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20071216 賢者の言葉・芹沢俊介『「オウム現象」の解読』・「オウム現象と子どもたちのこころ」

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 少し宗教のことをからめながら話しますと、ヨーロッパのキリスト教が完全に浸透していく時期が十世紀から十一世紀になるわけですけれども、それ以前のヨーロッパ社会と今の日本社会は同じだという指摘を、阿部謹也という歴史学者がしています。阿部さんが言うには、知らない人同志が集団を作るときに幹事をだれにしようかという問題があると、ヨーロッパやアメリカでは必ず私がやりましょうという自発性に基づいて決めるというんです。欧米ではジャンケンやくじ引きなど見たことがないし、人からも聞いたことがないと言うんですね。ところが日本社会では私がやりますなんて言うと、あいつ、なんか下心があるんじゃないかとか、そういう考え方が出てくるので、それを避けるためにジャンケンをする、くじ引きをするという発想が生まれてきます。阿部さんに教えられたのは十、十一世紀以前のヨーロッパと現在の我々の社会が同じだということです。くじ引きとかジャンケンとかはなにを意味するかというと自分の意志を、例えば神の意志と言ってもいいんですけど、そういうものに預けてしまう発想です。僕らが子どものときに「どれにしようかな、天神様の言うとおり」なんてことをしたんです。わりと民主的な場合でもジャンケンとかくじ引きでやります。僕の知り合いはたくさんの応募者を少数にしぼるときに応募者からきた申込書を投げて決めるということをやった。そうしたら応募者の中にこんな公正さは見たことがないといって感激した人がいたという話をしてくれたんです。それは人間の意志に関わらない超越的なものに決定を預けることになるんだと思います。ヨーロッパでも十、十一世紀以前はそういう審判、神の判断に委ね、頼っていたんだそうです。二人の容疑者がお互いに正しさを争うときに、日本のクカタチ(探湯)のように熱湯に手を突っ込んでやけどをしないとか、そういうことで有罪か無罪かを決めるということは十世紀以前のヨーロッパでも行われていたんだそうです。

 ところがキリスト教が入ってきて、この審判の仕方を徹底して壊していく。キリスト教は内面の罪の告白、つまり告解というものを徹底させていく。自分の内側にあった思い、こういうことをやりました、こういうことを考えましたということを告白させていく。ここは非常に大きい問題になります。

 ミシェル・フーコーという哲学者は、告解が個人を作ったと言います。自分の内面の罪を人に話すことによって、話した自分がその罪を引き受けていくことになります。つまり、罪を告白することと、その罪を引き受けることがそこでぴったり合って、ヨーロッパの中で個人というものが生まれてくると言うんです。これはキリスト教が入ってきて、キリスト教の影響下によって個人が生まれたということになります。ところが日本だと世間というある集団があって、たとえば幹事を決めるときにみんなの顔が潰れないような形で決めることになります。だからジャンケンとかくじで、恨みっこなしという形で決着がつく。こういう審判のようなものが通用している社会というのは社会じゃなくて世間だというのが阿部謹也さんの考え方です。阿部さんは日本には個人がないから社会がない、世間しかない、そうすると今の日本はヨーロッパの十世紀以前だという言い方をしています。これはおもしろい見方だと僕は思いました。

 今、新聞やテレビではオウムや麻原彰晃をやっきになって叩くという姿が続いています。彼らが悪い奴でどんなことをやってきたかを僕らは延々と読まされ、映像で見せられているのです。そのなかで奇妙だと思うのは、犯罪と罪という問題がきちんと分けられていないことです。キリスト教では犯罪と罪は分離されています。犯罪というのは社会性の問題で、だれかがだれかを殺したというような、被害・加害の関係が表面化したものを犯罪と呼んでいます。他方、罪というのは内面の問題です。キリスト教の登場によって、犯罪と罪は分かれるわけです。罪は内面にあるという考え方は新約聖書を読めば際限なく出てきます。僕の好きな聖書の箇所を紹介したいと思います。イエスのもとにパリサイ人が一人の女を引っ立ててきます。この女は姦淫を犯した、モーゼの十戒では姦淫をなしたものは石で打ち殺せとなっているけれど、あんたはどう思うかとイエスに問いかけます。そのときイエスはしゃがみこんで地面になにか書きながら、この中で罪がないと思っている人は真っ先にこの女を石を持って打てと言います。そうするとパリサイ人が一人、二人といなくなり、ついに一人もいなくなってしまった。イエスに「どうした」と聞かれて女が「みんないなくなりました」と答えると、「そうか、これからは罪をなさないように」とイエスが言うんです(ヨハネの福音書)。

 女は姦淫という罪を犯した。パリサイ人が信仰している古いユダヤ教の戒律によれば、これは石で殺されたってしょうがない罪なんです。イエスはだから彼らのなかで罪がないと思ってるやつから順番に石を投げろという。しかしだれひとり女に石を投げられなかった。これが何を意味するかというと、外面の犯罪に対して内面の罪に非常に大きな意味を置いたことになります。聖書の思想がそうなんです。新約聖書に姦淫の心をもて女性を見たということはすでに姦淫したのと同じだという言葉が出てきます。それは、要は内面の問題は外側の罪の問題とは独立したもので、イエスは内面の問題にずっとウェートを置くようになった。そういう意味を持っていると理解すればいいと思います。内面の広大な領域に支配権をおよぼそうとすれば、こういう箇所を利用すればいいのです。我々が人を殺したいと思ったり、あの女を犯したいと思ったりする気持ちを持てばそれだけで罪なんだという、そっちの方がずっと社会犯罪よりウェートが高いということをイエスが言っている。告解の義務化は、その内面の支配を意味します。それがおそらくキリスト教がもたらした最大の問題の一つになります。

 社会的な犯罪と内面の罪とを我々は分離して、それぞれを独立して扱わなければいけないということ、これが近代法の達成点です。こういうオウムのような宗教事件、宗教がらみの事件を論ずるときにはそこを十分踏まえた上で、罪と犯罪、内面と社会性の問題は独立した問題として論じなくてはいけないし、またその上でそれぞれの関連性をつめるということが重要な手続きになってくるはずです。ところがそこがなかなか難しいというのが今の状況です。
(後略)」


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