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20080113 賢者の言葉・「匠のこころ―型絵染め作家・芹沢銈介」・@堀尾真紀子 『画家たちの原風景 日曜美術館から』

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 堀尾真紀子画家たちの原風景 日曜美術館から』 (日本放送出版協会 1986)より、 「3 匠のこころ―型絵染め作家・芹沢銈介」中の「すこやかな美をもとめて」中の「衆生の伴侶」を引用。
 衆生の伴侶
 結婚後、県立工業試験場の図案科に勤めるかたわら広告図案の懸賞に応募しては、数々の賞をさらった。図案のほかにも、木工や漆などの工芸デザイン、室内装飾ショーウィンドーの飾り付け、子どもの絵本、写真など、さまざまなことを手がけた。若い頃のこの経験は、芹沢の後半の幅広い仕事の基盤となっているようだ。
 この当時、彼は雑誌『白樺』を時々目にしていた。『白樺』は文芸雑誌であったが、さまざまの美術、工芸を紹介していた。彼は特に、富本憲吉、バーナード・リーチなどの作品に惹かれたという。この『白樺』の同人の一人に柳宗悦がいた。『白樺』の影響で、芹沢は、朝鮮への美術紀行を思いたつ。その船の中で、彼は、民芸運動の創唱者、柳宗悦の『工芸の道』を読んでいたく感動した。
地に咲けよと、天から贈られた
その 花のひとつを 今し工芸と私は呼ぼう。
それは貴賎の別なく、貧富の差なく
凡ての衆生の伴侶である
 民芸の美を高らかに提唱した柳宗悦の言葉である。
 「自分では考えてもいなかったことが書かれてあり、まるで天から啓示をうけたようだった。」
 と、芹沢はそのときの感激を語っている。
 その頃、工芸といえば、貴族社会の工芸、いわゆる「上手物」だけをいい、名も無い工人が庶民の生活用具として量産した雑器「下手物」は、美の対象にはならなかった。しかし、生活に直結したそれらの雑器にこそ、健康で力強い工芸本来の美しさがあるという考えを、はじめて世に問うたのが『工芸の道』だった。それまでの「下手物」というよび名は語感が強すぎ、歪んだ誤解もつきまとうので、何か、その価値と美しさを正しく伝える新しい用語が必要であった。そこで、柳と、陶芸作家の浜田庄司、河井寛次郎が討議し、民衆的工芸をちぢめて「民芸」と名づけたのである。彼らはその考えのもとに、全国を行脚して、消えゆく民具の中から美しいものを蒐集し、昭和十一年、駒場に民芸館を建てた。以来、ここは生活を問い直すよすがとなっている。
 芸術全般について言えることであるが、工芸はその性質上、時代と共に、豊かですこやかなとき、病めるときとさまざまだ。洗練、精緻を極めた江戸時代中気以後の工芸品は、技術を追うあまり生気を失いつつあった。そして明治になると近代化の波に押されて、次第に創造性に欠けるようになる。そんな中での民芸運動は、上手物だけのやせ細った工芸の世界に、下手物の野性的力を吹き込むことによって、大地から養分を吸い上げる役割を果したのではないだろうか。そして骨太い構成力と、においたつような健やかさをとり戻し、現代の工芸に背骨を通したように思われてならない。『工芸の道』も深く感銘したころ、芹沢は柳に会った。柳は三十七歳、芹沢は三十一歳であった。柳の芹沢に寄せる信頼はたいへん厚く、彼もまた『工芸の道』の理想の実現を、自分の一生の仕事にできたらという思いは強かった。以来、柳宗悦は芹沢にとって生涯の師となった。後年、彼は、「私は、心の中ではいつでも柳先生を相手に作品を創ってきた。」(「新人国記」『朝日新聞』一九八一年四月六日)と言っている。
 芹沢にとってもうひとつの大きな出会いがあった。上野の博覧会で目にした沖縄の紅型である。
 「堅固なその型、確かなその構図、華やかな色、楽しい配色、晴れやかな持味、底にある深さ、静けさ、思えば紅型を慕い紅型を追って今日まできました。」(『芹沢銈介全集』月報三、一九八〇年十月)
 以来、芹沢は、静岡の紺屋に足繁く通い、古来の型染めの技法を夢中で習得した。静岡は、唐草模様や印半纏、のれんなど、染め物の伝統をもつ土地柄であった。そして、昭和四年、三十四歳のとき、国画会に「杓子菜文藍絹紬地壁掛」を初出品しN氏賞を受賞、以後、毎年出品する。
 翌々年、柳宗悦を中心として、雑誌『工芸』が創刊され、芹沢はその表紙を一年にわたって受け持った。その型染め布表紙は、後に数多く手がけることになった装幀の仕事への端緒となっている。芹沢の装幀は高い評価を得ている。それぞれの書物の顔とかたちを妨げることのないよう、饒舌にすぎず、寡黙にすぎず、ここにも芹沢の身上である見事な調和が保たれている。『絵本どんきほうて』を芹沢に依頼した英文学者、寿岳文章が、柳宗悦のもとに集まっていた装幀を手がける二人――芹沢と棟方志功について、比較をしている文章がある。
「(芹沢の装幀のたいへんな労苦は)そこまでやらなくてもと人に思わせるが、結果としては少しもわずらわしい感じを与えず、本文をひきたてる楽しい伴奏となっているのは、部分と全体、本と末の調和について、芹沢君ほどきびしく規制する人は当代稀だからである。……芹沢君は、美しいものを作るのに無上の喜びを覚える人、何を作っても、美しくしか作れない人、作ろうとする対象が何であれ、そこに自分のもっているもの全部を打ちこまねば気がすまぬ完全主義の人、と断言して憚りあるまい。」
 それに対して一方の棟方を、
「(棟方の装幀は)騒々しくて、気が散って、書物の構成で一番大切な求心性が結像しない。棟方は元来、静かな書物の世界とは無縁の衆生なのである。」(寿岳文章「芹沢装本覚え書」『文芸春秋デラックス・芹沢銈介の世界』 一九七八年三月)

と言っている。
 柳宗悦の甥、工芸家の柳悦孝は、こう思い出を語っている。
「棟方さんといえば、私の叔父の柳宗悦は棟方さんのことになると面と向っても、口をきわめて褒めるんでるよね。ところが芹沢さんのことを誰かに紹介するような場合には、まあいわば地味な紹介の仕方をするわけです。それはどうしてだろうかと、あるとき叔母に尋ねましたら、芹沢さんは、棟方さんのような派手な褒め方をしたら恥ずかしがって帰っちゃうっていうんです。それにちょっと一言いえばすぐに通じる、こちらの思うところを充分に感じてくれる方だから、とも言ってました。」(『芹沢銈介全集』月報八、一九八一年三月)

 柳宗悦は、自分のもとに集まってきたこの二人の対照的な性格を知りつくした上で、それぞれの天分が十分発揮できるよう、心をくばっていたのであろう。

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