20070923 賢者の言葉・吉田健一 『交遊録』 ・「吉田茂」
吉田健一 『交遊録』 * より、「吉田茂」。
「 父に就ては本式の伝記のやうなものは別として以後もう書かないと前に公表したことがある。その趣旨は今でも変つてゐない。併しこれは交遊録であつてここで扱つてゐる人達の伝記ではないまでもそれに資することも心掛けて書いてゐるのであり、この前に拒否したのは少くともその頃の時好に投じて何かと父に就て書き散らすことだつたので父も生涯に親しくした人達の一人であるから当然この交遊録に入れなければならない。併しそれが親しくなつた順序で最後に来るのに就ては先づその辺のことを説明することから始める必要がある。
こつちが生れた時に父は任地にあつて父を顔を合せる前に牧野さんを知ることになつた。この状態がいつまでも続いた訳ではないが、その上で父との間に出来たのがあり来りの親と子の関係だつた。この頃はその関係に就て恐しく穿つたのでなければ論者の思考力の不足が目立つ類のことが説かれてゐて過つてこれに耳を貸せば親であり子であることが人間の一生の不幸であるといふ錯覚に陥り兼ねない。併しその種の説は思考力の不足の他に先づ例外なしに所謂、為にする所があつてのものであることも自明であつて少くとも子の立場からすれば親は空気同様にあつてもないやうなものであり、それがこの点も空気と変らずもしなければ困るものだといふことまで子の方は多くの場合思ひ至ることがない。又その状態が一生続くこともあつて何とかの断絶と言つた類のことは殊の外に話にならない親子のことを取り上げて勿体振つた註釈を付けたものと思へば足りる。
併し父との場合は二人とも或る程度の成長を見てから一時は寧ろ意識して遠ざかつて行つたといふ経緯があつてこれは人間の中では女よりも男にとつての仕事といふこと、それも二人のうちでは父の仕事と関係がある。これを一口に言へば父はその一生の大半に亙つて不遇の境地にあつた。それは必ずしも初めからではなかつたかも知れなくて曾て父から聞いた話ではその在学中にどういふ職業を選ぶかに就て考へて世間を見渡した所上役に頭を下げずにすむのは役人だけであるらしいので役人になつたといふことだつた。今日では想像し難い話であるが父が外務省に入つた明治三十年代の日本ではさうだつたやうで独立不羈と言つた精神がその頃の官界で尊ばれてゐたことは他の人達の例でも解る。併しその次に来た大正の時代が何か奇妙なものだつたことに就ては河上さんの所で既に触れた。又その明治から大正への変化は微妙なものだつたに違ひなくても例へば明治型の役人が大正に入つて喜ばれなくなつたことは容易に想像出来て父も大正を通してその立場をどうにか守り続けて外務次官まで行つたのではあつても昭和の初期にその位置から転じてイタリイ駐剳を命じられたのは表向きは昇格であつて実質的に左遷であることは実質的にと断るまでもない位誰にも解つてゐた。
その任地にある間に満州事変が起つたのはさういふことが重なるものであるといふことよりも時代がさういふ風になつてゐたことを示す。この事変から大東亜戦争の終結に至る一聯の出来事が歴史の上から見るならばあるべくして起つたものであることは横光さんの所で書いた。併し当事者の立場からすれば話が違つた性質のものになつてこの昭和十年代の一時期のやうに政治、外交、或は一般に政治と呼ばれてゐるものが乱雑に、或は無秩序に、或は無節操に行はれたのは少くとも明治以後それまでの日本の歴史になかつたことである。その後に便乗と呼ばれることになつたものが人間の行動で目立つことになつたのもこの時期でその限りではこれが戦後の日本を前触れするものだつたとも言へる。一体に歴史が転換期にある際にはかうした事態が生じ易い。これはそれまでの条件に基いて培はれて来た常識、見識が局面の収拾に役に立たなくなる為でそれでも収拾は試みられることが混乱に拍車を掛けて転換が転換と認められて常識が再び働く余地を与へられるまでそれが続く。又もしそれが明治維新のやうな大変動であるならばそれが起つたことがこれを推進する精神の持主達の存在を示して悲劇はあつても混乱は免れるが昭和の転換期は明治維新の線上にあつてその一つの帰結だつた。
そして父は当事者の位置から外されてその時期を送つた。かうした際にそれまでの見識が役に立たなくなると書いたが別な言ひ方をすればどういふ見識も転換がその通りに転換なのか、それとも単なる逸脱なのかの区別も付かない間は行動の面では用をなさなくて暫くは静観の態度に出ることを強ひられることになり、殊に満州事変が始る辺りからの日本の情勢では何かが起らうとしてゐることに当りを付けるだけで充分な連中が表面に出る以外には人の動きが止つた形だつた。これに就ては機に敏感に応じるのが我々日本民族の性格の一つであることを理由にでもする他ない。その頃に松岡洋右といふ人が満州事変の処理に就て国際聯盟の会議に政府代表で派遣されてゐて派手に活躍し、さういふ或る日牧野さんの所に行くとまだ在職してゐた牧野さんが役所から帰つて来て今は最悪の事態と言つたのを覚えてゐる。そのうちに松岡洋右のやうなのも出る幕でなくなつた。
父の不遇を示す一例に昭和十一年に二・二六事件といふものが起り、これも我が国民の一つの性格である或る微妙な平衡の感覚からそれまで横暴を極めてゐた所謂、軍部がこの一挙で全く国民の信望を失ひ、それから暫くの間はこの軍部を抑へることも一応は見込みがあることに思はれた。この事件の処理に新しい内閣が出来ることになつてイタリイから帰つて以来といふもの浪人してゐた父が入閣することに決つたのもその現れだつたが軍部はその場合は新内閣に陸軍大臣を送らないといふその頃から用ゐ始めた手段で父の入閣を阻止し、その埋め合せといふやうな意味で父は駐英大使に任じられた。曾ては駐英大使といふのが外務大臣にも増して外交官にとつての名誉ある地位だつた。併し当時は既に米英がどうとかしたといふ時代であつて一般の眼から見れば父はひどい所に行かされることになつたのであり、そのやうに父の任命が発表された際に事実人に言はれたこともある。この新内閣の首班は父と同期の広田弘毅氏だつた。
これが昭和の初めにイタリイに暫くゐた時から終戦までの間に父に与へられた唯一の職で二、三年して英国から帰つて来ると父は又もとの浪人生活に入つた。その十何年かに亙る時期の父といふものをこれを書いてゐて思ひ出した。それは父が経済的にも窮迫してゐた時期だつたに違ひない。併し明治の役人といふのはこれは二葉亭四迷の場合でも解るやうに所謂、天下国家のことが常に念頭にあつて又その仕事をするのが役人でもあつた。父にその仕事は既になくて天下国家は父の眼にはただ壊滅に向ふものに映り、その見方に狂ひがなかつたことは我々も知る通りである。まだ牧野さんにはその能力を十二分に発揮した記憶があつた。併し奉天総領事とか駐伊大使とかで仕事の面での生涯を終へることはまだ五十代の半ばを過ぎたばかりの父には堪え難かつたに違ひない。それも天下泰平の時代に役所勤めにも飽きて引退するのならば別であるが父には許し難いことがその周囲で行はれてゐて父はそれを傍観する立場に置かれた。
尤もこれは必ずしも傍観するばかりだつたとも言へない。父が終戦まで、ここで憂国の士を語らつてと書く積りでゐたのであるが戦後の日本でこの憂国といふことがどのやうに荒唐無稽の意味に用ゐられてゐるかと思つてこの言葉が使ひたくなくなつた。それならば同好の士とでも言つて置くか。父が終戦まで同好の士を語らつて何かと画策してゐたことも事実であるが、それが凡て裏目に出て非合法に投獄されて何ヶ月か後に釈放されたのが終戦の数日前だつた筈である。併しそれまで画策することで暇が潰せた訳でもなかつた。父は外務省から送つて来る文書の裏を使つて習字をし、漢籍を読み、又東京クラブに出掛けて行つて他の会員と玉を突き、夜はよく新橋辺りで飲んでゐたらしい。尤も今日での政治家が何かと画策するのが某料亭に会合してといふ風になつて新聞に出る。ただ父の行動に注意してゐたのは当時は軍部だけだつたかも知れなくてそれ程に父は一般には無用の人間になつてゐた。それとも所謂、国賊だつたのか。
その頃の父には何か目も当てられない感じがするものがあつた。それが初めに書いた男にとつての仕事といふものである。何か男にとつては仕事をするのが成長するのに必要なことであるやうでその方面での自分といふものを確認する所まで行かない間は成長が完了せず、その機会を奪はれれば成長が阻止される。ここで考へていいのは父の場合に所謂、立身出世をすることが仕事をするのと同義語であり、それが自分で選んだ職業が役人だつたのであるから避けられないことだつたといふことである。牧野さんはその頃の父と同じ年輩の時に既に各国駐剳の公使、外務大臣を歴任してパリ講和会議の全権の一人に選ばれてゐた。父は外務省からも引退してゐた。これは長い間待命といふ要するに屈辱的な立場に置かれてゐて自分から定年になる前に退官したのである。もう一つ思ひ出すのは家に誰かから貰つた黄と黒の奇妙な斑のグレイハウンドがゐて父が毎朝これを連れて散歩に出掛けてゐたことである。その途中で父がどんなことを考へてゐたか想像したくもない。
それでこつちの話になる。丁度その十何年かがこの交遊録で書いて来た人達の多くに最初に会つて付き合ひを始めた期間に当る。その面では恵まれてゐたと言ふ他ないが、この人達が凡てそれぞれの分野で既に仕事をしてゐたことも前に書いた通りでこつちは仕事と呼べる程のものをまだ何もしてゐなかつた。ここで天下国家のことと文章の仕事の比較といふやうなことが意味をなさないことに就て多く言ふ必要はない。さう仕事といふものに種類がある訳でなくて一人の人間が自分の仕事に選んだものが仕事である。そして父がその仕事からはぐれてゐたのが大正から昭和に向つて日本がその歴史の上で或る転換期にあつた為であるのに対してこつちに仕事らしい仕事が出来ずにゐたのはもつと簡単に文章といふのがいつの時代にも幾つかの蹉跌があつてからでなければ自分のものにならない性質のものであるからだつた。併し理由はどうだらうとかうして二人の人間が同じ家にゐて思ひ思ひにその志を得ないでゐたことになり、それが諦めるといふやうなことを許すもんでなかつたから互に顔を合せるのも苦痛だつた。今思ひ出して見てもこれがこつちの一生のうちで最も暗い時代だつた感じがする。
終戦になつてこつちが海軍から除隊になつて大磯の家に戻つて来た時父も陸軍の衛戍監獄から出されたばかりだつた。尤も監獄で出来た腫れものが直つたばかりといふことだつたから釈放されてから少しは日数がたつてゐたかも知れない。その小さな家中を探しても白葡萄酒一本しかなくてこれを冷やす方法もなくて二人で飲んだやうに覚えてゐる。それはいい月夜の晩だつた。その時のことを思ふと妙な感じがしえ父は自分の時代はもう終つたと言つて又実際にその積りでゐるらしかつた。それはこつちが何が終つたでもなくてただ何もない感じでゐたのとさう違つたものでなかつたことが想像される。その家にそれから幾日かゐてこつちは家族の疎開先に行き、そこにゐる間に父が入閣することになつたと記憶してゐる。その辺の前後が余り確かでないが入閣がいつのことだつたのでも働き盛りの時に仕事が出来るどういふ地位からも遠ざけされてゐて漸く外務大臣に就任したのが敗戦国の日本であることからしても父が不幸な人間であることは間違ひないと思つたのは覚えてゐる。
そのことに就ては後で更に述べなければならない。兎に角父が入閣し、更に何度か組閣する時代になつて父との行き来がそれまでよりも頻繁になつた訳ではなかつた。その理由は全く日本的なもの、或は少くとも戦後の日本の特色をなしてゐると思はれることにあつてそれに就て書いて置くのも或は何かの意味で無駄でないかも知れない。これが戦後のことども考へられるのは戦後の日本で内閣総理大臣といふものの権限がそれまでと比べて法外に強大なものになつたからであつてそれに当人が馴れてその影響を受けないやうになるまでに時間が掛ることを父からも聞いたことがある。併しさうでなくても何故か日本では要職にあるものの廻りに人が集る傾向があつてこれがその下にゐるものを飛び越えて直接に色々と請願する為ええあることはこれは日本では説明する必要がない。そのことをこつちが戦後になつて知つたのがそれまで要職にあるものと行き来がなかつたからでないならばこれはやはり昔の日本では要職にあるものの境遇が違つてゐたことになる。
初めのうちはこつちも官邸まで出掛けて行つて安ものながらウイスキイがあるのを重宝なことに思つてゐた。併しそのうちにこつちも請願の対象になることを知つて考へなければならなくなつた。この時期のやうに誰だか解らない人間に馴れ馴れしくされたことはない。恐らく要職にあるものと行き来してゐる人間の顔触れは直ぐに調べが付くものと思はれる。又その為の網は細かく張り廻らされてゐて請願を避けるには父の所に行くのを止める他なかつた。それ以外に聯絡を取る方法は幾らもあつて可哀さうにそこまでは請願組、利権漁り組の眼が届かなかつたらしい。兎に角それで父の在職中の六、七年間は殆ど顔を合せずにゐて便利なことに父の動静は特別な工作をしなくても新聞その他で細かなことまで解つた。ただ一度だけ講和条約の調印にサン・フランシスコに出掛ける前の晩に家族と一緒に会ひに行つたことがあつてその時父が蒼白な顔だけ残した骸骨のやうになつてゐたのに驚いた。
それで父が不幸な人間だつたといふことを考へ直す必要が生じる。父が戦前にしたことと言へば支那に在任中に満州の経営に或る程度の貢献をした位なものでその為の関東軍との交渉も後に所謂、軍部を本式に相手取つての画策の小手調べに過ぎなかつたと見られてその画策は父の負けで終つた。併し歴史を見てゐると政治家には二つの型があつてどういふ政治家もその何れかに属するものであるやうに思はれる。これを大ざつぱに説明して一つは世が治つてゐる時代の政治家、もう一つが乱世の時代の政治家であり、その何れかの方が優れてゐるといふのでなくてこれは分類の上でのさういふ二つの型でどの時代にもその時代の政治家が必要になる。もし明治維新を例に取るならば西郷隆盛は乱世型の政治家、大久保利通がもう一方の治世型であつて英国で治世型の政治家が何人でも挙げられる中にチャアチルは典型的な乱世型であり、その両次の世界大戦中の功績とこの両大戦の間に来た時期にチャアチルが全く無為だつたこと、又第二次世界大戦が終つて直ぐに政権の交替があつたことでもそれは解る。それと同じ意味で父は明かに乱世型の政治家だつた。これは父をチャアチル、或はド・ゴオルその他と比較してゐるのでなくてその何れもが同じ型に属すると言つてゐるのであり、かういふ逸材の業績となれば政治も文章の仕事と変らず優劣を定めるのが目的で比較することが意味を失ふ。
そのことから父がその生涯の大半、或は少くとも前半に亙つて時を得なかつた理由も解る。何と言つても大正から昭和の初期に掛けての時代は明治維新がその所期の目的を達して動乱の影が遠ざかつた状態にあつたものでもしこれがそのまま続いたならば父は旨く行つて無事に年期を勤め上げて一老外交官でその生涯を終る程度のことに満足しなければならなかつたと考へられる。それならば実際の父が不幸な人間だつたと見ることは許されなくなつて乱世型の政治の大才を抱いた人間に乱世が廻つて来た。先づ国の存亡が問はれる以上の乱世といふものはなくてその際に父が在職してゐなかつたならば日本がどうなつてゐたかは日本の所謂、知識人が喜びさうな問題である。その在職中に父に対して行はれた一般に輿論と呼ばれてゐるものの内容は顧慮する必要がないもので生憎まだ明治以後の日本に政治を左右するに足る輿論といふものは存在せず、その代りをしてゐるものが大久保利通や原敬の場合のやうに父を殺すに至らなかつたのはせめてものことだつた。或はそこにも父の運が強かつたと見る材料がある。
併し乱世型の政治家だつたから父もチャアチルの宿命を免れなかつた。日本が当時の言葉で言へば独立してからも暫くの間は父は自分にまだ残つてゐる仕事があると思つてゐたやうである。ここで政治評論家風の語調にならなくても今日の日本が直面してゐる問題のうち父が自分で処理する積りでゐたものが幾つかあつたことは確かであるが情勢がそれを許さなかつた。そのことに父がいつ気付いたかといふやうなことは考へるだけ無駄である。併し治世、乱世と言つても政治の要諦そのものに変りがある訳でなくて父は政治家であり、それまでと違つて自分が仕事をする時代が去つたことをやがて知つたことに疑ひの余地はない。その時代といふやうなことよりも自分の仕事が終つたことを知るといふことが大切である。或る種の人間は死ぬまで仕事をする積りでゐて死に顔が真黒に見えるまで書き続けたバルザツク、或は百歳になれば少しは絵らしい絵が書けるだらうと思つてゐた北斎の例を考へるならばこのことのよし悪しは我々の判断が及ぶことでなくなる。併し死ぬまで仕事をすることに我々が頷けるにはその仕事が全く生活の一部をなすに至り、それが例へば昼間の光が夕陽に変るのに気付くことを少しも妨げないまでに精神に馴致されるのでなければならない。
父と漸く親しくなつたのがその引退後だつたのは父自身の状況と並行して何故かそれと殆ど同時にこつちも自分の仕事に見切りを付けることを知つた為だつた。それが文章の仕事でも二、三十年これをやつてゐれば自分がする積りでゐたことは大概なし遂げるもので或る時自分のこれからどうしてもしなければならない仕事といふものがもうないのを感じた。或る意味では人間はそれを感じる為に仕事をし続けて来るのかも知れない。その瞬間からもしそれまでの仕事が書くことだつたのならば時は原稿の枚数の多寡でなくてただ刻々とたつて行く。それを原稿の枚数で計ること自体が人間の自然な呼吸とでも言ふ他ないものからすれば無理なことなのでその呪縛を解かれて精神も伸び伸びする。従つてそれからの方が書く仕事でも仕事らしいものが出来るのかも知れないがそのやうなことにまで構つてはゐられない。万一もし我々の仕事が死後にまで残るやうなことがあるならばこれはその死後に他のものが詮索することである。
兎に角父と付き合ふことを妨げるものは既に何もなかつた。それには父が引退したといふことともつと直接に関係がある理由もあつたので利権漁りや請願は主に現に要職にあるものに対して行はれる。尤も父の場合は最後まで実質的には引退することがなかつたとも言へるのでこれが劇務に携つてゐたものに引退してから起り勝ちな老衰を防いだとも見られるが、その為に請願その他に就て父に対して仲介の労を取ることの引き受け手は既に幾らもゐてこつちはその難を免れた。さういふ口利きの連中を父は適当にあしらつてゐたに違ひない。それが集つてゐる中に入つて行くのは愉快でなかつたが父は何と言つても暇な身であつてさういふ忠勤組とこつちが内心称してゐたものを外して父と会ふのは電話一本で出来ることだつた。かうして父とどの位会つただらうか。それで不思議に思ひ出すのはこつちがまだ仕事といふやうなことが頭にない子供で父は総領事、或はどこかの日本大使館の何等書記官かで一応は順調にその仕事を進めてゐた頃のことである。本当に子供にとつては親は空気のやうなものなのだらうか。これは一般論としてはさうと考へられるが世界地理をこつちに具体的に教へようといふので任地を離れてどこか他所の国に旅行する毎にこつちにそこの絵葉書を送つてくれたりしてゐた父との間にはもつとどういふのか温いものがあつた気がする。
併しそれは後に知つた晩年の父と比べられるものでなかつた。今でも先づ頭に浮ぶのは一頭の巨大な豚であるが引退してからの父はサン・フランシスコ条約当時の骸骨と違つて全く豚といふ他ない太り方をした。これはもともとが太る質だつたのに違ひなくてその中年の頃は確かに太り気味だつた一時期もある。それが先づ戦争中の監獄、次に戦後の劇務で再び太る暇が何年かの間なかつたものと見られてその劇務で思ひ出したのはいつのことだつたいか父が在職中にどうしても会ふ必要がある用事が出来てそのことを言つてやつた所が或る日取りの午前三時といふ返事だつたことで、その時刻に行つて見ると机に向つて書きものをしてゐた父が書くのを止めてこつちの用を聞いてくれた。さういふことがなくなり、又自分が止めた後も日本が寧ろ望むべき方向に進んでゐるので安心した父が持ち前の体質を現して太り出したのは頷けることである。その太り方も尋常のものでなくて父が家に食事をしに来る時は父の為に特別の椅子を食堂に用意した。
乱世型の政治家が乱世を望むのではない。殊に父にして見れば戦争で負けた日本がこれから先どうか解らない時期に事態の処理に当つてこれが効を奏し、或は天が自分が取つた政策に幸して日本が繁栄に向ふ兆候が既に現れ始めてゐる時に文句を言ふことはなくて大磯の二階の居間からの眺めはそのままのものに父の眼に映つたに違ひない。我々が行くとさういふ顔をして父が奥から現れた。前に篠田一士さんと丸谷才一さんに就てその健啖家であることに触れたが父も大食ひだつた。併しその点で父は気の毒でもあつたので母がゐたならばと思ふことが時々あつた。その母は既にゐなくて父の所の料理番はどこかの料理屋が世話するのだつたから品数は多くても要するに宴会料理を幾分か家庭的にしたもので大磯に行くのは食べるのが楽みなのではなかつた。併しいつも父が家に来る時には辻留の雛さんに出向いて貰つて御馳走して辻留の料理を一品も余さず食べたのは外国人の友達を除いては家の客になつたものの中で父一人である。いつだつたか父が飯の代りに饂飩で食事がしたいと言つたのでその次に来た時に雛さんに手打ち饂飩を作つて貰つて出した所が雛さんが持つて来た分を全部平げた。
父はその頃まで恐しく丈夫に見えた。又事実さうだつたのに違ひなくてさうして何も不自由することがない父を見てゐると御馳走しなくても話ででももてなしたくなつた。その頃の父が人に与へた感じをどう説明したものかよく解らない。兎に角自分がしたいことを皆してしまつた人間といふのはいいものである。その安らぎは人にも伝はるものでもし動かし難いといふことがさういふ場合にも言へるものならば父にはその意味で動かし難いものがあつた。又それがあつて既に隠す必要がない地金が出るといふこともあり、それが父では凡そ洗練された人間、結局は江戸っ子肌と呼ぶのが一番当つてゐることになるものだつた。又これは理由がないことではない。その死後に至つて方々で名乗りを上げる所が出て来て父は越前の人間だつたり土佐の人間だつたりすることになつた。一体に我が国の県人意識といふやうなものからすればこれは想像出来ることなのだらうが越前といふのは吉田の初代、つまりこつちにとつては吉田の祖父が脱藩して廃嫡になる以前に属していた藩であり、土佐はその祖父が吉田姓に改名して父を養子に貰つた父の実家の竹内家が土佐の出であることから来てゐる。何れも吉田家のものの出身地と正式には言へないもので父は生れて直ぐに吉田家に引き取られてから祖母の実家である佐藤家の小梅の家で育つた。この佐藤家は佐藤一斎の裔であるからその家か寮が小梅にあつたのも理解できる。又従つて祖母は本ものの江戸っ子だつた。
江戸っ子といふ観念自体がどうといふこともないものであることに就ては石川淳さんの所で既に書いた。併し石川さんに就ても解る通りその観念には江戸の文明の正統を受け継ぐものといふことも含まれてゐて名称が何だらうと江戸の文明となればこれが曾て実在して又現にある文明である意味でそれがある所にそれを認める他なくなる。それが文明であるから洗練を指して洗練は羞恥、怠惰、猜疑、酔狂、純真といふやうな面を持ち、それが粋でもある。その粋で思ひ出したのであるが昔まだ母がゐた頃ヨオロツパで客を annoncer するといふことをする習慣のことで話をしたころがあつた。これは客間の入り口に係のものが立つてゐて客が新たに到着する毎にその名前を聞いてから大声で何々卿とか何某夫人とかいふ風に既に来てゐるものに対して披露するのである。それで母に自分も何々卿と披露される身分になつて見たいと言つた所が母はこれを一笑に付してさういふことを考へるのは愚の骨頂であり、その何々卿の後でただの吉田さんといふことで入つて行く方がどんなに粋かと言つた。その話を大磯の二階で父と飲んでゐつ時にした際の父の顔付きを今でも覚えてゐる。
父が九十になつた年の正月に家のもの達と出掛けて行くと父が余りに得意になつてそのことを言ふので九十、九十とばかりおつしやると冷やかした。それにしても牧野さんの場合と同様に父も後二、三年はその元気な様子のままで生きてゐられた筈だといふ気がする。牧野さんは八十九歳で死んだ。父は前の年に心筋梗塞といふのをやつてその治療に当つた武見博士のお話では今の医学では兎に角回復して後一年の寿命は保証出来るがその一年目が注意を要するといふことだつた。父はその九十になつた年にその通りに発作があつてから一年目に死んだのであるいからその正月は回復してから間もない頃といふことになる。併しその心筋梗塞といふのが余計だつた気がするので少し甘やかし過ぎると思ふ位廻りのものが父のことに気を配つてゐた時に何故さういふ発作を起すことになつたか不思議である。これは激昂したりした際に心臓が呈する症状である。併し九十近くなつて怒り心頭に発するといふやうな激情に見舞はれるのも父が丈夫だつた証拠かも知れない。
そして人間が死んでからもし何かがどうかしてゐたならばと考へるのは愚痴に過ぎない。それよりもこれは必ずしも愚痴でなくて残念に思ふのはもつと父をこつちの他の友達に引き合せて置けなかつたことである。これは出来ないことでもなかつたのであるが同じ考へのものが多勢ゐたやうでさうなればその中にこつちの友達を引つ張つて割り込んで行くことは粋の観念が許さない。それで父が家に来た時といふことも頭にあつて何れはと思つえゐるうちにその心筋梗塞のことがあつて家に来て貰ふことも断念しなければならなくなつた。父は若い人間に興味を持つてその息が掛つてゐる範囲では例へば任官したばかりの外交官といふやうなものをよく集めてゐたらしい。併しこれは言はば込みで行はれることでこの交遊録で書いて来たやうな人達ならば父は会つて喜んだ筈であり、その中で河上さんとは事実前から親交があつた。併し河上さんも割り込むのが嫌ひな方で晩年の父はその廻りに蝟集する人間の為に確かに損をしてゐた。これを大磯参りを呼んだのか大磯詣でだつたのか、どつちにしても下らないことを考へたものである。
併しさうした制約がなくて例へば雛さんとか観世さんとか、或は篠田さんでも丸谷さんでも又出来ればその全部が集つてゐる所に父が顔を出すといふやうなことがあつたらば父は喜んだだらうと思ふ。その時に舵を取ることをお願ひするのはやはり河上さんであることになつただらうか。併しその席に石川さんでも福原さんでもその他誰でもここで書いて来た人達ならば出て来てゐて父が味気ない思ひをしたといふことは考へられない。父は座談の名手で又人の話を聞くのが好きだつた。その相手が石川さんだつたならば父は随喜したに違ひない。その昔、父が在職中で世情騒然、父が不人気の絶頂にあつた時に河上さんが官邸に父を訪ねて行つて一緒に飲みながら大丈夫、大丈夫、共産党からは私がお前を守つてやると言つて父の頭を撫でた所が父は相好を崩したさうである。父が政治家だつたのはそれが日本、或は明治以後の日本でだつた限りでは不幸なことだつた。それは会はなければならない人間が多過ぎて人間らしい付き合ひが出来ないからで政治家でもその種の人間であることよりも肩書の方が先に来る類と顔を合せてゐるだけで気がすむ質ならば自分も自分の肩書を押し立てて満足してゐられるのだらうが父は文明の人間だつた。こつちが父の、これは父の口利きで借金をして家を建ててゐる時に家には木口がよくなければと父が言つたことがある。それは父にとつて人間にも通用することだつたので一つだけ今ここで終る交遊録に就て言へることはここに出て来るのが皆木口がいい家のやうな人達ばかりだといふことである。こつちのことは知らない。」
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