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20071010 利尻の忠犬ハチ公・「旅の時間」の時間・003

WRさん、こんにちは。

 例のブツは届きましたでしょうか。
 「闘病記」執筆(?)用にでも使ってもらえたら、こちらもうれしいです。

 で、今回は、8月の利尻島帰郷の話がまだだったような気がするので、そのへんのことを。いやもう季節は巡って、札幌周辺でも初雪でも降りそうな気配なんだけどね。まあ、しばしおつきあいください。

 利尻に帰るたび、というか利尻のこと考えるたび、ご先祖様たちは、なんで北海道の、よりによって離島の、しかもその中のもっとも小さな村の、さらにそのはずれに住まうことを選んだんだろうって、思うんだよね。
 今年の春、宮本常一さんの「利尻島見聞」という文章を読み返してたら、
 「同行の役場の方がかつて野中という利尻町との境の部落へ税金をとりにいって、一軒一軒あるいているうちに、どうも相手のうけ答えの様子がおかしいので、よく聞きただして見ると、そこは東利尻町ではなくて利尻町であったという。利尻島とはそういうところである。そして鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形をのぞいては資本家らしい資本家もおらず、一見ほぼ相似た経営をいとなむ、所得格差のきわめて少ない平和な島だとも言えるのである。」
という一節に出くわしてびっくりしたんだけど、文中の「野中」は「のっちゅう」という村落で、そちらから「一軒一軒あるいて」利尻町に入った、初めの家がウチなんだよね(笑)。危なく二重徴税されるところだった? 「うけ答えの様子がおかしい」って(笑)。まあ、宮本さんに「利尻島とはそういうところである」というサンプルにしてもらえたら光栄だけど。
 宮本さん利尻島訪問は1964年の夏。こちらは5歳。その前後、役場(隣町のね)の人間に対応するとすれば、それは1998年没の祖父正二だったと思う。なんか、若かりし日のじいちゃんの困った顔が目に浮ぶ。

 というわけで、我が家の東側のお隣さんは利尻富士町(旧東利尻町)の住民。そのお宅までは、百数十メートルの間隔があって、そのちょうど真ん中あたりが村界で、一帯がゆるやかな窪地になっている。こちらが小学生の頃まではその窪地に、昔の鰊番屋の遺構(というか廃屋)が残っていて、ヤン衆が使ったであろう小さな小皿なんか見つけては遊んでいたりしたもんだけど。今は丈の低い雑草が茂る野原になっていて、昔の番屋の面影などはどこにもない。
 母親の話では、そのお宅のご主人Iさんが、この春、突然亡くなられたんだという。ご存知の通りうちの母親は春先から、癌の手術で数ヶ月札幌に出て来てたんだけど、その間のことだったらしい。心臓のほうの病気での急死。

 上の宮本さんの文章にもある通り、今も、島に残っている漁師たちは、うちの父・祖父がそうであったように、資本らしい資本も持たない「小前」の個人事業主。Iさんもそうだった。ただ、所属する自治体が違うと所属する漁業共同組合も違い、漁協が違うと漁場もコンブ漁・ウニ漁等の漁獲日・種類も違い、お隣さんとはいえ、またその家の間の微妙な距離もあって、ほとんど行き来がなくって。
 近所付き合いの固いうちの母親にしても、Iさん宅を飛ばして、その一軒向こうのSさんとは仲良くしてて、モノのやり取り(息子一家、つまりは我が一家、が帰郷すると、新鮮な海産物が届けられることになったりする)もこまめにあるのだけれど、Iさん一家とのやり取りを見聞きしたことがない。

 で、表題の忠犬ハチ公なんだけど、実は、このIさん宅の飼い犬のこと。
 こいつがちょっと困ったやつで、利尻富士町で用足しして、野中(のっちゅう)の村落を貫く細い旧道を車で走っていると、必ず道に飛び出し車体に体をぶつかるように吠え掛かる。道を歩いて行く人にも同様。剣呑だ。
 この8月の帰郷でも、例によって車に向かって来やがるんで、いつか間違って(あくまでわざとじゃなく)轢いてやろう(って、わざとか)と思ったくらい。帰宅後、その犬が、鰊番屋の跡地の古井戸にはまった話(Iさんが必死になって探したらしい)なんかしていたら、そこで母親が、そのIさんが亡くなったと言い出した(それまでお隣さんの死の話がされなかったわけで、それでつきあいの程がわかろうかというもの)。

 で、そこで改めて思い出したことがある。
 そして、実は、年に何度か思い出すことでもある。

 子供のころ、Iさん家には、こちらと同学年の女の子がいたように記憶している。なにせ上に書いたような事情で、付き合いもなく、学区も違いで、定かには覚えていないのだけど。
 その癖、なにかの折、例えば、野中村落にもまだ人家人口が多かったころ存在した雑貨屋さんに買物に行ったときや浜辺でそれぞれ遊ぶときなど、ちら、ちらと見かけたように思う。子供同士の気安さで、一言二言言葉を交わしたりしたのかもしれない。そしておかしな話なんだけど、その女の子が本当にこの世に存在した(する)のなら、その子はきれいな顔立ちをしていた。印象的な瞳の。(男ってバカだね。っていうか、オレがバカなのか。笑)。
 過疎・高齢化の土地だからね、子供たちは、大人になったら家を離れ、都会に出て行くのが通例(こちらもその一人)。大人になってから、その女の子を見た記憶は、自信を持っていえるけど、ない。

 さらに不思議なことに。

 こちらは小学校の高学年だったと思う、夏のある日、突然、どこから現れたともしれない男に、これまた突然、その女の子は元気か、と聞かれたのだった。
 家の東側の小さな空間で遊んでいたのだと思う。そこは、冬に吹く猛烈な山背風(東風)を防ぐ、高さ二メートルを越える竹囲い(竹と言っても利尻に自生する根曲り竹なんだけど)が七・八メートルの幅で作られていて、家とその囲いの間の、かぼちゃが植えられていたり鬼百合の花が咲いているような陽だまりの小さな場所。そう、鬼百合の花にやってくるキアゲハはむさぼるように蜜を吸うんで、子供にも簡単に捕まえられるんだ。
 東利尻町の徴税役人同様、その男も、我が家が正統的なIさん宅の隣家と思ったのだろう。さらには、その女の子の消息を、同じ年恰好の子供が知らないはずがないと思ったのだろう。

 記憶では、こちらはその男に対して、元気だと思う、と言っている。おそらくはおどおどと。じいちゃんが、隣町の徴税吏に、事情を言い出しかねたように。
 さらに記憶では、その男は、あの子は自分の子供なんだ、と告げた。
 なんと。
 これには返事をした記憶がない。今、自分が外面だけ子供になってその場にいたとしても、おそらくは返事のしようもないだろう。
 そして、男は、もと来た道を、利尻島を循環する道道の方向へ、去って行った。

 夢・幻のような気もするんだけど、娘が小学校高学年になった今、それが夢・幻であったとしても、自分にも、その男の抱いていた感情の一端を理解できる。男は、島に住んでいたのか、島の外から来たのか? どちらにしても、その両方の事情なりのやるせなさが残る。
 それが夢・幻であっても、あの夏の日のおどおどした少年は、その男のその時期の年齢とそう遠くない(あるいは今のこちらのほうが年長かもしれない)ところまで歳を重ねた。その男のその後の生活を思う。もしかしたら、娘の住む隣家の、バカ面をした子供の不確かな一言でも、生きるよすがになったかもしれないと。

 その女の子もその親(自称)の存在も不確かなんだけど、Iさんの死と、利尻の忠犬ハチ公が今も道行く車に飛びかかっていることは間違いない、と思う。
 あと、島には島の暮らしがあり、人間が生きて、そしてやがて死んでいくことには変わりがないということも。

 さて。


 東京でのWRさんの暮らしが健やかなものでありますよう。
 とってつけたようでゴメンよ(笑)。
 こっちも元気に暮らすからね。


P.S.
 それにしても。
 Iさんは、そのことを、知っていたのだろうか?




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