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20071104 賢者の言葉・菊地信義『装幀談義』より・"本は心を作る道具"

菊地信義 『装幀談義』 より、「さいごに――"本は心を作る道具"ということ」を引用

「 「心を作る道具」ということばを、昔だれかの文章で読んで、全くそうだなと思ったんですが、本というのは一つの心の道具なのではないかと思うんですね。この一〇年、本の仕事をしているなかで、ずっとこのことばがぼくのなかに生きているんです。

 結局、人というのは、生まれたところから、お母さんなり、その家庭に、そして社会に作られていく、いってみれば世界の編みもの、織りものみたいなわけですから、存在するということは、一つの物語のなかに織りこまれていくわけです。いくらそこから出ようとしたって、出るという物語を生きざるをえない。そういうなかで、やはりいいにつけ悪いにつけ、本というものは、人間の心を作っていく、刻んでいく、鍛えていく道具、目の延長がテレビであったり、耳の延長がオーディオだとかいうふうに考えていったときに、本というのはやはり心の道具なんじゃないかなと思うんです。

 ほんとうにいい本とはいったい何だろうと、もうそのことばかり思っているわけです。書店の平台や棚で「ああ、いい本だな」と思ってもらえる本を作りたいんです。

 「この著者、聞いたことないけど、また、こんなテーマに対していままで興味を持っていなかったけれど、あるいは、帯に書いてあるこんな世界について、いままで自分の生活のなかで考えてもみなかったけれど、何かこれはいい本だな」と人に思ってもらいたい。

 本というのは、やっぱり「いい本」じゃなければいけないんじゃないかというところがあるわけです。装幀もいいかげんで、中さえよければそれでいいというのは、やっぱり、何か本という物から離れているのではないかと思えるんですね。人間をとり囲むさまざまな物や情報のなかにあって、本という物は、絶対的に「いい本だ」と、「よい」と言われなければだめだと思うんですね。本という一つの物は、人を読むという行為に誘う、一人の読者に、読んでみたい、読みたいなという思いを呼び起こすものじゃなければいけないわけですね。そして、真の読むという人の行為は、何にも求めない状態、読み終えたあとに何かを得たとか、何かを知った、それすらもない、ただ読んだということで完了するものだと思うんですね。

 そのような読書という行為が、またそのように読むことを純粋にしていく書物が人にもたらすものは、その人の実生活の中で、真に個々の体験を切り開いていく力、現実を開示していく力だと思います。

 非常にそれは極端な例だし、観念的すぎるのかもしれませんが、でも、自分の読書体験、とくにそういう深い感銘をぼくの中に残したブランショの書物との出会いを思い返すとき、やっぱりそう思うところがあるんですね。

 つまり、文学を知らなくても、文芸批評を知らなくても、『来るべき書物』の一章、セイレーンの歌の「創造的なものとの出合い」という文章によって、何かまったく世界の見え方が変わってしまったみたいな体験をぼくに残してくれました。そしてそれは、この二〇年、ゆうにぼくのなかに生き続けているんです。何度読み返したかわかりません。そういうものというのは、それを知ったから装幀家として、またはデザイナーとしてのある時期に、具体的に、何をもたらしたかと言えば、別に何ももたらしてはいないんですね。さまざまなものを見たり、感じたりしてきた自分の一番深い底にある、感性を鍛えてくれた、としかいいようがありませんね。

 人の心というのは、常に内でざわついていて、ざわざわしていて、常にその人の現実的な一日の生活のさまざまな側面から、たとえば、風を受けたり、また嵐が突然あったり……、奥さんの何とかが飛んできたり、子供に何かが起こったり……、もういろいろなふうに心というのはざわめいているわけですね。

 平常だなんていうのはありえないわけで、理想の読書、真の書物というのは、たとえそれがどんなに過激な、どんなにアナーキーな、イデオロギッシュなものであっても、人の心を癒す、冷ます、鎮めるものではないでしょうか。何か人の感性を深く低くする。――感受性を鈍らせるということではなくて、いわゆる心を鎮める、沈静させる。まわりにどんなことが起きても、それに対して、原型的に、固有に対応する心の状態を育ててくれるのではないでしょうか。読書の積み重ねというのは、そういう効果があるのではないかと思っているんです。

 ぼくが考えている一番原型的な、本の存在感は、ハウツウ書とか、いまはやりのコミック用紙を使った読み捨ての単行本などとは、どうも根本的にちがうものなのではないかと思うんです。

 ぼくは、そういうものもあっていい、本として両極化していくんじゃないか、と思いますが、何かああいう本というのは、本というメディアには不似合いだなという感じがするんです。いくら内容が非常にアイディアにあふれた、若い人に人気のある流行のおもしろいものであっても、本として見たときに、どうもああいう内容自体が本という形状に困っているなという気がしまう。もっとちがったメディアの形そのものが発見されないと、何か不似合いだなと思えてしかたがないんですね。ああいうものは本にしちゃいけないとかいうんじゃないんです。どうもこの仕事をするなかで、ああいう本を改めて眺めてみると、何かうまい形に入っていないなと、そんな気がします。

 つまり、本というメディアはどこかで、静かで、孤独で、読む人を沸き立たせるものではなくて、むしろ人の気持ちを鎮めていくような、何かそういうものを盛るのに向いているのではないでしょうか。

 これは、ヨーロッパでいえば聖書みたいなものから始まり、日本でいえばお経の本みたいなものから始まった本の歴史というものから本は自由じゃないし、そういう長い一つの人間の記憶みたいなもの、ぼくがいままで話したようなものも結局そういうものによって編み上げられているぼくらの観念であり、一つの制度的な幻想なのかもしれないんですが。

 とにかく、ぼくが装幀表現を考えるとき、最終的に考えることは、その本の姿に、静まりみたいなものを生み出したい、ということですね。人が、底知れない静かな沼みたいなものに出会うように本と出会ってくれたらと思うんです。」


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