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20071028 賢者の言葉・寺田寅彦・「鉛をかじる蟲」

   * [科学と科学者のはなし―寺田寅彦エッセイ集 (岩波少年文庫 (510))] 寺田寅彦 池内了編

 「おしりかじり虫」に非ず。



寺田寅彦 『寺田寅彦全随筆 四』 より、「鉛をかじる蟲」を引用
「 近頃鉄道大臣官房研究所を見学する機会を得て、始めてこの大きなインスチチュートの内部の様子を可なり詳しく知ることが出来た。名前だけ聞いたところでは大層いかめしいお役所のやうな気がして、書類の山の中で事務や手続きや規則の研究をして居る所かと想像して居たのであるが、事実は丸で反対で、それは立派な応用科学研究所であって多数の実験室にはそれぞれ有為な学者が居て色々有益で興味のある研究をして居るのであった。

 色々見せてもらったものの中で面白かったものの一つは「鉛をかじる蟲」であった。低度の顕微鏡でのぞいて見ると、ちょっと穀象のやうな恰好をした鉛のやうな鼠色の昆蟲である。これが地下電線の被覆鉛管をかじって穴を明けるので、そこから湿気が侵入して絶縁が悪くなり送電の故障を起こすのださうである。実に不都合な蟲であるが、怒って見たところで相手が蟲では仕方がない。怒る代りに研究をして防禦法を講じる外はないであらう。

 蟲の口から何か特殊な液体でもだして鉛を化学的に侵蝕するのかと思ったが、さうではなくて、矢張本当に「かじる」のださうである。その証拠にはその蟲の糞が矢張「鉛の糞」だといふ。成る程顕微鏡下にある糞の標本を見ると矢張立派な鉛色をして居るやうである。

 これ等の説明を聞いた時に不思議に思はれたのは、鉛を食って鉛の糞をしたのでは、いはば米を食って米の糞をするやうなもので、一体それがこの蟲のために何の足しになるかといふことである。米の中から栄養分を摂取して残余の不用なものを「米とは異なる糞」にして排泄するのならば意味は分かるが、この蟲の場合は全く諒解に苦しむといふより外はない。

 西遊記の怪物孫悟空が刑罰のために銅や鉄のやうなものばかり食はされたといふお伽話はあるが、動物が金属を主要な栄養品として摂取するのは甚だ珍らしいといはなければなるまい。もっとも、人間にでも極めて微量な金属が非常に必要なものであるといふことは、近頃段々に分かりかけて来て居るやうではあるが、然しそれは食物全体に対して10のマイナス何乗といふやうな微少な量である。この蟲のやうに自分の体重の何倍もある金属を食って、その何十プロセントを排泄するといふのは全く不思議といふより外はないであらう。

 何のために鉛をかじるかが疑問である。送電線の被覆鉛管の内部にどんなものがはひってゐるか、そんなことを蟲が知って居ようとは思はれないから、蟲の目的は矢張鉛自身にあることは明白である。それなら単なる道楽かといふに、蟲が道楽をするといふのも受取りにくい仮説である。何かしらこの蟲の生存に必需な生理的要求のために本能的にかじると考へる外はないやうに思はれる。

 こんな疑問を起こして居るうちに、妙なことを聯想した。

 吾々が小学校中学校高等学校を経て大学を卒業する迄の永い年月の間に修得したはずの知識は、分量で測ることが出来るとすれば随分多量なものであらうと思はれる。十七八年の間かじりつづけ、呑み込みつづけて来た知識のどれだけのプロセントが自分の身の養ひになって居るかと考へて見ても、これは一寸容易には分かりかねる六かしい問題である。然し、兎に角も、学校では教はったことの少くも何十プロセントは綺麗に忘れてしまって居て、例へば自分等の子供に質問されて即座に明答を与へることが出来ない程度にまで意識の圏外に排泄してしまって居るのは事実であるらしい。

 そんなに綺麗に忘れてしまふ位ならば始めから教はらなくても同じではないかといふ疑問が起こるとすれば、これは自分が今この鉛を食ふ蟲に対して抱いた疑問と少し似た所がある。

 「知らない」と「忘れた」とは根本的にちがふ。これはいふ迄もないことである。然しそれが全く同じであるとしても、忘れなかった僅少なプロセントがその人にとってはもっとも必要な全部であるかも知れないのである。

 世の中に工率百プロセントの器械は一つもない。注ぎ込んだエネルギーの一部は必ず無駄になって消費される。電燈の場合などでも肝心の光になるエネルギーは消費される電力の割合に僅かな小部分で、あとはみんな不必要な熱となって雨中に放散する。この、物質界に行はれる原理を、鉛を食う蟲の場合の生理的現象に応用する訳には行かないし、況んや人間の精神現象に持込むべき所由はもとよりない。それにも拘らず「無駄を伴はない滓を出さない有益なものは一つもない」という言明は、どうも一つの作業仮説として試みに使って見てもいいやうに思はれる。この仮説を許容するか、しないかで結果には非常な差を生じる。この仮説が真ならば、無駄をしないやうにするには結局有益なことを一つもしないといふより外はなくなる。又有益なことをするためには結局なるべく無駄を沢山にするやうにしなければならないといふことにもなるかも知れない。然しこの仮説が誤りであって「無駄のない有益なものが可能であり、それが当然である」とすると、無駄は罪悪でない迄も不当然であり不都合である。従って、さういふ咎を受けないためには、結局矢張何もしないで、じっとして居るのがいいことになるのである。さうなればすべての活動は停止して冬眠の状態に陥ってしまふであらう。それならばまだまだ安全であるが、排泄物をなくするために食物を全廃すれば餓死するより外ない。

 鉛をかじる蟲も、人間が見ると能率ゼロのやうに見えても実はさうでなくて、蟲の方で人間を笑って居るかも知れない。人間が山から莫大な石塊を掘りだして、その中から微量ナ貴金属を採取して、残りのほとんど全質量を放棄して居るのを見物して、現在の自分と同じやうなことをいって居るかも知れない。

 かう考へて見ると、道楽息子でも矢張学校へやった方がいいやうに思はれ、分からないむづかしい本でも読んだ方がいいやうであり、ろくでもない研究でも、しないよりはした方がいいやうにも思はれ、又こんな下らない随筆でも書かないよりは書いた方がいいやうにも思はれてくるのである。(昭和八年一月、帝国大学新聞)」


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