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20071209 賢者の言葉・『バックミラー 西村英樹遺稿集』 より・「つながりを編み、新しい場をつくり続けて」


2003年4月10日、田原が撮影した西村英樹さんの写真(札幌市北2条東2丁目の西村さんの事務所にて)



『Nishimura Hideki Selection バックミラー 西村英樹遺稿集』 (「西村英樹遺稿集」刊行会 2004)より、「つながりを編み、新しい場をつくり続けて」。
「 発症に気づいた2002年の春から札幌厚生病院への入退院を繰り返した西村さんだが、担当医師には仕事の内容や状況をすべて説明しながら病状について聞き、治療計画を主体的に相談。病室でもパソコンで原稿を書きながらの精力的な闘病生活を送った。もちろん、ほかの患者さんの話に耳を傾け元気づけたり、看護師さんの相談役になったりと、西村さんならではの動きも忘れなかった。
 見舞客との懇談は病室よりも、談話室の喫煙所が中心。病院内が禁煙になると、「ちょっとタバコ吸いに行くべ」と、点滴の棒を押して外でタバコを吸うのにつきあわせるのが常だった。
 この原稿は2003年7月22日の昼下がり、雑談の最中にたまたま持っていたICレコーダーを回し、「仕事と編集へのこだわり」についてインタヴューしたもの。病院正面の歩道の縁石に腰かけ、ちょっと遠くを見るような目でタバコを何本も吸いながら語った、最後の記録である。


壊れていくものへの<思い>があった
 学生時代に『終末から』という本があったんだ。ちくまから出た本で、4号で廃刊になったんだけど。井上ひさしとか石牟礼道子とかが書き手で、いわゆる終末論なんだけど、このまま日本はどうなるんだというような内容だった。おれは利尻・礼文の世界だけど、都市に行くと、『終末から』に書かれている都市の姿とほんとうに符号するんだよな。土はないし、空は見えないし、人は忙しく動いているし。こんなんでほんとうにいつまでもつのかな、と…。
 それと、立花隆が『文明の逆説』という本を出していた。ローマもギリシャも全部崩壊した、今の科学技術もやがていつかは崩壊する、という。そういう兆候もあった。
 学生の時にエコロジーという概念が流行って、自然破壊とか、すごく大事なエネルギーがたくさんあったのに、それが無自覚に壊れていくということに対する<思い>があったと思うよ。だから河村通夫さんもあそこまでしゃべってくれたと思うし、聞き出し役としては良かったんだなと。そういう引き出しは学生時代にできたと思う。
 札幌に戻って最初にやり始めたのは、林業試験場の人たちとの「土と健康をつくる会」で、たまごの会の『不安な質問』という映画の上映会に行ったり。そのあたりから「たまごの会」とか、「産直土の会」、「八百屋夢屋」がつくられていったんだ。ある時、そういうふうに立ち上がってきたグループの懇談会みたいのがあって、なんだか知らないけどおれが司会をさせられたんじゃなかったかな。それがきっかけで、『水俣の図・物語』の映画の試写会に呼ばれたと思うんだ。

「提案して、つくっていく」事業をやろう
 それから、「原爆の図」展だとか、合成洗剤追放の運動だとか、一連の騒動というか、いろいろやってきて、幌延に入って、あれがひとつの分岐点になった。いわゆる運動の限界というか、反対のための反対運動というか、そういうものを感じたんだな。
 それで今後は、反対運動とかではなくて、事業をやろうと。「むらこん」はその最初のモデルだった。ようするに提案していく、つくっていく、ということだ。それで「むらこん」を何年も続けて、サッポロファクトリーにかかわっていく。それからブランクがあって、よつ葉乳業の仕事になった。それは企業の仕事ではあるんだけど、おれにとってhそれだけじゃなくて、食糧自給率のテーマに取り組めるということなんだ。
 まあ、そういう意味では悔しいよ。今やっと自分のやってきたことや、まいてきた種が全部実って刈りとれる時期を迎えたのにな。いろんな人の力を借りてやってきたけど、ここで中断するというのは非常に申し訳ない。感情的にはその二つだなあ。
 だけど、中途半端というか、時期としては短いけど、北海道の農業にかかわる仕事が最後の仕事になったということは、自分にとっては非常に光栄だと思っている。そういう意味では良かった。いい結末ではあるけどな。

編集という役割で問題の当事者になる
 おれが札幌に帰ってきた頃は、タウン誌ブームみたいなものが起きていて、地方文化がどうのこうのとか言われた時代でもあった。「釈迦曼陀羅」というディスコが札幌にできたのもその年で、それまでは東京でしか開花しなかった、コンサートとか、いわゆる都市的な若者文化みたいのものが地方で立ち上がった時期だった。
 出版とか編集に興味をもったのは学生の頃。ミニコミ誌を作ったり、出版社でバイトをしたりしたから、出版とか編集っていいなあ、メディアを作るっておもしろいなあと思った。職業として何の仕事をするかな、作家じゃ食っていけないなあとか、いろいろ考えて。
 環境業っていうのはないから。ただ思っているだけじゃなくて、いろいろ言わなきゃならないこととかを何かの形にするという役割で、そういった問題の当事者になっていく…。そういう意味で、出版とか編集というところでやってみたいなあと思った。

つながりを編むのが編集
 プロの運動家とか、運動にかかわるような事業を立ち上げてやっていくことは、やろうと思えばやれたと思うよ。市議会議員とかにもなれたかもしれない。でも、政治家になりたかったわけじゃないし、そういう気は全然なかった。なぜなかったかというと、おれは出版・編集をやると決めて札幌へ帰ってきたからさ。それと、自分なりの出版論というか、メディア論というか、編集術というか、それの極意みたいなものがあるというふうに思っていたから。
 編集というのは本を作るということではない。それは制作よ。そうじゃなくて、人のつながりを編むとか、テーマとテーマを編む…。たとえば「原爆の図」展の時に、「戦争は最大に自然破壊だ」ということになれば、自然保護をやっていた人も入ってこれるし、「戦争は新しい差別を生む」というところでいけば、在日外国人の人も入ってこれる。「戦争は障害者を大量に生む」といえば、障害者運動の人たちも入ってこれる。
 そんなふうにいろんなテーマがあったことで、「原爆の図」展はあれだけの広がりになった。そういう意味では過激だったと思う。ああいう形になったのはおれがいたからだと思うよ。

問題やテーマを集めて、場をつくる
 呼びかけ人を300人集めようとか、ああいう手法は「図展方式」と言われたこともあったけれど、それはその人にとっての動員術だったんだよ。でもおれはそういうことではなくて、いろんな問題とかテーマとかを集めて、場をつくることだった。
 場が生まれれば言葉が生まれる。その言葉をきちっと丹念に拾って本にすればきっと、印刷物として残るから。そういう仕事というか、そっちのほうが大事だと思うし、そうすれば、また次の場が生まれる。
 空間軸と時間軸があるから、1個の時間軸のなかで面をつくっていく。「原爆の図」展というあの状況のなかでつくっていく。そうやってつくれば1個モデルができるでしょ。今度違う状況が生まれた時には、また違う形でできるわけだ。
 だから、あれはいつでもできるというものじゃない。そういうタイミングと、人の意識みないなところをつかんでいなかったら、「この指とまれ」といっても集まってこないんだ、それは。
 ということは、時代といったら大げさだけど、そういう状況を読む力――それは本を読むのと同じことだから、読む力。まとめる力。表現する力。伝える力。それをおれは全部駆使したと思うよ、自分なりに。だから、周りといつもけっこうずれている。関心の向かう方向が違うから。あいつは違うとか変だとか言われたけど、そんなの全然気にもならなかった。関心なかったもんな、全然。

両手がふさがったら新しいものをつかめない
 言葉は悪いけど、つくったものにしがみついて何かをやるという気はさらさらなかった。何かを固定するということは、新しいこともできなくなる。両手がふさがったら新しいものをつかめない。だからすぐまた手を離すんだ。そうすればまた、新しいものをつかめるから。それを連続的にやっていけば、ものすごくいろんなものを吸収できる。いろんな人と握手ができる。それをいかに広げるか、だ。
 93年に『ファクトリーマガジン』が立ち上がって、その前の年に準備室に入った。「むらこん」が始まったのが10年目ぐらいかな、もうちょっと早いかもしれないけど。おれは10年は学習期間だと決めていたから、そういう意味ではだいたい予定通りというか…。
 運動になかでやって、それから地域のことをやって、次は企業活動のなかでやってきた。それから、でかい組織のなかに入って至近距離から観察できたのもすごく良かったな。あれがなかったら、ただの粋がったフリーの編集者で、「サラリーマンなんか」こうだとかああだとか言っていたかもしれない。でも、違うんだ、実は。

煮しめとおでんの違いは串
 病院の喫煙所に、いつも暗いおばさんが一人いるんだ。この前、他の人と話していて、その人に言うようにしてそのおばさんに話しかけたんだけど。
 「いろんな患者さんを見てきたけど、2種類あるなあ。ただ失って、とられて帰っていく人と、失ってとられたんだけど、何かそこで得て出ていく人と。2種類ある。その人たちのどこが違うかといえば、おでんみたいなものなんだよなあ」って。
 そしたら、そのおばさんがぐっと反応したんだよな。気配でわかった。
 「だっておでんって、丸とか三角とか四角とか、おそ松くんのチビ太がもっていたようなおでんって姿があるよね。そのおでんを成立させているのは串なんだよね。だから大事なのは串で、串がなかったらただの煮しめだもんね」。
 煮しめって姿ないよな。ただ、だらっとしてて(笑)。でも、おでんって姿あるべや。だから煮しめとおでんの違いは串よ。串の存在の大きさというか、それがあればおでんと呼べるんだ、みたいな。そんなことを言ったことがあるんだ。
 そうしたらおばさんはすっと立って、ドアを出る時に、「いやあ、いい話聞きましたぁ。煮しめはダメですよね」って。それから、そのおばさんとも話をするようになった。すっごく明るい顔になって、「私ねえ…」ってよくしゃべるようになった。ピンピンして出ていったよ。

串を持っているから、いろんなものが刺さってくる
 編集って、おれにとって串だったんだと思うよ。だから、わけわからないけど串に刺して、なんだか刺さなくていいようなものまで刺して。
 串は、刺す角度によって落ちてしまったり、ちぎれてしまったりするけど、それは切り口だと思う。切り口がたとえば、「原爆はこわいもの、化けるもの」とか「こわいのは心の過疎」だとか、その時その時のキーワードを必ずおれはつくってきた。それを設定するのに、串にいろんなものをばっつばつ刺して、おれが串を持っているから勝手にわけのわからないものがぼっかぼか刺さってくるんだ(笑)。
 でも、おでんっていうのはやっぱり、種類が豊富な方がいいんだよ。だから、なんでもオッケーオッケーって。だけど、おれが串で刺したんじゃなくて、違うんだ。たまたまおれが串を持っていただけさ。みんなは金があるから、ちゃんと具を買って持ってくるんだよね。おれは金がないからパッと串を出した。そしたら、おれだけ串を持ってたんだ。「じゃあ、おでんにしちゃおう!」みたいな(笑)。そんなようなもんだと思うよ。

編集すればメディアになる
 編集というのはそういうもので、たまたま本を作るというところでやれば本の編集者になるし、映画監督だった結局編集をやるんだから。テレビ番組だってなんだって、編集というプロセスを通さないと、メディアっていうのは絶対につくれない。編集すればメディアになるけど、編集しなければ単なる情報の山。その中に価値はあるんだけど、意味はないんだ。その編集のキーになるのは企画さ。
 企画書を出してスケジュール組んで、そうやって仕事をコントロールして、一人でこなして…。
 だから、けっこう仕事をやっているんだ、ミニコミセンター時代からずっと今まで。作家じゃないから作品としては残っていないんだけれども、やれ、どこどこの要覧だ、観光パンフだ、チラシだ、自費出版だ、なんだかんだってすごい量をやってる。それを全部ざーっと並べたら、こんなに一人の人間ができるのかっていう量になると思うよ。
 じゃあ、机に向かってパソコンにへばりついてわーっとやっているかといえば、けっしてそうではなくて、ほとんどビール飲んでて、行き先はわかんない、みたいな…(笑)。
                 (2003年7月22日 入院中の札幌厚生病院前庭にて談)」


19990304 西村英樹 『夢のサムライ 北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成』 / BALLET MECANIQUE

20040828 西村英樹遺稿集「バックミラー」が届く


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