20070913 「民藝」 42号・1956年06月・江戸小紋/唐草の模様
表紙:唐草の模様
目次
[みんなで文化財を保護しよう]//[江戸小紋]本吉春三郎/[琉球の紅型]東恩納寛淳//対談[型染・装幀・着物 芹沢銈介氏の歩いた道]芹沢銈介・中村精/[萠木会の仕事]岡村吉右衛門/[滅びゆく阿波の藍]久米惣七//グラフ[唐草の模様]//[唐草染について]小川竜彦/[伊勢白子の型紙]富田馨吾//[ユーゴスラヴィアの風俗]/[きものは移る]大塚末子/[中世の結髪と衣裳]富田トシ/[浜松の凧揚]渥美静一/...
「型染・装幀・着物 芹沢銈介氏の歩いた道」 (14-15頁)から
発刊時の時代背景を知るには : 1956年
グラフ「唐草の模様」 (28-29頁)から
「ユーゴスラヴィアの風俗」(36-37頁)から
テキスト引用:
9-11頁 [琉球の紅型]東恩納寛淳
「 琉球ビンガタに、紅型の字をあてたのは、故伊波君である。青黄とろどりの色彩があるのに、紅の字をあてるのは、どんなものかと疑つても見たが、同君は、わらべ語で、キレイな着物をアカベンアカベン(この語は九州辺でも使つている)と呼んでいるから、差支あるまいと云つていた。私は、インド更紗の事が気になつて、或はベンゴールのベンと関係のなきものかと、考えられて、紅型とする事には、やや躊躇しているが、こう流行語となつて了つては、致方がないから、詮議は後の事として、暫くこの文字を使用しておく。
紅型が今日のようにもてはやされたのは芝居の舞衣裳に使用されてからの事で、それも今日のように精巧なものになつたのは、それほど古い事ではない。紅型の文様を見ると、能衣裳から出た有職文と、中国伝来のマントンから出た波文と、世持橋の欄干石彫等に見る在来の魚貝文とが、基調となつている事に気が付く。ところが花鳥文等に色も形も想像外のものがあつて、それがインド更紗に類似のものを見出す事が出来るので私はこの間に何等かの関係があるように考えている。
琉球の方言では、服飾類でも、調度品でも乃至は人の容姿でも、粗末なものをすべてシヨーべーと唱える。商売の方音で、商売品即下手物と云う観念から出たものである。一六八三年の冊封使汪楫の使録に、「花紋の工にして細なるものは、皆機抒にして、これを製成し、己の用となし、相交易せず」とあり、歴代の使人達もほぼ同様の事を云つているがこれは事実で、絣や縞物の場合も同様、自家用はすべてが手製か、さもなければ誂文に出すのが建前で、既製品の商売物で間に合わせるのは、よくよくの事で、恥しい事に考えられていた。ところが、紅型の場合は、そうは行かない。この工作は、自家では到底出来る事ではないので、この染織に限り専門の職人が出来、従つて技工の上にも熟練工夫が加えられて、発達を促す原因ともなつた。一八〇〇年の冊封使李鼎元はその工程を説明して、国人印花を善くす。花様一ならず。皆を紙剪つて範(かた)をつくり、範を布に加え、灰をこれに塗り、灰乾きて範を去り、乃ち色を着け、乾いてこれを浣(あら)い、灰去つて花出づ、愈々浣つて愈々鮮、衣敞(やぶ)れても褪(さ)めず、これ必ず別に製法あるらしきも、秘して人に語らずと云つているが、この工程は今日でも同様である。ただ李大人は、その不褪の染料が福木と生臙脂である事には言及していない。
紅型職人は首里だけで、那覇にはいない。紅型の使用は、首里も上流貴族だけの事で、那覇ではテジマが精々で、紅型は使用しない。それで那覇辺では、紅型衣裳を、首里上流婦人の服装であると云う意味から、アヤメーヂン(貴婦人衣裳)と呼んでいた。那覇では、紅型と云えば、ビンガタウチュクイと唱えて、風呂敷位のもので、嫁入の時に、フトンや針箱、櫛箱等を包むのに使用されるもので、特に根引風呂敷(根引は婚礼の意)と唱えられた。民芸館あたりに陳列されているのがそれである。一七六二年の大島筆記に染工精巧なるはなき由、それ故大方シマなり。此度も風呂敷を見たるに、上布を紺地に染め、梅の折枝に色取したる随分古風なる染なり。とあつて、この記事は玉城朝薫の組踊から約四十年も後の事になるが、その頃までも染工の精巧なものがなかつたとすると、組踊が出た当時の服装はどんなものであつたろう。
朝薫の台本には、後世紅型衣裳とあるべきところに、すべて「琉縫薄衣裳」とあり後に出た組踊台本もすべてこれにならつてさも紅型衣裳の別名であるかに見えるが、この語の意味が実は不明である。琉縫を琉装の仕立方とするならばそう断る必要は毫もなく、薄衣裳も袷衣には当てはまらない。そう考えられる事は、縫薄は、縫箔のあて字で寛文頃まで武家の間に流行した縫箱小袖の事ではあるまいか。即ち在来の形付に、色糸をあしらつた程度のものではなかつたかと云う事である。この時の冠船の徐葆光の使録に、「朱色のタビ、五色の長衣を着け云々」とあり、台本の「緋さや足袋、琉縫薄衣裳」に相当する。
形付は、おもろ語に「ゑがきみはね」とあるもので、古くからある。建武式目追加、徳政時制札案文に、「絹糸のたぐい、ゑさんの物云々」とある中の絵袗がそれで、それが、伝来していたものであろう。室町期に文化交流のあつた事は、女房言葉が数多く残つている事でもわかる。西鶴の町人鑑に、「近年書絵小袖を仕出して俄分限になりぬ」とある書絵小袖もそれであろう。享保十八年(一七二三)九月の評定所廻文にこう云う事がある。一、似せ念仏仕候儀、七月十三日夜より同十六日夜迄御免。尤首里は各平等(1)中、那覇・久米・泊は村中、田舎は各間切中にて可仕候。喧嘩口論は不及申、支度(したく)(2)之儀、サジ(3)帯迄も、絹布用間敷候蕉布木綿の類にても、絵書衣致着候儀、且又八月十五日夜外、一向禁止申付候事、この廻文は盆の十三日から十六日まで行われる七月エイサに対する訓令で、八月の十五日は綱引があつて、在々所々きほい立つので、それに対しても併せて戒告したもので、この文中の絵書衣が絵袗であろう。この風俗はずつと後世までも、地方には残つていたらしく、明治の末頃、島尻郡長斎藤用之助氏が伊平屋島を巡回した時、出迎の学童の中に、白木綿に墨絵を描いた晴衣を着て出たものがつて、郡長さんに眉をひそめさせた、と云う事を、一千年吏の著者真境名笑古が伝え聞いて、これこと古への「ゑがきみはね」の遺風であつたのに、と憤慨した事があつた。結局、紅型と云うのも、「ゑがきみはね」や、絵袗、絵書衣の進化したものであつた。
(1) 平等(ひら)、首里三平等(みひら)、雨霜四町(よまち)と唱く、行政区画の名
(2) 支度(したく) 八月十五日綱引行事の時にくり出すダシの事、
(3) サジ(巾) 鉢巻の事、台本に紫長巾(むらさきながさじ)などある事
紅型の文様に、能衣裳の有職文や、マントンの波文が基本となつている事は前にもう云うた。そして又、紅型は、首里の上流貴族間に主として使用されたものである事も述べたが今一度この事を取上げて見る。上布や絣の場合もそうであるが、王家を中心とする貴族社会では、唐物大和物等いろいろの工芸品に接して、趣味も嗜好も進み、それにつれて、思い思いの意匠をこらし、納殿に下して絵図に作らせ、カネもヒマもお構いなしに御用命になるのが常で、現に先島の上布など、御用布(ごいふ)の命を受けた時に、間切役人が織手を集めて評議にかけ、織れる見込が立てばお請けして、織にかけ、いよいよ織上がつた時の慰労の会を「安堵祝」と唱えていた事からでもいかに重大な公事事(こうじごと)であつたかが知れる。紅型に有職文様が多く取入れられているのも、こう云つた堂上の好みから来たもので、従つて寛文の向象賢の大和芸能以後のものであつて、正徳、享保間、能の流行組踊の出現があつてから、いよいよ進歩したものである事が知らされる。
紅型更紗のもとと思われるものは、成化十六年(一四八〇)四月十二日附で、シャム国からの到来品の中に、「上水花布一十条」とあるのが始見である。上水と云うのは、メナムの上流百哩ほどの地点にあるパクナムポウ(PAKNAMPOH)附近の事で、メーピン(MA-PING)メーワン(MA-WANG)メーヨン(ME-YON)メーナム(NE-NAM)四水の合流点で、パクナムポウと云うのも、水口の意味である。ここから河口に至る間がメナム・チャオピヤ(ME-NAM-CHAOPHYA)(メナム公)と呼ばれてシャム王国の大動脈である。さればこの地はインド及びビルマとの交通の要衝に当り、又シャムサラサの主産地でもある。けれどもシャム更紗は仏像をすり出した所謂人形手が特徴で、紅型には絶えてその手法が現れていないし、その上、花鳥文がインドサラサと類似している事から見ると、上水花布と云うのも、その地方を通つて来たインドサラサで、それが紅型の手本となつたものかと思われる。
同じ感化年間に、朝鮮の漂民等が見聞した記録に、班染繒で頭を包む風のあつた事が見えているが、班染繒と云うのは、いろいろに染めわけた絹物の事であろう。ジャワ・スマトラ等の島民は、ターバンとはちがつた四角な布片で頭を包む風俗が今日でもある事から推量すると、最初に伝来した上水花布も四角な風呂敷ようのものではなかつたか。同じ表文の中にも又その前後のそれにも、反物類はすべて何匹と書き出されてあるのに、上水花布が、十条とある事でも、布片であつた事が考えられるようである。古風な染め方の風呂敷が比較的早く見えているのも考えて見度いものである。」(一九五六、四、四)
民藝 42号は、ブックスボックス 田原書店 で、販売中(一部限り)です。
HW5040 民藝 42号 江戸小紋 (表紙:唐草の模様) 昭和31年06月号 1956 東京民藝協会
500円
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