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20080106 賢者の言葉・中野翠 「さようなら<狐>」・@山村修 『書評家<狐>の読書遺産』

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 山村修 『書評家<狐>の読書遺産』 (文春新書 2007)より、巻末の中野翠 「さようなら<狐>」を全文引用。
 <狐>=山村修さんは『文学界』とかかわりが深かった。二〇〇三年から今年七月、つまり亡くなる直前まで<狐>名儀で「文庫本を求めて」と題する連載書評を執筆していた。読者には十分なじみがあったろう。一九八一年に<狐>の名で『日刊ゲンダイ』の書評コラムを書き始めて以来の、四半世紀にわたる文筆家としての彼の足跡については今さら私なぞが説明するまでもないだろう。

 私がこれから書こうとするのは、ある奇遇の物語だ。

 発端は、古ぼけた冊子だった。和紙に毛筆で書かれた十数ページの冊子で、「中野みわ子自叙伝――大夢」と題されたもの。中野みわ子(公式にはみわ)は私の父方のひいおばあさんだ。

 みわの父は幕末維新の動乱期に佐幕派だったので、家族は負け組として波乱万丈の運命に見舞われた。その思い出話を親族が聞き書きの冊子にして、みわの喜寿の記念として親族に配ったものらしい。

 一九九三年、私の父がこの世を去った時に遺品の中からこの冊子が出て来た。何気なく読んでみたら、黒船、上野戦争、沼津兵学校など歴史の本の中のできごとが身近な話としてリアルに(女だから衣裳の描写がコマカイ)、描写されているのだった。みわの父は上野戦争の中、幼君を擁して敗走。会津や奥羽の形勢悪化を知り、幼君を城に帰してからは自害を考えながらの逃亡生活。その間、みわたち家族は離散。身分を偽って官軍の目を逃れる日々を送る。一家がようやく再会したのは五年後の明治四年のことだった。みわはやがて、やっぱり負け組だった中野家に嫁ぐ……。

 読み終わった時、ちょっと珍しい種類の興奮に襲われた。一言で言うと「操られている」という感じがしたのだ。

 実はその数年前から私は明治文学に興味を抱くようになっていて、好きな作家の多くが旧幕臣の子弟だということに気づいていた。私は何も知らず、純粋に自分の興味に従って明治文学を読み始めたつもりだった。自分の好き嫌いの感覚は自分だけのもの――自分で育み、作り上げて来たものだと思っていた。けれど、明治文学に惹かれるようになったのも、こうしてひいおばあさんの回顧談を読んだのも偶然ではないような気がした。筋書通りに事が運んでいると思った。何かに「操られている」と感じたのだ。

 あまりに私的な話だからどうかなあと迷ったが、みわの父親が書いた『戊辰後来歴』という手記を入手したこともあり、結局、ひいおばあさん一族の話を書いてしまった。ちょうどある雑誌に人物エッセーを連載していたので、その最終章として書いたのだ、その連載は『会いたかった人』という本になって一九九六年の六月に出版された。

 さて、それから二ヵ月後のある日。未知の人から、(あくまでも私にとってはだが)驚くべき手紙が届いた。私信を公開するのは後ろめたいが、私が要約して書くより断然、臨場感(?)がある。その一部をそのまま書き写させてもらうことにしよう。

 「突然ながら、お便りを差し上げます。匿名で書評などを書いております山村修と申します。ぶしつけとは存じますけれども、以下のような訳がありまして、パソコンを立ち上げた次第です。

 つい先日、私の実家に久しぶりに帰ったときのことなのですが、私の父と、隣に住んでおります兄と、私と、三人で話すうち、父の話が談たまたま黒川正という英学者のことに及びました。私も兄も『ルーツ』には関心が乏しく、父に黒川正が血縁の一人といわれてもピンと来なかったのですが、ふとそのとき、兄が何かを思い出した体で、隣の自宅からご高著『会いたかった人』を持って来るに至って、まことに思いがけないことが分かりました。

 『中野翠さんのひいおばあさんと、われわれのひいおばあさんとは、姉妹である』。兄はそう言い、父は父で、自分の書斎から何と『中野みわ子自叙伝』や『戊辰後来歴』のゼロックスコピー、そして家系図などを持ち出して、われわれに見せるのです。

 その日の午後は、兄も私もこれまでまったく無知であった『ルーツ』について、一挙に知識を得ました。高揚の午後でした。

 もちろん血筋の話は、ややもすれば押しつけがましくも、いやらしくもなります。もしご不快をお感じになりましたら、どうぞお許し下さい。ただ私としては、中野さんの御文章にある『操られている』という不思議な感覚を私もまた肌身にもった、という思いがするものですから、こうしてあえてお手紙を書かせていただきました」

 というものだったのだ。その山村さんが、あの<狐>であることを知って、さらに驚いた。こわい批評家として気になる謎の人物だったから。

 文中の黒川正はみわの兄。山村さんのひいおばあさんはみわのすぐ下の妹ゑいなのだった。官軍から逃げ回っていた頃は、みわは十歳、ゑいは三歳だった。ザッと百四十年近く昔の話。女同士だから嫁いでしまえば縁はどんどん薄くなって行ったろう。そのまま何十年かが過ぎ、それぞれ知ることもなく暮らしていた血縁同士が、ふと同じ文筆の世界にさまよい込んでいて、一冊の本がもとになって「再会」したのだ。それはなかなか奇妙な気分だった。

 その年のうちに、山村さんのお父さんは亡くなった。私もまた山村さん同様、血筋の話に押しつけがましさやいやらしさを感じがちな人間だけど、やっぱり思い切って『会いたかった人』に書いてよかったのだと思った。

 その後、何度か<狐>の兄弟と会った。遠い血縁だというのに、最初から旧友のように感じた。まんざら私だけの思い込みではないと思う。山村さんはやがて山村修名儀で『禁煙の愉しみ』『気晴らしの発見』というエッセー集を出版したが、それらを読むたび、おこがましいようだが、私は旧友感を深めたのだ。

 『気晴らしの発見』では「私の青空」と題して憧れの青空イメージについて書いている。山村さんにとって、それは神や仏に代わる救済のイメージなのだった。実は私も青空にそんな思いを託していて、過去に『私の青空』というタイトルの本をシリーズで三冊、出版していた。偶然とは思わない。また、山村さんは同じ本の中でイッセー尾形の「切実にして、なおかつ陽性」な笑いについて語り、演出家・森田雄三さんのワークショップに参加した体験記まで書いている。イッセー尾形の舞台の熱心なファンなのだった。私もデビュー直後からイッセー尾形の舞台を見続けて来た。やっぱり偶然とは思わない。

 自分の著作についてはあまり語らない人だったが、珍しく二年前の秋に「今度、『文学界』に謡曲のことを書いたので読んでほしい」というおたよりをいただいた。謡曲には興味が薄かったのだが、「謡曲を読む愉しみ」と題されたそのエッセーにはシビレてしまった。特に「松虫」という作者不詳の曲についてのくだり。松虫の音に誘われた青年が草露の中で死に、それを悲しんだ友も自害して果てた――それだけの物語。それを山村さんは「その死は、いわば死の芯をなす死です。意味という意味、価値という価値を、ぎりぎりまでこそげおとした死です。/凄惨な感じはありません。いっそ清涼たる死です」と書いているのだ。その味わい方の深さに私はシビレたのだ。

 そのエッセーはこの八月に出版された『花のほかには松ばかり――謡曲を読む愉しみ』に収録されている。読みながら何度も思った。山村さんは一言で言うなら、「深く味わう人」なんだな。生きることの中心が味わうということにある人なんだな。深く味わう力を培ったのは、たぶん死に対する強くて鋭敏な感受性なのだろう、と。

 八月十四日。<狐>兄からの電話でその死を知った。肺ガンの治療も順調で、勤め先を辞めて本格的に文筆活動に入り、『<狐>が選んだ入門書』と『花のほかには松ばかり』があいついで出版されたばかりだったのだが……。でも、山村修さんは幸せな五十六年を生きたと思う。たくさんの書物をはじめ、愛するものを、そして自分のいのちを、誰よりも深く味わって生きたのだから。さようなら<狐>。私はもうしばらくこの世に残って、<狐>好みの青空を探す。
     (『文学界』二〇〇六年十月号)

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