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20070826 賢者の言葉・池田敏雄「柳宗悦と柳田国男の「不親切」」・「民芸手帖」昭和五十五年一月号より その1

 『民芸手帖』 昭和五十五年一月号 通巻260号より、池田敏雄 文 「柳宗悦と柳田国男の「不親切」」を引用 (その1)。

   * [柳宗悦の世界 (別冊太陽)] 尾久彰三 監修



一 柳宗悦と台湾

 柳宗悦に魅せられたのは、金関丈夫先生の影響が大きい。金関先生は人類学者として柳田国男の学問を尊敬しておられたが、いっぽうではまた民芸運動を通して柳とも親交があった。私事にわたることになるが、敗戦直後の混乱期に、柳宗悦からいただいたはがきがある。
「お便り嬉しく拝見致しました。御無事の由を知りお悦びします。先日もお噂してゐたのです。金関さんも愈々帰省される由、お会いする日を待ってゐます。併し昨日或人から金関さんは支那に帰化するそうだといふ事を聞かされ、どちらが本当ですか。玉やビルはとうに焼け去りました。原稿こちらにお届け希へば幸甚です。御東上の事もあらば是非お立寄下さい。御健在をいのります。」
 日付は一九四七年七月一日となっている。つづいてもう一枚は、河合寛次郎作の陶器の色刷りの絵はがきで、
「原稿お届け下され大変嬉しく拝見しました。君にも是非一筆寄稿希ひたく、御執筆下さらずや。マンカに関する貴著、いつぞや拝見、面白く読みました。金関さんのその後の消息お聞きの折はおしらせ下さい」
 とあり、日付は七月一六日となっている。私はこの年の五月ころ台湾から帰国しているが、そのとき金関先生から柳あての原稿を託され、それを送り届けたことがある。この二枚のはがきはその返事である。金関先生はひきつづいてなお台湾の大学に残っておられたので、そのため帰化説が流れたのであろう。
 「マンカ」に関する本とは、敗戦の前年にあたる一九四四年八月に台北で刊行された『台湾の家庭生活』と題した本のことで、台北市内の万華で採集した民俗資料が中心になっているため、柳は「マンカ」に関する云々といっているのである。
 さて、柳は一九四三年三月中旬から約一ヵ月にわたって、戦時下の台湾を訪れている。柳を招いたのは総督府の文教局だが、かげでその実現に尽力されたのは金関先生である。これまで粗末に扱われてきた台湾在来の工芸品を見直し、その中から用と美にかなったものを選びだして展示しようというのがねらいであったと思う。そのような機運が生まれたのは、資源の窮乏と敵潜水艦の出没で、内地からの日用雑貨の移入が困難となり、島内での自給自足が必要になってきたためである。
 さて柳は、金関先生や画家の立石鉄臣さんらの案内で全島を一周している。とくに柳の目をひいたのは、島内に豊富な竹を材料にした工芸であった。大は家屋、寝台、食卓、椅子から、小は小間物に及んでいる。南部の関廟という有名な竹細工の村が柳の気に入り、「僕は関廟に住みたくなったほどです」といっている。柳はまた「内地を見本としてはいけない。内地風に改めるとそれですぐ良くなると思うのは、あまい不遜な見方である。この土地の伝統を尊敬して、正しい意味でkぽれを生かしていかなければいけない」ということを教えてくれた。
 これらの柳の折り折りの感想は、金関先生の手によって「台湾の民芸に就いて」と題してまとめられ、『民俗台湾』(三―五、六号、一九四三年)に掲載された。『民俗台湾』は、台湾の風俗習慣を内地風に改めようとする、いわゆる「皇民化」運動によって、まさに湮滅しつつある伝統文化を、採集記録するために創刊された月刊誌で、習俗だけではなく、民芸の紹介にも力を入れていた。『民俗台湾』編集部では、全島旅行を終えた柳を迎えて、台北郊外の士林で、楊雲萍夫妻の心づくしによる、台湾料理で歓迎会を催した。
 柳が全島各地で蒐集した民芸品は、四月十六日から二日間、文教局の主催で台北市公会堂で展示された。そのあとこれらの品は駒場の民芸館に送られたが、荷のかさばる竹製品があとに残った。その上船がたびたび潜水艦に沈められるので、荷物が無事に届くかどうかが危ぶまれた。民芸館には、台湾山地のインドネシア系少数民族のみごとな織物のコレクションがあるが、これはこのとき金関先生が寄贈されたものである。
 ところで柳の訪台は、柳が沖縄で例の方言論争をまき起こした年の翌年にあたっている。このころ台湾は「皇民化」運動の最中で、人権の抑制は沖縄の比ではなかった。柳もそれに気づいたことと思われるが、とにかく柳は無事一ヵ月にわたる、はじめての台湾の旅を終え、四月中旬に離台している。


二 柳田国男と『民俗台湾』

 柳田国男の民俗学にはじめて接したのは、一九三八年に、創元選書の第一冊として刊行された『昔話と文学』である。それ以来柳田に病みつきとなり、選書の中につぎつぎと加えられる柳田の著書を、待ちどおしい気持で読んだ。そのうち柳田に学んで台湾の民俗を研究したいと思い、日本の昔話のモチーフに似た話を台湾の昔話の中に探したり、柳田説を台湾の民俗にあてはめてみたりした。
 あるとき、雑誌の発行所気付で、柳田から絵はがきと「民俗採訪手帳」が送られてきた。稚拙な文章が柳田の目にとまったわけであるが、柳田はこのようにして後進をはげましていたらしい。その手帳は初心者にとってはきわめて親切な手帳で、昔話、食習、漁村、山村などとそれぞれ部門別に一冊になっており、ポイントとなる質問事項が挙げられていた。日本民俗を対象にしたその手帳を、そのまま台湾民俗に適用するわけにはいかないが、それを応用することは可能である。私はまだ若かったので、必要以上に台湾語の原語を残したかったが、その絵はがきには、原稿はできるだけ日本民俗学で使われている用語におきかえた方が、今後の交流に役立つだろうといった意味の注意が書きそえられていた。
 それから間もなく、『民俗台湾』を出すことになり、金関先生のもとでその編集を担当することになった。この雑誌に柳田国男を囲む座談会(三―一二号、一九四三年)の記事があるが、この中で柳田が、前に「本を送ったか手紙をやった」ことがあるといっているのは、前記の採集手帳のことをいっているのである。この座談会は、柳田から『民俗台湾』に対する注文を聞くために、たまたま学会で上京中の金関先生と、中村哲、岡田謙両氏が柳田を囲んで催したものである。私は採集手帳のうち、「食習採集手帳」を台湾の民俗に適用して、マンカの聞書を中心に、「台湾食習資料」(『民俗台湾』四―一号、一九四四年)をまとめた。


三 柳宗悦の誤解

 ところで柳田も柳も、それまで尊重されることのなかった土俗や庶民の雑器を対象に、新しい学問を開拓した先駆者である。その相手はともに「有名」ではなく、「無名」あるいは「無銘」の人や物であったが、しかし本人自身は庶民とは遠い存在であった。柳田は自分たちの学問を、「上品な物好きとも、余裕のある生活趣味」とでも受けとる人の多いのに閉口しているが、柳の場合も口の悪い人がいて、「学習院の坊ちゃんが女中の尻をなでるようなものだ」などといったりした。
 「民俗」と「民芸」ということばは、ともに昭和のはじめごろ、柳田と柳によってそれぞれ定着した新らしいことばで、字も一字ちがいで、共通点も多いと思われる。柳田と柳がお互いに相手をどのように見ていたかは興味のあることだが、このふたりはいちど対談会で顔を合わせただけで、あとは近づくことがなかったようである。それだけではなく、柳などは次のようないきさつから、柳田に反発を感じてさえいたといわれる。そのいきさつを金関先生がご存知だということを先ごろ知った。
 柳らの民芸協会の同人が沖縄で、標準語問題をめぐって、方言札のような制裁法まで持ちだして方言を禁止しようとする県当局のやり方に抗議したときのことである。県の役人が「柳田先生などは、そんなことはしない」というようなことをいって、柳をとがめたらしい。
 柳はそのことを金関先生につたえ、「柳田さんなどは自分の学問のための調査はするが、島のもののためになるようなことはなにもしないのではないか」という意味のことを訴えたらしい。そのときの柳の手紙は今は見当らないが、「よほど強く」書かれてあったということである。このことを柳がとくに金関先生にあてて書いたのは、金関先生が柳田とも親交のあることを知っていたからだと思われる。
 戦後柳の選集が刊行されたとき、「朝鮮とその芸術」をあてた選集の第四巻に、柳は「新版の序」を寄せているが、その中に次のような一節が見られる。
「鑑賞も調査も自身のことに終って、朝鮮の運命を憂え、朝鮮の人達に情愛を抱き、何かそのために私を忘れて尽すというような人には中々廻り会えない」
 柳がこれを書きながら、沖縄問題で感じた柳田のことを思いうかべていたとみるのはうがちすぎかも知れないが、柳が金関先生にもらした柳田評とこの個所とは、その心もとが重なっているように思われる。
 とにかく柳にとって、県の役人のことばはよほど不快に思われたに違いない。柳田が沖縄の方言問題をどのようにコメントしようと、それは柳らの抗議とは直接かかわりがないにもかかわらず、柳は役人の挑発にのって、あるいは柳以上に方言禁止の行きすぎを憂えているともいえる柳田まで、誤解してしまったと見ることができよう。それほど、柳は柳田のことを意識していたのかも知れない。
 沖縄で柳田をひきあいに出して柳を挑発したのは、ときの知事ではないかと思われる。協会側と県当局が双方で公開文を発して議論したあと、県学務課は柳あての公開文を那覇の三新聞に発表して柳個人までも攻撃する。そのため柳は学務部に質問書を発して回答をもとめるが、一語の返事も得られない。柳は直接知事と面談する。このときの会見の模様は、柳の手記をもとにそのやりとりが雑誌(月刊民芸編集部「問題再燃の経過」、『月刊民芸』一九四〇年一一、一二月合併号)に発表されている。
 柳が他府県の場合と同じように、「標準語と方言とを両方上手に用いて差支えないと思う」といえば、知事は「この県の事情を他県と同一に見てはこまる。この県では日清戦争の時でもシナにつこうとした人がいた位です」といって受けつけない。知事は、占領地に日本語を輸出し、また朝鮮、台湾で日本語を普及しているのと同じ意味で、沖縄の方言を廃止させ、標準語一式に更えようとしているのである。そして「県と議論をなさるような事はご注意ねがいたい」といって柳を非難する。「柳田さんなら云云」という発言は、おそらくこのとき出たものであろう。
 柳はまだ若いころ、一九一九年に朝鮮で独立万歳事件が起ったとき、だれも「不幸な朝鮮の人びとを公に弁護する人」がないのを見て、急ぎ「朝鮮人を想う」という文章を新聞に書いた。そのあとまたソウルの光化門が取りこわされようとしたとき、「失われんとする一朝鮮建築のために」という公開状を雑誌に発表した。そのため世論が喚起され、ついに門は破壊をまぬがれ、他に移建されるということがあった。しかしそのため柳は危険人物として登録され、一時は刑事の尾行を受ける身となる。
 それがこんどは沖縄で、方言問題で波乱を投じたために危険思想をもつものと考えられ、禁止区域を撮影したという名目でついに拘引され、裁判所で数度の訊問を受ける。指令を発したのは、頑固な沖縄方言絶滅論者のその知事であったが、結局は起訴猶予ということでけりがついた。
 柳は沖縄におけるこの事件は、朝鮮における光化門問題と好一対をなすもので、「私の文筆生活に起った最も公的な意義のある出来事となったのは誠に感謝に余る廻り合せと云えよう」と回顧している(『柳宗悦選集』第五巻、「琉球の人文」の序)。
 柳が金関先生に対して、柳田さんなどは、自分の必要はするが、島のもののためになることはなにもしないではないかと訴えているのは、自分はそのために「不自由」な目にさえあったという自負があるからであろう。柳が弱い立場のものにかわって抗議せずにはいられないのは、若いころに白樺派の運動に参加していることとも無縁ではあるまい。
 しかしそれは、柳だけのヒューマニズムではない。「随分傍若無人なことをしたものだ」と断りながら、柳田もまた植民地の惨状や沖縄の窮乏を、住民にかわって、「半ば抗議」のつもりで、世に訴えているのである。柳田は柳が誤解しているように、自分のためになることはするが、住民のためにはなにもしなかったというわけではない。そのことは、あとでふれることにしよう。」

 つづく


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