20070927 「民藝」 470号・1992年02月・アフガニスタンの織物
表紙:アフガニスタンの織物
目次
グラフ[アフガニスタンの織物]/[対談 アフガニスタンの織物]松島きよえ・岩立広子 司会柳宗理/[TEXTILES OF AFGHANISTAN]/[今月号の図版 アフガニスタンの織物]岩立広子//[作り手と運び手と使い手の会]/[講演「和紙について」]吉田桂介/[民藝優品展解説]久野恵一//[日本民藝夏期学校講義]/[横浜会場 染色について(下)]四本貴資/[仙台会場 工人銘と私の願い(中)]多々納弘光//新刊紹介[岡村吉右衛門著『柳宗悦と初期民藝運動』]/[日本民藝館寄贈品紹介 壺]尾久彰三//[工藝雑話―七十の手習い 11 民藝運動草創期のメッカ倉敷Ⅱ]岡村吉右衛門//[人形漫筆]橋元四郎平/[上村六郎先生逝く]西垣光温//[鑑賞 この一点 47 堤の古人形]尾久彰三/...
グラフ「アフガニスタンの織物」 から
発刊時の時代背景を知るには : 1992年
グラフ「アフガニスタンの織物」 から
グラフ「アフガニスタンの織物」 から
テキスト引用:
15-21頁 [和紙について]吉田桂介(「作り手と運び手と使い手の会」講演)
「(前略) 千四百年の歴史
まずその和紙が現在どういう状態にありますかを見てみたいと思います。前に申しましたように、紙漉きの技がわが国へ入って来てから千四百年になりますが、その頃は推古朝にあたり、もっぱら宮中、貴族、寺院、僧侶などの使うものに限られていまして、まことに貴重な存在でした。それが奈良朝、平安朝と続いて写経の用紙、書の用紙、また、文学が興りその中でも女流文学の勃興によって優美な紙が求められるなどして、和紙は加速度的に発達して、全国で紙を漉かない国がないほどになりました。武家社会になりますと、強健な紙が生まれてきます。その頃一般下々はまだ不知文盲の時代で、文字を書くという必要もなかったので、紙とは縁の遠い世界にいたわけです。
江戸期に入りまして、町人経済が興り、商取引上の記録の必要性が出て参ります。教育が盛んになり、文学が一般化し、何やかやで町人文化が華のように咲き乱れ、紙の需要がにわかに高まって、日本中の国々で紙漉きが盛んに行われるようになりました。
次に明治に入りますと、それまで藩政という桎梏の中で呻吟していた生活から一挙に解放されまして、経済、教育、学問、文化など江戸時代に比べものにならないほど、それらが噴火山みたいに噴き上がりました。小学校の教科書も和紙でした。郵便切手も和紙でつくられました。洋紙のなかった時代ですから、日本中のもろもろすべて和紙であったわけです。その初期、中期頃の数字はわかりませんが、明治末年の農商務省の統計では、全国の和紙精算戸数、いわゆる紙漉き業者が六万八千五百戸と記録されていますが、これをピークとして、以後和紙の生産は急速に転落に向かいます。機械漉きによる洋紙が次第に和紙の需要の領域を蚕食して来たためです。
大正十年頃には四万戸となり、昭和十四年になりますと一万七千戸弱に落ち込み、昭和五十年八百戸、そして平成の今日僅かに四百戸という数字がはじき出されています。かつては日本国中べったりであった紙漉き業者が、今はパラパラとした点のような存在でしかないわけです。このままでいけば、千四百年続いて来た和紙文化というものが無くなってしまうのが、すぐ目の前に来ているという肌寒い状態であります。これは世の中が移りに移って、使うのに安直であり利便である機械の紙で十分にまかなえる、というところからきているのでありましょう。
需要と供給が咬み合わねば
例えを申しますと、八尾の紙の場合、私の仕事場のすぐうしろに川が流れています。その川の上流に、昭和三十年頃までまだ三百軒の紙漉き農家があって、夏場は蚕を飼い、畑や山仕事をし、冬になると紙を漉いて、その漉いた紙は富山の売薬さんに持ってゆきます。売薬は薬と紙の合成商品で、薬を紙に包み、その幾包を小袋に入れて、上に反魂丹なんどいう木版刷りをし、そうした腹ぐすりから風邪ぐすり、さまざまの小袋を紅柄塗めの赫い大袋に入れる。大袋には筆太々と広貫堂なんどという社名が木版で刷り込まれていて、各家庭の茶の間や囲炉裏端の柱や長押に下げられます。柳コウリに入れたくすりを背に負うて日本の津々浦々の家々に配置して廻りましたが、それは大した量の紙が消費され、そのすべてといってもいいほどの紙が八尾の紙で賄われて来ていました。江戸時代の元禄頃からずっと続いて来ていました。
それが昭和の三十年代になりますと、世の中の様相がコロリと変わりまして、いわゆる所得倍増論が抬頭し、農業立国の国是が工業立国へと切り替えられました。量と取り組む工業生産が世を覆うということになりまして、富山の売薬も和紙より洋紙へと移ります。それは和紙に比べて洋紙の方ははるかに安価です。印刷をしても洋紙はインクを吸いませんから、鮮明な仕上がりになります。さらに、和紙は冬期間だけの生産ですから、今この紙が欲しいと言っても、それは来年の春まで待って下さい、ということになりました、とても忙しい史上需要についてゆけません。アレヨアレヨといううちに富山売薬の需要から八尾紙は完全に締め出されて、紙を作っても売れないということになり、八尾の山家の人たちはみんな紙漉きを癈めてしまいました。現在山家では一軒も残っていません。やはり需要と供給が咬み合わなかったら、どんなにいいものを作っても、どうにも仕様がないということでありましょう。
先ほど全国で四百戸の紙漉き業者がいると言いましたが、これとて、どんなに一生懸仕事をしても、需要がなくなれば、この数はまだ減ってゆくでしょう。
世界に冠たる日本の紙
次に日本の紙は世界的にみてどういう位置にあるかを考えてみましょう。一例を紙幣に見てみます。今の紙幣は内閣印刷局抄紙部というところで機械で漉き出されていますけれど、昭和の十年代はまだ手で漉かれていました。その手で漉かれていた頃の風合や肌ざわり・強度が、そのまま機械処理に移行されて、現在私たちが使っているパリパリとした美しい紙幣になっているわけであります。これほど立派な紙質を持つ紙幣はほかに知りません。世界の文化国と目されているフランスの紙幣を見ましても、紙質はお粗末です。使っているうちにボロボロになります。
日本の国は昔から紙というものに意識を込めていますため、紙幣一つを見ましても、世界に冠たる紙をつくっています。原料はフィリピンのマニラ麻を主としていますが、それに和紙原料として優秀な三椏を混ぜています。三椏の紙はなめらかで、繊維が長いため、折り目から破れるということはありません。
雁皮の紙も立派です。楮の紙も立派です。いい加減なことの嫌いに日本の紙漉き職人たちが伝統の技を磨いて漉いた紙は、世界中どこを探したとて、これほどのものはないでしょう。
和紙の良さはいったい何から来るのでしょう。その第一に挙げられるのは、原料の良さであります。楮は繊維が長く、絡み合いが強く、強靭な紙が出来ます。傘紙、障子紙、紙子または細く裁断して縒って紙布をつくるとか、楮紙の用途は数多くあります。雁皮は暖地の山に自生し、これから採れる繊維は細く滑らかで、筆走りのよい緻密な紙が出来ます。奈良・平安時代には斐紙と呼ばれて写経用紙に用いられました。光沢が素晴らしくあって、品格のある紙です。三椏は雁皮と同属ものですが、柔らかな光沢と平滑さを持った紙になります。
紙は繊維から出来ます。どんな雑草からでも、それが繊維さえ持っていれば、いかようにしてでも紙は出来ます。ところが、その紙は用途に耐えるか、出来た紙は美しいか、または生産工程において手間ヒマがかかるかどうか、原料の収獲量はどうか、など、いろんな面で制約が出て参ります。
昔から厖大な数の紙漉きの人たちがいまして、さまざまな植物繊維から紙をつくる工夫をして来ました。稲ワラも竹もその中に入ります。そして最初から最後まで残って来たのが楮と雁皮と三椏でありまして、これ以外の繊維は振るい落とされて来ています。
楮、雁皮、三椏という植物は、日本ばかりに生育していることはありません。中国からはじまって、東南アジア一帯、南方の島々など広く分布しています。しかし、こと日本という国になりますと、それらの繊維がみな良質になります。気候のせいでしょうか。土質のせいでしょうか、あるいは日本人の感覚による管理のせいでしょうか。
楮も、三椏も、雁皮も、植物は自分の身体を守るために立派な繊維を蓄えた外皮でもって身を鎧っています。人間でいえば皮膚に当たるのでしょうが、人はその繊維が紙に向くように、永い年月をかけて育成して来ているのです。ですから、繊維の持つ光沢や、細さ・太さ・長さ・収量などなど、日本人の研がれた意識で、他に類のないすぐれた原料をつくって来たわけです。
張りつめた感覚で紙をつくる
第二に挙げられることは、日本人の仕事に対する姿勢です。この良質の原料を使っていかにして光沢があって、漉きムラがなくて、ゴミがなくて、張りがあって、表が滑らかで、用途に適する厚さに揃えて、などと、張りつめた感覚で紙をつくっている。そういう姿勢はもう板についてしまっていて、日常の仕事の中でおのずからにして出て来る。ここが日本人の日本人たるところであって、日本の文化の高度さは、紙一つを取り上げてみましても、世界のどこの国の紙よりもすぐれたものになって来ているのだと思います。
お隣りの韓国の紙を見ます。高麗紙などというすぐれた紙がありました。李朝の時代にも楮を原料とした強くて腰のある立派な紙があります。しかし、この国の国民性から来るおおらかさでしょうか、日本より古い歴史があるにもかかわらず、紙に対する感性が大分違います。
先にも述べましたように、日本は楮、雁皮、三椏というそれぞれに違った主原料を駆使して、それぞれの特徴ある紙をつくっています。または、この三者、あるいは二者を適宜配合して、用途に合う紙をつくって来ています。色を染めたり、模様を漉き出したりした優美な紙をつくって来ています。
ところが韓国は、新羅、高麗、李朝と千五百年に及ぶ紙漉き技術の継承の中で、原料は楮だけ一本で来ています。「丈夫さ」それだけの追求のようです。用途は、上層階級はもちろん字も書きましょう、書冊もつくるでしょう、しかし一般ともなれば、オンドルに使う紙、窓に貼る紙、室内に、壁・天井に張り廻らす紙、それらが大まかな主用途ということになりましょう。用途に合えばそれでいいという考え方がありまして、例えば障子紙に穴あきがあっても、紙で継ぎをして塞げばいいではないか、紙にしわがあったとて、塵があったとて、漉きムラがあったとて、窓に張って風が防げればそれでいいではないか、紙の色が白かろうと黒かろうと、そんなことはどうでもいいではないか、と、マアこのような調子で、紙を漉く側も使う側も、別にその良否を意に介することはありません。
ところが日本へ来ますと、私たちはとてもそんな紙では承知出来ません。障子に紙を貼って、まず張られた紙の美しさを鑑賞します。障子紙を透す光の和らかさと室内の陰影の微妙さをよろこびます。このような情緒的にも高度な紙が要求されることによりまして、日本の紙は世界水準を抜いて心のこもった美しい紙に生長して来たのでしょう。(後略)」
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