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20080217 賢者の言葉・杉本博司・「人にはどれだけの土地がいるか」

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 杉本博司 『苔のむすまで time exposed』 (新潮社 2005) より、
 「人にはどれだけの土地がいるか」の一部を引用。 
 「火もとは、樋口富の小路とかや、舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙に咽び、近きあたりはひたすら焔ほを地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切れたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現し心あらむや。或は煙に咽びて倒れ伏し、或は焔にまぐれてたちまちに死ぬ」(『日本古典文学大系・方丈記 徒然草』岩波書店より)

 これは安元3年(1177年)4月28日の夜、都の3分の1を焼失した大火の模様を伝える鴨長明によるレポートである。

 長明は、名門と言える下鴨神社の社司の子として生まれ、自分も社司として任命されることを当然のこととして育った。またこの人は、多才な文化人でもあった。ところがその才能がちょっとしたことで裏目に出てしまう。長明は琴の名手だった。しかし和歌には和歌の家、蹴鞠には蹴鞠の家があるように、琴には琴の家がある。ある日、宮中で門外不出の琴の秘曲が奏でられた。同席していた長明は、1回聴いただけでその曲を暗記してしまった。そしてあろうことか、ある夜、友の前でこの曲を披露してしまったのだ。噂は洩れ伝わり、長明は訴えられることになる。こんなことから長明は、宮廷文化人サロンから追放同然の扱いを受けてしまう。

 長明は好むと好まざるとに関わらず、世を捨てるという身の処し方を余儀なくされるが、そうなってしまえばしまったで、今度はそれを楽しもうという、逆説発想転換に及ぶこととなる。そしてその生き様が、名作「方丈記」を生むこととなるのだ。かの有名な冒頭部分。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」

 ここには、日本文化のエッセンス「もののあわれ」と仏教的な諦観が短い文章の中に見事に凝縮されている。長明は我が身の不幸をバネとして、ある種の悟りに至ったのだ。

 長明は自分が生きていくためには、方丈(四畳半)の広さの仮小屋さえあればよい、「旅人の一夜の宿をつくり、老いたる蚕の繭を営むがごとし」と言う。心にかなわぬことがあれば、小屋をたたんで他の場所に移りゆく。財産があれば盗賊の難に遭うし、官禄があれば人がその地位を狙う。私にはもとより妻子もなければ何もない。「何に付けてか執を留めん」という、なかなかにいさぎよい思い切りである。

 10年ほど前に私は、鴨長明の方丈跡を探し訪ねたことがある。京都の醍醐寺より南に下ると、日野富子の出生の地である日野という里がある。里はずれに、齢を重ねた公営住宅が並び、その裏手から山に入って行く。しばらくすると、現代文明の痕跡は見えなくなり、辺りはだいぶ深閑としてくる。渓流というほどでもない小川に沿って登って行くと、川沿いに四畳半ほどの石畳が目に入る。傍らに石碑があり「鴨長明方丈跡」とある。「方丈記」の中に、長明自らがこの場所を描写した箇所がある。

 「その所のさまをいはば、南に懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。林の木ちかければ、爪木をひろふに乏しからず。名をと山といふ。まさきのかづら、跡埋めり。谷しげけれど、西晴れたり。観念のたより、なきにしもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方に匂ふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋はひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし」

 まず生きて行くために、必要な清らかな水がある。周りの雑木林で薪にする爪木をひろうのに不自由はない。谷はつる草などが道を埋めるほどに茂っているが、西の方は開けて、西方浄土を観想することもできないことではない。春は藤の花が匂い、夏は郭公が鳴いて死出の旅路へ発つ時は、案内をしてくれると約束してくれる。秋はひぐらしの声、はかないこの世を悲しむほどに聞く。冬は雪、自分の心の迷いのように積もっては消えていく。

 長明がここに住んでから800年余り。周りを見渡してもその通りで、石碑がある他は何の違いもない。私は、逆浦島になった気がした。

 ワールド・トレード・センターの建っていたマンハッタン島は、1626年にオランダ西インド会社総督ピーター・ミヌイットが、インディアンとの交渉によって、物品と交換したということになっている。交換された品物は、布地、やかん、ビーズ、短剣であった。当時のインディアンが、土地の所有意識を持っていたかどうかは疑わしい。オランダ人はここをニューアムステルダムと名づけ、今のウォール街の辺りが、インディアンの襲撃を防ぐための城壁になっていた。当時の人口約300人。その後、1664年の英蘭戦争の結果。統治権がイギリスに移り、この地はニューヨークとよばれるようになり現在に至る。

 この島が大きく変貌を遂げるのは20世紀に入ってからである。たった1マイル四方ほどの土地に、世界中の資本が集まってしまったのだ。資本は商品を生むための血液である。私は今ではアーティストだが、大学時代は経済学部の学生だった。マルクスの資本論はこうはじまる。

 「資本主義的生産様式の社会の富は、商品の集積として現れる」。そして商品には使用価値と交換価値があり、この交換価値を測るために貨幣が生まれた。このように、資本論は価値論からはじまる。どうして1枚の紙キレが1万円の価値を持つのか。一体、価値とは何なのか。私にとっては目から鱗の落ちるような本だった。その後、共産主義は実験に失敗し、この本もすっかり評判を落としてしまった。しかし、権力はいつの時代でも理想を悪用するものなのだ。ソクラテスは「悪法も法なり」と言って毒杯を呑んだ。マルクスは晩年「私はマルキストではない」と言っていた。どんな理想も裏切られる運命にあるのだ。一体、この話はどこへ行くのだろうか……。

 こうしてマンハッタンには世界中の資本が集積していった。建築は空へ空へと伸び、20世紀特有の都市が現れた。この現象はニューヨークからはじまったが、20世紀の後半には、世界中の都市が模倣をして、今では東京をはじめ、中国や東南アジアの都市までも巻き込んでしまった。

 20世紀初頭、ヨーロッパでは様々なアヴァンギャルド芸術の試みが花咲いた。ダダ、未来派、デ・スティール、構成主義……。建築もそれらの運動と連動していた。19世紀までの人間の住まい方は、基本的には信仰を中心に成り立っていたと言ってもよい。装飾も、神の荘厳を演出するために発達したとも言える。しかし20世紀になって宗教の影響力は格段に弱められ、最先端を求める建築家たちは、神なき世にいかに住まうかと見いださなければならなかった。

 こうしてモダニズムの建築は生まれた。装飾がないことが装飾であるような、住みにくいことが住みやすいような……。ル・コルビュジェ、グロピウス、ミース、テラーニなど、第一次世界大戦が終わって、つかの間の平和が訪れたころ、新しい思想、新しい表現、新しい才能が競い合っていた。また、世の中はフォード方式の大量生産時代を迎えようとしていた。テーラー主義と言われる新しい物のつくり方について、1917年の手紙でル・コルビュジェはこう述べている。

「明日の恐ろしくて避けられない生活」

 私は未だかつて、人類が体験したことのなかって、このような大きな生活の変化、モダニズムの誕生とその展開を、実際に建てられた記念碑的建築物から遡って検証してみようと思い立った。撮影された映像は、大型カメラを使っているにもかかわらず、すべてボケてしまった。これは私のカメラの焦点を無限大の倍という点に、無理やり機械的に設定したことによってボケだのだ。この世にはないはずの、無限よりも倍も遠い所を覗こうとして、ボケをかまされたとでも言っておこう。

 建築家は仕事を始めるに当たって、まずその建築のあるべき理想の姿を思い浮かべる。次第にプランが出来、図面が描き上がり、工事がはじめることには、政治資金規制法のように当初の理想はザルからこぼれ落ちてしまう。理想が現実と妥協した結果が、建築物なのだ。どれくらい現実との妥協に対抗できるかが、一流の建築家であることの証となる。言い換えれば、建築物は建築の墓なのだ。その建築の墓に、無限の倍の焦点を当ててみると、死んでも死にきれなかった建築の魂が写っていることがある。私はシカゴの現代美術館で、この建築念写写真展を開催した。

 話を元に戻そう。インディアンから土地を買う話を、もうひとつ思い出した。中学の国語の教科書で読んだ話で「人はどれだけの土地がいるか」というタイトルだった。

 ある男がインディアンから土地を買うことになった。見渡す限りの広大な大地だ。酋長は「太陽が昇ったときに出発し、日没までに帰ってくる。歩けるだけ歩いて3箇所に目印の杭を打つ。その四辺で囲んだ土地がお前の土地だ。ただし、日没に間に合わなければ金は没収する」と言う。

 男は次の日、勇んで丘の上からインディアンに見送られ、日の出とともに出発した。昼前に最初の杭を打ち、直角に方向を変える。2本目の杭を打とうとすると、ちょっと先に耕作に適した湿地帯が広がっていた。男は歩幅を広めて、湿地帯の向こう側まで廻ることにする。大分疲れてやっとこさ3本目の杭を打とうとすると、今度は最高の牧草地が現れた。男はますます歩みを速めてこの牧草地を廻った。日は傾きかけている。男は焦り走った。やっと丘のふもとまで辿り着いたとき、太陽は半分沈んでしまっていた。ふと丘の上を見上げると酋長が大きく手招きをしている。そうだ。丘の上にはまだ陽があるのだ。男は最後の力をふりしぼって丘を駆け上がった。

 「間に合った」と男は思った。やっと土地を手に入れたのだ。幸福感に浸って男は死んだ。酋長はこの男を不憫に思って、自分の手に入れた土地に穴を掘って埋めてやった。この男には、自分の体が入る広さの土地だけが必要だった。

 鴨長明には方丈が必要だった。世界の資本は1マイル四方のマンハッタン島で足りた。インディアンから土地を買った男には、墓穴だけが必要だった。果たしてあなたには、どれだけの土地が必要だろうか。

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