20070909 賢者の言葉・原広司『集落への旅』・「豊かな<世界風景>に向けて」
原広司著 『集落への旅』 (岩波新書 1987) より。
原広司著 『集落への旅』 *
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「Ⅴ 集落のある<世界風景>
4 豊かな<世界風景>に向けて
<世界風景>の演出者 サバンナの集落を歩きながら、世界のすべたの集落が共有している<一覧表>と<配列表>があるのではないかと思った。おのおのの集落は、この共通の図表から、思い思いに適当な要素の組み合せと配列規則を抽出し、これらを素材として、工夫と考案を重ね、具体的な集落を計画したのではあるまいか。遠く離れ、たがいに見知らぬふたつのグループは、たまたま同じ要素の組み合せや、同じ配列規則を選んだがために、そしてまた彼らが対した局所的な自然が、たまたま同じような工夫や考案を誘導する条件をそなえていたために、物象化された集落は極似したのではないだろうか。それが、<飛び火現象>であったのではないか。また、大局的には同じような自然条件にみえている場所であっても、選択された建築的なことばのあつまりのちがいや、配列規則のわずかなずれによって、異種の集落が誘導され、それが文化的な混成状態をつくりだしているのではないだろうか。
そして、この<一覧表>と<配列表>こそ、多様にして、しかも差異と同一の関係のネットワークで結ばれた集落が立ちならぶ<世界風景>を演出している。いいかえれば、限られた場所、地域にありながら、人々はたがいにそれとも知らずに問題を共有し、その問題はあちこちで独自に解決され、ただしその結果は方言化され、独特な仕掛けとして解等されたのであり、それが集落がならぶ風景である。そうした意味で、人々はふたつの表を共有することによって、住むための文化を共有しており、これが「インターナショナル」とよばれる関係性の基礎となっているのだろう。
もちろん、あらかあじめ<一覧表>や<配列表>があるはずはない。人々は実に長い時間をかけて、空白な紙に、自分たちが実現した計画を登録していった結果、こうした表ができてきたのであり、もしこの表を実際に書こうとしても、部分的にはうまく書けても、総体としてはモデルとしてしか表現できない一種の無限の変化を誘導し流出する機械である。私たちにとっては、そのような<一覧表>と<配列表>が、あたかもはじめからあったようにみえる現実の方が重要である。なぜなら、ユニバーサリズムとしての均質空間もまた、近代が採用したひとつの無限流出機械であるからだ。しかし、均質空間といえども、住むためには、ものとその配列法が必要であり、つまり<一覧表>と<配列表>を使わざるをえないのである。
自立する空間 グロビウスが残した「インターナショナル」ということばは、彼がのりこえてゆこうとした対象をあらたに編成しなおした<世界風景>のなかに判読される。この風景はまた、ゾーニングに準拠した風土論のそれからも離れている。それは、観察点を低め、現象を一様な状態としてではなく混成状態でとらえ、とくに全体にたいする考え方を変えた結果である。
もし、今日、場所あるいは地域という概念をもって、住むための文化にあたろうとするなら、第一に、<一覧表>と<配列表>で確認された通りの他地域との課題の共有性、つまり文化の共有関係を認識しなくてはならない。そこから固有な文化という錯覚の排除をはじめ、さまざまな見解や表現活動のレベルの態度が誘導されるだろう。他の地域で考案された仕掛けの採用、置き換えなどが可能になるのも、この認識があるからである。
第二に、地域、場所を生体的秩序としてとらえる全体観をすて、意味ある部分の自立性を認めてゆく態度が要請される。これは<混成系>の美学をみちびく。と同時に、<配列表>がものの近さを規定しながら、人間の近さに言及していることを考えれば、人間関係についてもあてはまるであろう。
第三に、局所的な自然に対応する仕掛けの考案は、つねに要請されたきたし、この事情は今でも変らないことである。
地域、場所に立脚点をすえるのは、地縁的な社会への復古や、古い美学への回帰を意味するものではない。それは、文化の共有関係や古い全体観の廃棄によっても、説明されている。それは、より豊富な部分からなる<全体>へ向かうための、地域的、場所的部分を表現してゆこうとする方法であるといってもよいかもしれない。しかし、復古と一線を画するためには、さらにひとつの方向性をはっきりしておいた方がよいかもしれない。
集落が共有する<配列表>の内容であるが、かつて集落がさまざまな支配や抑圧によって、あるいは稀薄な自然力に対応せざるをえなかったために、<配列表>には、ものの多様な展開と自由な人間関係を保障する配列規則が書かれていたとは限らなかった。そこには、強い中心性をもつ集落や、強い管理下の地割型集落や、逆に住居の自立性を認めるメディナ型の都市や、私たちが多分に理想化して見てはいるが自由な近隣形成を許容するインディオの集落などの配列規則が記入されていたのである。そして、こうしたさまざまな社会があることを、ともすれば多様性が展開されていると誤読しがちであるし、「美しい!」といってしまいがちである。未来に向けた<配列表>には、ひとつの配列規則だけ書かれてればよい。それはもっとも豊富なる部分をもつ<全体>、ちょうどファシズムの逆の極にあるあらゆる部分を意味をもち自立する空間の配列規則である。
地域、場所に立脚することは、ユニバーリズムを排して、この空間に向かう方策なのだ。そこには、人々が自然に対し、局所的にさまざまな仕掛けを考案して、はじめてこの配列規則が具体化するという予想がある。そのとき<世界風景>は、集落が立ちならぶ風景よりはるかに多様で豊富な内容になっていると思われる。この<世界風景>は、ウパニシャッドやネオプラトニズムが、ニコラス・クザヌスやジョルダーノ・ブルーノが、そしてサンディカリストやアナーキストたちが、芸術の領域では古く連歌師たちが、そしてシュールレアリストたちが構想し、私たちがかいま見たユートピアなのだ。」
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