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20070902 賢者の言葉・池田敏雄「柳宗悦と柳田国男の「不親切」」・「民芸手帖」昭和五十五年一月号より その2

 『民芸手帖』 昭和五十五年一月号 通巻260号より、池田敏雄 文 「柳宗悦と柳田国男の「不親切」」を引用 (その2)。

 その1はこちら

   * [手仕事の日本] 柳宗悦



四 柳田国男の不親切

 柳宗悦が柳田国男を誤解したとすれば、それは柳田のせいでもあると思われることがある。対談のために、柳田を招いたのは柳の側であるが、そのとき柳田はどうしたわけかたいへん無愛相で、柳の質問にあまり親切に答えようとはしていない。当時その対談を読んで、そのような印象を受けた。
 駒場の民芸館で、「民芸と民俗学の問題」をテーマにしたその対談会がもたれたのは、一九四〇年三月一二日である。沖縄から帰った柳たちは、方言論争の舞台を東京に移して、雑誌『月刊民芸』を中心にさかんに世論を喚起中であった。三月号はその第一回の特集号で、問題の推移を報告すると共に、「敢て県民に訴う民芸運動に迷うな」という沖縄県学務部の声明や、これに対する柳宗悦の「国語問題に関し沖縄県学務部に答うるの書」を、現地の新聞から転載するほか、この問題についての長谷川如是閑、寿岳文章、萩原朔太郎などの評論を紹介している。
 わざわざこの雑誌のために書かれたものではないが、柳田国男の文章も、「沖縄県の標準語教育」という題をつけて転載されている。これは方言論争の起こる直前に、雑誌『コトバ』(一―三号、一九三九年)に「言語生活の指導に就いて」という題で発表された論文の一部を、柳田の許しを得て掲げたものである。この中で柳田は、沖縄の標準語教育を、「朝鮮半島の国語普及政策の、やや筋違いの追随が始まった」とし、「非常時民心の緊縮を機会に、一挙に標準語化の実を収めよう」としているらしく、「沖縄は又実験台の役」を勤めているとはげしく指摘している。さらにまた柳田は、「島には昔から黒札という内法があって、次の違犯者の発見を以て我身の責任を解除してもらうという、その組織を此の禁止の上にも、利用して居るとは情ない話である。女の学校などではおしゃべりがまるでなくなった。何か言おうとすれば自然に違反になるからである」といって嘆いている。
 柳田と柳の対談(『月刊民芸』一九四〇年四月号)は、柳田のことの論文と、折柄もりあがっている方言論争が契機となって実現したものであろう。柳はこの論文を読んで柳田に対する関心を深め、同時にその学問を理解しようとした。さらにまた柳や『月刊民芸』の編集部を代表してこの対談を司会した式場隆三郎らは、当然のこととして対談の話題が、沖縄の問題に発展することを期待していたものと思われる。柳田に近い沖縄県人の比嘉春潮がこの席に招かれているのもそのためであろう。
 しかし柳田は、柳らの誘いに応じたものの、ますます騒ぎの大きくなるのを恐れて、柳を相手のこの対談を迷惑だるようになったのではなかったのか。官僚の経験のある柳田は、文化的な問題と政治上の政策が必ずしも一致しないことを知っており、論争にまきこまれることをきらったのであろう。この点柳田はきわめて慎重で、先の論文では、あれほど沖縄の言語政策をはげしく非難しながら、いっぽうでは、これは「批判ではない」とまえおきして、「再検討するための参考というに過ぎぬ」とわざわざ断っているほどである。
 さてその対談で、柳の方はしきりに民俗学と民芸に共通する話題を見つけようとするのだが、柳田ははじめから異なる点だけを強調するので、話にはずみがつかない。柳田がよく言語も問題にするので、それには方法論的な意味があるのかと問えば、それはいくらかはあるが、言語学に興味を持ちすぎている自分の道楽がすぎてああなったのだ。民俗学とは過去の歴史を正確にする学問で、自分はよく国語の将来に関するような論をするが、それは直接民俗学の目的のなかには入らない。だから、自分の方の仕事からいえば、一方で国語政策の議論なんか発表するのは、誤解を招くおそれがあると答えている。これはあるいは、沖縄における柳の言動を意識しての発言かも知れない。民芸の柳が言語論争をするのも、誤解を招くおそれがあると、暗に釘をさしているとも受けとれる。
 柳田はこの対談で、将来のことを論じたりするのは民俗学の方法には入らないということをしきりに繰り返し、それ以上とりあおうとしない。とうとう柳は、戸惑いながら自分の方から先に結末をつけてしまう。柳が、民芸の方は、「かくあらねばならぬ」という世界に触れていく運動で、つねに将来性の問題と関連があると思うので、その点では民芸と民俗学はちがうようだといえば、それを受けて柳田は、「それははっきりちがう、われわれの方にはそうしたものはない」とそっけなく答えるという風である。
 結局この対談で、柳田は自分たちの学問について、親切に答えようとしなかった。そのため柳は、柳田を冷たい人と受けとるようになったのかも知れない。有賀喜左衛門氏も、この対談について、「柳田先生が、民俗学について自分のほんとうの考えを、柳さんにもっと親切にいうべきだったと思うのです。そうでないものですから、柳さんは浅いところで、民俗学と自分の民芸はひじょうに違うと思ってしまったわけです」という感想をもらしている(座談会「柳田国男と柳宗悦」、『柳田国男研究』三号、一九七三年)。


五 柳田国男と大島絣

 さて民芸館を訪れた柳田国男は、対談に先だって、柳宗悦の案内で出来あがってまだ新しい民芸館の陳列を一覧する。おそらく柳田は、柳たちの期待とはちがって、柳の蒐集品に興味を示さなかったのではないかと思われる。そのときの対談に、次のような個所がある。
柳 われわれの民芸の方は、つねに将来性の問題と関連があると思うんです。
柳田 しかし、柳さんにおたずねしますが、いまこういう風に民芸館に集められた古い工芸品が、もう一度あたらしい民芸としてあらわれてくる時代があると信じていられるのですか。
柳 われわれはおそかれ早かれ将来において、そうしたものが現われる、あるいは現われなければならない部分が、これらの古い民芸のなかにふくまれていると信じて、いま民芸運動をおこなっています。
 柳は、手仕事の美しさの法則をよき反省して、その過去のものをどうしたら、未来に生かすことができるのかを考えている。しかし柳田は、それはなかなかむつかしい問題だと見る。民芸運動が機械に反抗しても結局負けることになるだろう。「手工業のつまり衰えてしまうのを、ある理解者が若干世話したり、貢いだりすれば防ぐことはできましょうね。しかし機械の方はひどくずんずん進んでおりますから、結局において手工業のものを機械で造られたりすると困っちゃいますね」と柳田はこういうのである。
 白たびをはいていた柳田は、そのような生活ぶりから貴族趣味と見られていたが、柳田にとっては、田舎のふだん使いの道具を身辺においたりすることに抵抗があったのであろう。貴族趣味とはいえないが、柳田は法制局の若い参事官であったころ、役所の給仕などとマッチ商標の採集にこったことがある(「マッチ商標の採集」、『定本柳田国男全集』三一巻)。柳田は身分上ただマッチだけを荒物屋に行って買うこともできず、この採集には困難を感じたといっている。
 柳田とちがって、柳は場末の道具屋や田舎の荒もの屋を気軽にのぞいた。柳田には身分がついてまわっていた上に、ひげなどもたくわえていたので、村を歩いても相手がかしこまって固くなることがあったといわれる。
 ところで、民芸館の陳列を見ながら、あるいは柳田は、三十年前に台湾から大陸にかけて旅行したとき、北京で見た清朝の宝物や、そのあと奄美大島の機屋で見た、機織りの娘たちのことを思い出していたかも知れない。
 柳が河井寛次郎や浜田庄司と民芸館の設立を計画中であった大正のおわりごろ、たまたま柳田も、労働問題の立場から手仕事を論じたことがある。柳田が労働問題を考えはじめるようになったのは、北京と大島での「妙な経験」からであったという。
 北京で宝物の陳列を見た柳田は、 然として立ちつくしてしまう。ことに目を驚かしたのは、精巧な細工を施した珠玉であった。つまりみな「帝王の玩具」に他ならぬ、「この愚劣なる一種の趣味の為に、天分ある一個の人生が、万一全部を消費せられても尚足らなかったということは情無い話だと思った。斯ういう目的の為になら、生まれて来ない方がよかった」とまで考える。そして柳田は、「現在の我々の感情では、どんな事があっても此の如き馬鹿げた人力の消耗を寛恕することが出来ぬ」「こんな事の為に働かずともすむように、世の中を改良することが出来ればした方がよい」と思う(「青年と語る」、『柳田集』二九巻)。柳もこれには同感であろう。「無名」や「無銘」を尊敬するふたりにとってh、王侯貴族の歴史や宝物は共に無縁の存在である。
 柳田はまた、大島を歩いていて、北京の記憶を痛切に喚起せねばならぬ機会に出会ったという。一夜の宿を乞うた家が、機屋で、土地の娘を五六人契約して、二階の片隅で大島絣を織らせていた。手の込んだ奇抜な柄になると、中には暗くなるまで働いて、日に四五寸しか織れぬものもある。それは、「今日の機械万能の時勢に対抗して、殆ど織物とも謂われぬ程の、一本竝べの辛気な労働」であった。「目的があまりに詰らぬ為に、此で年を取ってしまう人々の気の毒さ」を感じた柳田は、「一反八十円の九十円のと云う大島は、結局この貧乏な島の娘の、心血を着るようなものであった」といっている(「青年と語る」、『柳田集』二九巻)。手仕事の辛気が労働のつまらなさをいっているのであるが、柳はこれにも同感であろう。柳の民芸美とは、そのような個人的に趣味に堕した、奇抜で繁雑な手仕事ではない。それは素直で尋常な、柳のいわゆる「無事の美」をいうのである。
 台湾で山地の少数民族の織った織物に驚きを感じた柳は、「物に驚きがあるなら、それを産んでくれる人に、一段と驚きが感じられねばならない。物のみを愛して、人に冷かなのは、真に物を愛していない証拠ではないだろうか」といった(「巻頭言」、『民俗台湾』三-六号、一九四三年)。
 柳が各地の民芸品を蒐集したように、柳田もまた民俗資料を採集した。柳がそれを産んでくれた人に、一段と尊敬の念をもったように、柳田もまた無名の人を愛したし、また人の悲しみのわかる人であった。人に冷ややかにして、どうしてあのような仕事を残すことができるであろうか。初めに記したように、柳はその点を誤解していたようである。


六 柳田国男の思いやり

 柳宗悦が、一九一九年の朝鮮の事件で、だれも朝鮮人を公に弁護する人のないのを見て、急いで文章をしたためたその四年前、台湾でも大きな叛乱事件が起きている。そのため大勢の住民が裁判にもかけずに殺された上、裁判では八百余人が死刑の判決を受けた。
 柳の仲間のひとりである武者小路実篤は、その判決に抗議して、「八百人の死刑」という原稿を書き、夏目漱石の手を経て朝日新聞にもちこんだ。いつまで待っても新聞に出ないので、武者小路はそれをとりもどして自分たちの同人誌である『白樺』(六-一一号、一九一五年)にのせている。日本人で、この裁判に抗議したただひとつの例ではないかと思われる。
 その二年後に柳田国男は台湾を旅行している。柳田は事件の現場へ行ったとき、非常に強い印象を受けて、官民有志の集った歓迎会の席で、その悲しみを訴える。その席には、事件に関与した総督府の役人、裁判官、軍人もいたであろう、一座はしいーんとしたそうである。柳田自身も「私も若く意気軒昂としていたのであろう」といっているが、よほど思いきった話をしたのであろう(「故郷七十年」『柳田集』別巻三)。そのくわしいことは別に書いたので(『国分直一先生古稀記念論文集』一九七九年)、ここではふれないが、とにかく柳田も、柳と同じように人の心を動かす悲しい事件を見すごすことができず、それを世に訴えずにはいられなかったのである。
 晩年の柳が「最も公的な意義のある出来事」として、朝鮮と沖縄での出来事を誇らしく回顧しているように、柳田にもまたそのような忘れがたい出来事があるのである。(「故郷七十年」、『柳田集』別巻三)。その一つは一九二五年、上原勇作をはじめ、鹿児島出身の陸軍のお歴歴の大将などを前にして弁じた「南島研究の現状」と題した講演である。柳田はそのころ見捨てられていた沖縄の窮状に対して無関心ではいられなかった。その主たる原因を社会経済上の失敗だと見た彼は、いつも政治と経済の実験台にされ、失敗のしわよせだけを押しつけられてきた島民にかわってその実状を訴えた。
 その二は、その翌年の「眼前の異人種問題」と題した講演である。これは北海道、樺太のアイヌのために訴えたものである。このころ柳田は、貴族院書記官長を最後に役人生活の足を洗い、朝日新聞の論説を書いていた。柳田は「私もまだ若かったので大いに得意になっていたものだった」といい、「両方とも今から思えばずいぶん間違ったことをいっている点もあろうと思うが、私としては熱意をこめて世の識者と当局者とに訴えたつもりであった」と述懐している。
 普選論者の柳田は、吉野作造らと時局批判の演壇に立ち、いかに選挙権がひろく民衆に与えられても、殖民地住民の選挙権を顧みない普選の実施は、手前勝手で理屈にあわぬといっている(「普通選挙の準備作業」、『柳田集』二九巻)。このころ、朝鮮や台湾の住民のことを考えたものが何人いたであろうか。選挙に期待をかけていた柳田は、戦後間もなく参議院議員選挙に出馬した、当時まだ日本共産党員であった作家の中野重治を支持したことがある。
 柳田は世の中をよくするためには、人びとがかしこくなることだと考えていた。そのため彼は民俗学者であると同時に愛国者として、「将来のことはわたくしどもの学問の範囲ではない」といいながら、将来のことを論じたり、また現代人の心得方を論じたりして世論を呼び起こした。それは若いころ、「役人に許される最大限の自由を以て、時世を観察し政策うぃ批判し」、「其日々々の正しいことを主張して相譲らなかった」(「法制局時代の上山氏」、『柳田集』二三巻)、明治興隆期の開明官僚の気風を受けつぐものであろう。
 柳は大正期のはじめに、学習院の仲間を中心とする白樺派の運動に加わっており、その点柳田とは系歴を異にしている。そのため深いところでは共通するものをもちながら、沖縄の言語問題で、柳は柳田を誤解することになった。
 柳宗悦は一九六一年になくなっている。柳につづいて柳田国男も、その翌六二年になくなった。なくなったあと金関丈夫先生と、駒場と成城のお宅で、琉球の厨子の柳と、小さな仏壇の柳田に合掌した。追想の念がつのるが、ここでは敬称をはぶいた。」


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