うまでもなく、表題作「神の子どもたちはみな踊る」での名前へのこだわりは、「善也」という特定の名前へのこだわりではありません。それはテクストそのものによる名前へのこだわりの表明であり、ただし名前そのものではなく、「善也」という珍しくはない名前に物語が付着しているように、そこに恣意的ではないものを注入する物語へのこだわりを、名前へのこだわりを通して表明するのです。
 そうした策略において、これら凡庸な名前の数々は、意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)のつながりを維持することの不能を予め宣誓し、換言すれば、『神の子どもたちはみな踊る』の六つの物語は、そうした通俗に堕する瞬間の生成さえも拒むかのように、あえてありふれた名前の人々の、あえて劇的ではない日常、ないしは非日常を淡々と語り続けることを目論むのです。
 さて、最後に冒頭の引用に戻りましょう。「ブラはずし」のインパクトが強すぎて、ついつい見逃しがちになりますが、それ以前に引用部分でとても気になることがあります。「小夜子」と「高槻」は離婚することになり、「小夜子」は高円寺の分譲マンションに住み続けます。「週に一度、高槻は沙羅に会いに高円寺に行った」のですが、それから二年が経ったころ「淳平」は夕食を「小夜子の阿佐ヶ谷のマンションで食べた」とあります。引っ越しの前ぶれはなかったようですが、どうして分譲マンションを手放したのか、引っ越すなら「沙羅」のこれからも考え、隣駅ではなくなぜもっと郊外にしなかったのか、気になると言えば、ブラはずしよりも、俄然気になります。」



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